4月21日(火)

朝方小雨、以後曇り、晴れ。

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  能登国一ノ宮・気多大社の鳥居の前あゝあはれにも転倒したり

  タクシーを下車すれば傾斜激しくて案の定転ぶ足弱のわれ

  それほどの深手は負はねど頭骨も打てばいささか心をも打つ

『孟子』万章章句下134-3 舜 (しやう)して帝に(まみ)ゆ。帝、(せい)弐室(じしつ)(くわん)し、亦舜を(きやう)し、(たがひ)(ひん)(しゆ)と為る。是れ天子にして匹夫を友とするなり。(しも)(も)つて(かみ)を敬する、之を(き)(たふと)ぶと謂ふ。

上を用つて下を敬する、之を賢を尊ぶと謂ふ。貴を貴び賢を尊ぶ、其の義(いつ)なり」と。

  賢を尊ぶも貴を貴び賢を尊ぶも其の義一なり

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『梁塵秘抄』植木朝子編訳

御馬屋(みまや)の隅なる(かひ)(ざる)は (きづな)離れてさぞ遊ぶ 木に登り 常磐の山なる(なら)(しば)は風の吹くにぞ ちうとろ揺るぎて裏返る  (四句神歌・雑・三五三)

【現代語訳】お馬小屋の隅にいる飼猿は、綱を離れてあんなに遊んでいるよ。木に登ってね。常磐の山の楢柴は、風が吹く度にチウトロと揺れて裏返るのさ。

【評】貴族あるいは武士の広い屋敷の様子を、背後の常緑樹が茂る山の風景とともに歌った一首。前歌(→三五二)は馬のたくさんいる武士の邸宅の庭で繰り広げられる芸能に焦点を当てていたが、当該今様は厩舎に飼われている猿から屋敷周辺の山へ、あたかもカメラを引いてゆくようにして鮮やかな映像を浮かび上がらせる。

厩舎に猿を飼うと、馬の病気を防ぐと信じられ、『石山寺縁起絵巻』『一遍聖絵』などの絵巻物を繙くと、厩舎の柱に繋がれた猿の姿が散見する。しかし、当該今様の猿は綱を離れて屋敷の庭の木に登り、自由に遊んでいるらしい。のびやかでほほえましい風景である。猿は人間に近いこともあって最も擬人化されやすい動物と言えるが、伝統的な和歌の世界では、木に登ったり、枝の間を機用に移動したりする猿の動きにはほとんど注意が払われていない。漢詩の影響から、もっぱらを哀愁に満ちた鳴き声が聴覚的に表現され、猿の動きを「遊ぶ」と捉える今様とは対照的である。

「常磐の山」は常緑樹の茂る山。京都市右京区常盤付近の丘を指す歌枕でもあるが、ここでは固有の地名ととらなくてもよいであろう。松などに代表される、変わらぬ縁は、祝賀の気分も含んでおり、「常磐の山」を歌うことで、のどかで平和な屋敷とその主人を寿ぐこよにもなっている。「楢柴」はコナラの異名。ブナ科の落葉高木で、各地の山野に生える。「楢」は広義では、コナラ、ミズナラ、ナラガシワなどの総称であり、狭義ではコナラを指す。この、楢柴や楢についても、和歌においては、風や雨・霰によって葉がたてる音、あるいはその音から感じられる清涼感や寂寥感に中心があり、聴覚的な把握が主であって、この今様が「ちうとろ」という擬態語を使って風に翻る楢の葉を視覚的に捉えるのとは異なっている。このように動植物の動きに興味を寄せ、その視覚的な面白さを歌うのは今様の一つの特徴と言える。

4月20日(月)

