1月18日(日)

晴れてます。雨は降らない。

  「あれ、蜻蛉が」お米膝つき手を合す裏の山には風が通る

  提灯は墓石に寄せ糸枠の柄にかけ下山する男女二人に

  裏山の風一通り赤蜻蛉(そつ)と動いて女の影‥…二人

『孟子』離婁章句上72 孟子曰く、「道は爾きに在り。而るに諸を遠きに求む。事は易きに在り。而るに諸を難きに求む。人人其の親を親とし、其の長を長とせば、天下平らかなり」

  親は親、長者は長者と尊べば天下平らかに治まるべし

川本千栄『土屋文明の百首』

春の日に白鬚光る流氓一人柳の花を前にしやがんでゐる 『山下水』

<春の日に、白い鬚が光る老いた流民が一人、楊の花を前にしゃがんでいる。>

「流氓」は居場所を失って他郷をさすらう民、ここでは文明自身を指す。まだ五十五歳であったが当時は老人と考えられる年齢だ。「白鬚」に自身の老いが痛感されている。春の日と柳の花が暖かく柔あらかいために、流浪者の孤独が一層際立つ。多くの明るい農の歌の中に、ふと見せる違う一面だ。漢語調の上句、十音の四句の次に、結句は「~している」という口語体の六音で、つぶやくように終える。硬軟の取り混ぜ方が絶妙な文体だ。

鳥籠に寄り立つ人の父を見る万の戦死者の親かくありや 『山下水』

<(戦死した息子が生前飼い馴らしていた野鳥斑鳩の)鳥籠の傍らに寄って立つ父親を見かける。何万もの戦死者の親もこのように死者を思っているのではないか。>

「斑鳩」五首は短編小説の趣だ。次の歌で、父親は鳥を野に放つ。天にいる息子の所へ飛んで行って欲しいと思ったのだろう。しかしそれは人間の空想であって、現実の鳥は慣れた鳥籠に戻って来た。鳥は息子のところへ行かないし、息子は二度と帰って来ないなだ。今日も父親が歩いているのを見かける。文明や村人たちは再び響き通る斑鳩の声を、静かに聞くしかないのだった。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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