今日も晴れ。暖かくなるのかも。昨夜は節分、豆を蒔き、追儺、そして福豆を喰う。
若き頃のわたしに似たる青年が自動販売機にいのちを買ふ
まだ暗きに自動販売機のみかがやけりジュースに並んでいのちを売るか
自動販売機にいのちを買ふに嗜みありがちゃんがちゃんと音立てて出づ
『孟子』離婁章句上88 孟子曰く、「仁の実は、親に事ふること是なり。義の実は、兄に従ふこと是なり。智の実は、此の二者を知つて去らざること是なり。礼の実は、斯の二者を節文すること是なり。楽の実は、斯の二者を楽しむ。楽しめば則ち生ず。生ずれば則ち悪んぞ已む可けんや。悪んぞ已む可けんやとならば、則ち足の之を踏み手の之を舞ふを知らず」
孝弟の楽しみ知れば音楽に合わせ手足動かして踊りだすべし
川本千栄『土屋文明の百首』
人の世のゆきゆく様は誰知らむ水の上なる木の葉の如し 『青南後集以後』
<人の世が進んで行く様子は誰が知るだろう、水の上にある木の葉のようなものだ。>
平成元年九十八歳の作。この時期の前後の歌には挽歌が多いが、亡き人を悼む気持ちと共に、残された者の孤独も痛切に歌う。生涯を振り返る目線によって、人生の真理に迫る深い歌が多く詠まれている。
川水の上を流れて行く木の葉は、この世の移り変わりそのものとも取れるし、また私たち一人一人の生とも取れる。その儚さは長い人生を生きた人だからこそ分かるのだ。鴨長明『方丈記』の冒頭部分をも思わせる。
命すぎ何をつくろはむこともなし皮をはぎ肉をすて骨をくだけよ 『青南後集以後』
<命が終り何を繕おうとすることもない。皮を剝ぎ、肉を捨て、骨を砕いてくれ。>
平成元年九十八歳の作。草花に寄せて亡き人を思う抒情的な面と、真骨頂である非情で冷徹な現実主義者の面が、老齢になっても同居していることを再確認させる歌だ。
死んでしまえばその身体はただの物質だ、何も飾り立てることは要らない、私が死んだら死体はこのようにしてくれ、という伝言だ。まるで自分の死体を見ながら言っているようでもあり、感情を交えない口調に、却って鬼気迫る迫力がある。