今日も晴れです。

  荒御魂 二つあひよる み墓山 わが哀しみも ここに埋めむ 弘彦

  墓処(ぼしよ)の前にタクシー降りてまづ(むか)ふ。岡野弘彦の鎮魂の碑

  父子墓荒れたる二人のたましひの鎮まりいませ。能登羽咋の地

『孟子』万章章句下134-2 (ただ)百乗の家のみ然りと為すに非ざるなり。小国の君と雖も、亦之有り。(ひ)(けい)(こう)曰く、『吾、子思(しし)に於ては、則ち之を師とす。吾、顔般(がんはん)に於ては、則ち之を友とす。(わう)(じゆん)長息(ちやうそく)は、則ち我に(つか)ふる者なり』と。惟小国の君のみ然りと為すに非ざるなり。大国の君と雖も、亦之有り。(しん)(へい)(こう)(がい)(たう)に於けるや、入れと云へば則ち入り、坐せと云へば則ち坐し、食らへと云へば則ち食ふ。疏食(そし)(さい)(かう)と雖も、未だ嘗て飽かずんばあらず。蓋し敢て飽かずんばあらざるなり。然れども此に終はるのみ。与に天位を共にせざるなり。与に天職を治めざるなり。与に天禄を食まざるなり。士の賢を(たふと)ぶ者なり。王公の賢を尊ぶに非ざるなり。

  士が賢者を尊ぶやり方は多かれど王公が賢者を尊ぶではない

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『梁塵秘抄』植木朝子編訳

上馬(じやうめ)の多かる御館(みたち)かな 武者(むさ)(たち)とぞ覚えたる 呪師(じゆし)小呪師(こずし)肩踊(かたをど)り (きね)は博多の(をとこ)
(みこ)    (四句神歌・雑・三五二)

【現代語訳】立派な馬の多いお屋敷だなあ。武士のお屋敷と思われるよ。呪師や小呪師が肩踊りをしてさ、神楽舞を舞う巫は博多の男巫だよ。

【評】今まさに勢力を伸ばしつつある武士の屋敷で繰り広げられる芸能を歌った一首。

「呪師」は素朴な演芸を行う芸能者。本来は寺院の法会において加持祈禱などの密教的行事を司る法師で、法会の後には雑芸を行ったが、やがて芸能化が進み、寺院からも自立した。当該今様で歌われている呪師はそうした芸能化の進んだ後のものであり、武士の屋敷に招かれて肩踊りを披露しているのであろう。小呪師は少年の呪師を指し、肩踊りは、少年が大人の肩の上に乗って演じる芸を言うものと思われる。鎌倉時代前半に成立した説話集『宇治拾遺物語』七八話には「呪師小院といふ童」が「肩に立ち立ちして」、見る者を驚かせたという記述が見られる。中国伝来の舞楽や雑芸を描いた『信西古楽図』(平安時代末までには原画が成立していたとされる)には、「四人重立」として大人の肩の上に子どもが立ち、さらにその子どもの肩の上に別の子どもが乗り、さらにもう一人の子どもが乗って、四人が重なって立つ様子が描かれている。また、「柳肩倒立」として、一人の肩の上にもう一人が逆立ちをしている図がある。

「博多の男巫」の「博多」の所在については、河内国(現在の大阪府南部)、和泉国(現在の大阪府南部)、伊予国(現在の愛媛県)、筑前国(現在の福岡県北部)など諸説がある。神に仕える巫(「きね」「かむなぎ」ともいう)は本来、女であるが、承平年間(九三一~九三八)に成立した辞書『和名類聚抄』には「覡」を「をとこかむなぎ」と読んでいて、男の巫も存在した。

呪師のアクロバティックな芸に加え、女ではなく男巫の神楽舞を取り合わせることで、武士の屋敷らしい、勇壮な男の世界を描き出していると言えよう。

4月19日(日)

朝から晴れ。父の墓へ、妻に連れて行ってもらった。

羽咋

  寂しげなる折口信夫と春洋の墓。若干(そこばく)の賑やかしにでもなるか妻と吾

  春の日にうかれてどこかはなやげど信夫・春洋の沈黙の声

  こんなにも明るくはなかつた墓処(はかど)なり。段まで造るにわれは難儀す

『孟子』万章章句下134 万章問うて曰く、「敢て友に問ふ」と。孟子曰く、「(ちやう)(さしはさ)まず、(き)を挟まず、兄弟(けいてい)を挟まず、而して友たり。友なる者は、其の徳を友とするなり。以て挟むこと有る可からざるなり。孟献子(まうけんし)は、百乗の家なり。友五人有り。楽正裘(がくせいきゆう)(ぼく)(ちゆう)、其の三人は則ち(われ)之を忘れたり。献子の此の五人の者と友たるや、献子の家を無しとする者なり。此の五人の者も、亦献子の家に有りとせば、則ち之と友たらず。

