朝から雨、雨。
ほとばしり咲くは白梅。公園の際に花着け芯から匂ふ
白梅のきはめて低きに咲く花のしかし淫蕩なる香りたゆたふ
足取りをそこなふごとくに梅匂ふ。気分淫蕩なり。その白き花
『孟子』離婁章句下108 孟子曰く、「人の禽獣に異なる所以の者は幾ど希なり。庶民は之を去り、君子は之を存す。舜は庶物を明らかにし、人倫を察す。仁義に由りて行ふ。仁義を行ふに非ざるなり」
舜は庶物の道理に明らかであり人倫をわきまへ仁義に由りて行ふ
『梁塵秘抄』植木朝子編訳
釈迦の御法はただ一つ 一味の雨にぞ似たりける 三草二木はしなじなに 花咲き実熟るぞあはれなる(法文歌・法華経二十八品歌・薬草喩品・七九)
【現代語訳】釈迦の説かれた教えはただ一つで、すべてのものを平等に潤す雨に似ている。雨の恵みを受けて、三草二木それぞれに、花が咲き実を結ぶのは尊いことだよ。
【評】『法華経』薬草喩品で説かれる三草二木の譬えを歌った一首。釈迦は説法を聞いて喜んだ弟子の迦葉をほめ、次のような譬え話を語った。世界にはさまざまな植物がある。雨は一様に降るが、大中小の薬草、大小の樹木はそれぞれに応じて成長し、異なる花を咲かせ、異なる実を結ぶ。そのように、仏の説法は一様に衆生を潤し、素質濃緑に差のある衆生もやがてはそれぞれに悟りを開くことができるのだ。
「一味の雨」」は同一の味の雨がすべてのものに平等に降りそそぐこと。衆生に差別なく恵を与える仏の教えを譬える。経本文に「如来の説法は一相一味なり」「仏の平等の説は、一味の雨の如く」とある。
「三草二木」は大中小の薬草と大小の樹木。経本文には「三草二木」の語はなく、
『法華義記』『法華玄義』『法華文句』など。僧侶が記した『法華経』の注釈書に見られるが言葉が取り入れられている。
「しなじなに」は、それぞれの階層に応じての意。三草二木の成長が異なることは、経本文に「一雲の雨らす所は、その種性に称ひて、生長することを得、華・果は敷け実り」「仏の平等の説は、一味の雨の如くなるに、衆生の性に随ひえ、受くる所同じからざること、彼の草木を稟くる所、各、異なるが如し」とある。
釈迦の教えの平等性を説く薬草喩品の内容を、経典に忠実にまとめた一首であるが、後半二句では、慈雨を受けて花を咲かせ、実を結んだ草木、すなわち悟りに導かれた衆生の立場に寄り添って、その喜びを表現する。薬草喩品を詠んだ和歌の中には、草も木もおのがさまざまにおひにけりひとつの雨のそそくしづくに (『待賢門院堀河集』)
(草も木もそれぞれの種類に応じて成長することだ。等しく同じひとつの雨が降り注ぐのに)
大空の雨はわきてもそそがねどうるほふ草木はおのが品々(『千載和歌集』釈教・源信)
(大空の雨は差別をつけて降り注ぐわけではないが、それによって潤う草木はそれぞれの種類によって異なることだ)
など、同様の発想のものがあるが、今様においては、聞き手を共感とともに巻き込んでいくような「あはれなり」という感情語が効果的である。