  友たるはその人格を友とせりかさに着たり鼻にかけたりしてはならず

  むかし魯の賢人・孟献子大夫の家柄なれど五人の友をもち家柄を忘る

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『梁塵秘抄』植木朝子編訳

明石(あかし)の浦の波 浦や馴れたりけるや 浦の波かな この波はうち寄せて 風は吹かねども や小波(さざなみ)ぞ立つ  (四句神歌・雑・三五〇)

【現代語訳】明石の浦の波よ、浦になじんだのだね、浦の波よ。この波は岸に打ち寄せて、風は吹かないけれど、ほら、さざ波が立っているよ。

【評】風光明媚な明石の浦の様子をのびやかに歌った一首。風が吹き波が立つことは、仏教歌謡の中で、しばしば極楽浄土の池の描写として現れる(→一七七)。そのような極楽の風景にも重なるさざ波は、風も吹かないのに立っていると歌う。風が吹かないということで、航海の無事も約束されるような、より穏やかな情景が浮かび上がってくる。一方、さざ波は、しばしば、止むことのない恋心の譬えに用いられる。たとえば、古く、『万葉集』巻四に、

千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波止む時も無しあが恋ふらくは (大伴坂上郎女)
(千鳥のなく佐保の川瀬のさざ波のように止む時もありません、私が恋しく思うことは)

と見える。こうしたさざ波の例を背景に置くと、浦に「馴れ」るという表現とあいまって、一首にほのかな恋の情趣も漂う。波が裏を慕って寄っていく、いつもいつも、風の吹かない時でさえ、恋心のさざ波が立っている、というように、美しい自然を官能的に把握した歌と見ることができよう。(→一一)

4月18日(土)

朝は曇っているが、晴れてくるらしい。

  瑠璃色のカップ一杯の酒を飲むいにしへ人に変身をして

  (うは)(ばみ)のやうに酔うたるわれならむ翌日の朝も呆けてゐるか

  蟒蛇とは大酒飲みのことをいふ大蛇のごとき姿(なり)してゐるか

『孟子』万章章句下133-7 耕す者の(う)る所は、一夫(いつぷ) (ひやく)(ぽ)なり。百畝の(ふん)上農夫(じやうのうふ)は九人を(やしな)ひ、上の次は八人を食ひ、中は七人を食ひ、中の次は六人を食ひ、下は五人を食ふ。庶人の官に在る者は、其の禄、是を以て差と為す」と。

  農夫は百畝を受けとるが上中下ありすべて五等の等級により定めあり

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『梁塵秘抄』植木朝子編訳

備後(びご)の鞆の島 その島島にて島にあらず 島ならず (にし)なし栄螺(さだえ)なし(せ)(い)もなし 海人の刈り乾す若芽なし  (四句神歌・雑・三四九)

【現代語訳】備後国の鞆の島、その島は島であって島ではない、島ではないよ。巻貝もなければ、栄螺もない、石華もない。漁師が刈り取って干す若芽もないのさ。

【評】「島」と「なし」を繰り返す軽快な歌。「鞆の島」は鞆の浦(鞆の津とも。広島県福山市南部の海湾)にある島を言うかとする説もあるが、鞆の浦そのもの(海湾)を指すとする通説に従いたい。「島」は古くは、四面を水に囲まれた陸地に限らず、水に面した土地をいうこともあり、『万葉集』には加古川の河口の辺りを「加古の島」といった例(二五三)や、旅の途中で船の碇泊するところを「島」といった例(三五九三)がある。このような例を参照すると、鞆の浦は半島状なので、「島」と言えば言えるけれど、本当の「島」ではないとして、面白おかしく歌を展開したものか。「螺」は巻貝の総称、「石華」は節足動物カメノテ。海岸の岩礁に付着するので「石華」の字をあてる。島ならば当然あるべき、貝や海藻がない、と興じているのである。

さて、この一首を言葉遊びの歌と捉えれば、現実性を問題にする必要はないとも言えるが、実景とすると腑におちないところもある。鞆の浦に螺、栄螺といった貝や、石華、若芽が全くないとは考えにくいからである。あるいは、一つの可能性として、貝や若芽が女性を暗示しているとは捉えられないだろうか。「鞆の浦」は古代から要港としてにぎわい、遊女らも多くいた。『平家物語』巻六「飛脚到来」みは、四国の混乱を鎮めた備後国の住人・西寂が、鞆で遊女たちを呼び集めて酒盛りをしたという記事が見える。一方、『土佐日記』や『催馬楽』「我家」などに、蚫や栄螺などの貝類や海胆が女性を暗示している例があり、若布は若女と音が通じる。水辺の「鳥」なのに、その水辺にいるべき遊女たちがいないではないか、と、彼女らに会うことのできなかった旅人が半分腹を立てながら戯れた歌とも読んでみたい一首である。

4月17日(金)

晴れて暑い。

中島岳志『血盟団事件』読了。文庫本で466ページ、やっと読み終えた。黒川みどりさんの『評伝丸山眞男』を読んだ時も思ったが、丁寧に、それこそ一行ごとに資料に拠る記述は、いかにも社会学者の記述で、なかなかはかがいかない。血盟団といえば井上日召『一人一殺』を学生時代に読んだが、もっと熱のこもったものだった。つまり冷静なのだ。それがこの」論のよい所なのだろう。もっともよかったのは権藤成卿の『自治民範』・社稷の解説である。ここが懇切に説明されている。その他、読みでのある個所はいくつもある。

  ペットボトル、ベコベコ言はせ処分する小さくまとめられ捨てられるのみ

  ペットボトルの蓋を外して蓋のみを容器に捨てる規則に従ひ

  ペットボトルを袋に詰めて捨てにゆくべコベコと手に音立ててゆく

『孟子』万章章句下133-6 小国は、地 方五十里。君は卿の禄を十にし、卿の禄は大夫を二にし、大夫は上士に倍し、上士は中士に倍し、下士は庶人の官に在る者と禄を同じくす。禄は以て其の耕に代ふるに足るなり。

  小国ならば地、方五十里をそれぞれに分かつ

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『梁塵秘抄』植木朝子編訳

小磯の浜にこそ 紫檀(したん)赤木(あかぎ)は寄らずして 流れ(こ)で (こ)(ちく)の竹のみ吹かれ来てたんなたりやの波ぞ立つ  (四句神歌・雑・三四七)

【現代語訳】小磯の浜には、「恋するな」と言われて紫檀や赤木は寄っても来ないで、流れても来ないで、「胡竹の竹だけが「こちらにやって来る」とばかりに風に吹かれて来て、タンナタリヤと笛の音を響かせながら波が立っていることよ。

【評】「小磯」に「恋ひそ」(恋するな、の意)掛け、外来種の竹である「胡竹」に「此方来」(こちらへやって来る、の意)を掛ける。「たんなたりや」は笛の譜を読むとき口に出す律調で、波の音の聞きなしとして笛との関連から引き出されたものであるが、一首に躍動感をもたらしている。言葉遊びの面白さとともに、背景には漂着の竹で作った名笛の伝承があるものと思われる。古くは、『日本書紀』歌謡(継体天皇七年)に、

(こもり)(く)の (はつ)(せ)の川ゆ 流れ来る 竹の いくみ竹よ竹 本辺(もとへ)をば 琴に作り (すゑ)(へ)をば 笛に作り……
(泊瀬の川を流れて来る竹は繁茂した竹、よい竹、その根元を琴に作り、先端を笛に作り……)

とあり、川に流れてきた竹で、琴と笛を作ったとの表現がある。また、(こまの)(とも)(かつ)(一二四七~一三三一)の著した楽書『続教訓抄』には、「海人のたきさし」という笛について、次のような話が見える。

浜辺に流れ着いた胡竹を、海人が塩を焼くのに用いた。ある人がその焼け残りの竹で笛を作ったところ、大変優美な音がした。頭の方が少し焼けていて、ある説では、この笛は鳥羽院の御物であるという。

鳥羽院(一一〇三~一一五六)の所蔵品に、このような笛があったとすると、今様の歌われた時代と重なり、当時よく知られた、まさに今めかしい素材である笛を歌い込んだことになる。『古今目録抄』料紙今様(『古今目録抄』は、法隆寺の僧・顕真が聖徳太子の伝記を収録したものであるが、その料紙として、今様を集めた紙を横に二つに切って用いている。上下を継ぎ合わせることでもとの今様が判読できる)には、

もろこし唐なる笛竹は いかでかここまでは揺られ来し ことよき風に誘われて多くの波をこそ分け来しか
(大唐国、唐の国にある笛竹はいったいどうやってここまで揺られ来たのだろうか。ちょうどよい風に誘われて、多くの波をかき分けかき分け来たのだろうよ)

の一首が見え、当該今様と同じように、中国から漂着した笛竹への興味を歌う。建久五年(一一九四)頃成立した『六百番歌合』において、藤原家房は「寄笛思」の題で、

はるばると波路分け来る笛竹をわが恋妻と思はましかば
(遠くからはるばると波路を分けてやって来た笛竹を、私の恋しい伴侶と思えたらよいのに)

という和歌を詠んでいるが、これは藤原俊成の判詞で「もろこし唐なる……」の今様を踏まえていることが指摘されている。この今様の広い流布が知られるのである。こうした波に揺られて来る笛竹のイメージは、人々の興味を引いたらしく、後深草院に仕えた女房の日記『弁内侍日記』には、建長三年(一二五一)一一月の五節における御前の召し(天皇が一芸あるものを御前に召してその芸をご覧になる儀)で、複数の殿上人が「唐唐なる笛竹 この秋津洲へ流れ来」と囃すと、藤原宗雅が「竹になりて、伏して次第に流れ来るまねして侍りし」とあって、当該今様に類するような歌謡に合わせ、横になって転がり、岸に流れ寄って来る竹の様子を演じた宗雅の行為が、座を大いにわかせたことが記されている。

4月16日(木)

やっと朝から晴れ。

  虫けらのやうだと言はれ納得するわれもまた虫けら夕烏鳴く

  いつまでもつげ義春はつげ義春。その漫画われには永久(とは)なるごとく

『孟子』万章章句下133-5 次国は、地 方七十里。君は卿の禄を十にし、卿の禄は大夫を三にし、大夫は上士に倍し、上士は中士に倍し、中士は下士に倍し、下士は庶人の官に在る者と禄を同じくす。禄は以て其の耕に代ふるに足るなり。

  大国に次ぐ国の場合は、方百里に次ぎ方七十里をそれぞれ分かつ

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『梁塵秘抄』植木朝子編訳

君が愛せし綾藺笠 落ちにけり落ちにけり 賀茂川に川中に それを求むと尋ぬとせしほどに 明けにけり明けにけり さらさらさやけの秋の夜は (四句神歌・雑・三四三)

【現代語訳】あなたが大切にしていた綾藺笠が落ちてしまった、賀茂川の中に。それを求めよう尋ねようとしているうちに、明けてしまった、明けてしまった、すがすがしい秋の夜は。

【評】笠をめぐる恋の歌。「綾藺笠」とは、藺草で編んで作った笠。武士が狩や流鏑馬の折に用いたもので、この笠の持ち主は若き武士であるらしい。一首の表面上の意味をとるのは比較的容易であるが、しかし、この笠を探したのは誰で、どのような状況にあり、いかなる心情を歌っているかということになると、実にさまざまな解釈がなされている。

たとえば、女の気に入っている自分の笠を失っては大変、と若き武士が笠を追いかけまわしている、あるいは、実は恋の口説に明けた一夜の譬え歌かとする説(佐藤春夫)、笠は女の譬えで、見初めた女を探し求めて一夜を明かした切ない男の歌かとする説(渡邊昭五)、武士の従者が主君への忠誠心から、徹夜で主人愛用の笠を探し求めたとする説(塚本邦夫)、笠を探すのは若い男女のデートの口実であって、月明かりの河原を二人で語り合いながら明かしたロマンティックな一夜を歌ったとする説(武石彰夫)、その二人は河原ではなく舟上にいて、女は遊女だったのではないかとする説(新間進一)、恋人の笠を保持することによってもう一度その持ち主に逢えると信じた女が一人で懸命にその笠を探し求めたとする説(馬場光子)、笠を探していたので心ならずも来られなかったという男の弁解とする説(浅野健二)、その言い訳を繰り返して、女が男をからかっていると解する説(吾妻寅之進)などなど。

繰り返しを多用する律調はいかにも軽やかで、どことなく滑稽であり、ほのかなからかいの気分が含まれているように思われる。これまでに提出されている説の中では、女のもとを訪ねなかった男の言い訳を、女がからかいながらもう一度繰り返しているというような解釈が最も説得力のあるもののように思われる。そう考えると、女の男に対するさらりとしたからかいが、前歌(→三四二)に見える、男の女に対するいわば粘着質な執着と対照的に配置され、恋歌の配列としても興味深い。

4月15日(水)

まあ曇っている。やがて雨らしい。

  つげ義春さんが亡くなったという。三月三日だったらしい。享年八十八。

  「ねじ式」に衝撃受けて「無能の人」に深くうなづくわれならむかな

  「紅い花」を好むといふかつげ義春わたしもキクチサヨコに恋す

『孟子』万章章句133-4 大国は、地 方百里。君は(けい)の禄を十にし、卿の禄は大夫を四にし、大夫は上士に倍し、上士は中士に倍し、中士は下士に倍し、下士は庶人の官に在る者と禄を同じくす。禄は以て其の耕に代ふるに足るなり。

  公、侯の大国ではその土地方百里。君、卿、大夫、上・中・下士・庶人それぞれなりき

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『梁塵秘抄』植木朝子編訳

美女(びんぢよう)うち見れば 一本(ひともと)(かづら)にもなりなばやとぞ思ふ (もと)より(すゑ)まで(よ)らればや切るとも刻むとも 離れがたきはわが宿世(すくせ)  (四句神歌・雑・三四二)

【現代語訳】美女を見ると、一本の蔦葛にもなりたいと思うよ。根元から蔓の先まですっかり縒り合されたいことだ。たとえこの身が切られても刻まれても、美女から離れがたいのは私の宿命というものよ。

【評】赤裸々な愛欲の心を歌った一首。木とそれにからみつく蔦草は、しばしば男女の抱擁の譬えに用いられた。古くは、『日本書紀』歌謡(継体天皇七年)に、

妹が手を 我にまかしめ 我が手をば 妹にまかしめ まさき(づら) 手抱(ただ)(あざ)はり…
(愛しい妻の手を私に巻きつかせ、私の手を妻に巻きつかせ、まさきの葛のように抱き合ってからみつき…)

という一節があり、蔓性植物の「まさき葛」が「手抱き交はり」(抱き合ってからみつく)の枕詞として使われている。

今様にも関心の深かった源俊頼(一〇五五?~一一二九?)和歌には、

契ありて這ひかかるとも見ゆるかな蔦や梢の妹背なるらむ (『永久百首』蔦)
(約束があってまつわりついていると見えることだ、蔦は梢と夫婦なのであろう)

とあり、また、時代は下がるが、能「定家」では、藤原定家の執心が蔦草となって式子内親王の墓にからみつき、お互いが邪淫の妄執に苦しんでいるとされる。

当該今様は、燃え盛る愛欲の炎を、能「定家」のように深い罪業として捉えるのではなく宿命として受け止め、むしろ明るく軽妙に歌い上げている。後世の有名な民謡「松になりたや有馬の松に 藤に巻かれて寝とござる」に繋がるような趣を持っていよう。