今日はいい天気だ。
德田秋聲『縮圖』を德田秋聲記念館文庫版で読む。ネットで取り寄せたものだ。期待通り文章の的確さ。おもしろかった。が、「当局の干渉」で未完というのが残念きわまりない。やはり酷い時代だったのだ。だからこそ芸妓である銀子のたくましい感じが好ましい。そして死にそうな銀子が復活する。どうなるかと思っていただけに、これは嬉しいことであった。以後、銀子はどう生きていくのか。そこを書くことなく未刊。残念とも……
老母が語るオーラル・ヒストリーを妻が聴く。伊勢の女の戦中・戦後
蟠り未だもあれば母の言なにもかにもが嘘臭くして
まだ暗きに自動販売機のみ明るくてジュースが並ぶいのちも並ぶ
『孟子』万章章句上125-2 「敢て問ふ、『或ひと曰く、放す』とは、何の謂ぞや」と。曰く、「象は其の国を為むること有るを得ず。天子、吏をして其の国を治めて、其の貢税を納れしむ。故に之を放すと謂ふ。豈彼の民を暴することを得んや。然りと雖も、常常にして之を見んことを欲す。故に源源として来る。『貢に及ばず、政を以て有庳に接す』とは、此を之れ謂ふなり」と。
象は不徳者ゆゑ追放す。されど弟。舜に情あり
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『梁塵秘抄』植木朝子編訳
熊野へ参るには 何か苦しき修行者よ 安松姫松五葉松 千里の浜
(四句神歌・神分・二五七)
【現代語訳】熊野へ参詣するには何で苦しいことなどあろうか、修行者よ。苦しいどころか、たやすいという安松の地もあり、姫松、五葉松が茂り、美しい千里の浜もあるよ。
【評】熊野詣の厳しさを慰める沿道の美しい風景を言葉遊びで仕立てた一首。「安松」は大阪府泉佐野市にある。蟻通神社の付近で、京から淀川を下り、和泉国(現在の大阪府南西部)・紀伊国(現在の和歌山県と三重県南部)の海岸伝いに南下する熊野参詣路(紀伊路)の途中にあたる。「日野根付村近隣絵図」(一三一六頃・九条家文書)に、熊野街道に沿った北側に家屋二棟が描かれ。「安松」と記されているのが文献上の初出である。言葉遊びの上では、「苦し」に対して「易し」を導くために「やす」の音を含む「安松」の地名を出していると言えよう。「安松」から「松」の連想で「姫松」「五葉松」が続く。「姫松」は小さい松の愛称であるが、しばしば女性の譬えともなる。当該今様においても「修行者」と「姫」の取り合わせにはほのかな笑いを誘われる。
なお、現在、大阪市阿倍野区帝塚山一丁目にある熊野街道と南港通(大阪市の南港と平野を東西に結ぶ)の交点が姫松交差点と称され、その近くに阪堺電気鉄道上町線の停留場の姫松駅がある。住吉の松がしばしば「住吉の岸の姫松」「住の江の岸の姫松」と和歌に詠まれたことから、その名勝が付近の地名となったらしい。地名としての「姫松」が確実に存在したのがいつからかは定かでないが、当該今様の「姫松」に地名が掛けられていた可能性もある。
「五葉松」は針葉が五本ずつ束になって生えるところから言ふ。
「千里の浜」は和歌山県日高郡みなべ町の海岸であるが、景勝地として古来、著名であったらしい。『伊勢物語』七八段には、「紀の国の千里の浜ありける、いとおもしろき石」が見え、贈り物とされるような美しい石を産したことが窺われる。『枕草紙』「浜は」の段には「千里の浜、ひろう思ひやらる」とあって、名称からも広々としたとした美しい浜辺が想像されている。『平家物語』巻一〇「維盛出家」には「藤代の王子を初として、王子王子ふしをがみ参り給ふに程に、千里の浜の北、岩代の王子の御前にて……」とあり、藤代王子から南下して、岩代王子のさらに南側に千里の浜が位置することがわかる。下って建仁元年(一二〇一)一〇月十四日、後鳥羽上皇が熊野御幸の途次、滝尻王子で開催した和歌会において「浜月似雪」の題で詠まれた和歌が残っており、「千里の浜」が詠み込まれている。
雪にのみうつりはてぬる心かな千里の浜に澄める月影 (源通光)
雲消ゆる千里の浜の月影は空に知られて降らぬ白雪 (藤原定家)
これらの和歌には静かで清らかな海岸にさす月の光がまるで雪のように白く見える様子が幻想的に描かれているが、当該今様の「千里の浜」はむしろ、「千」と「松」とが結びついためでたさ、明るさを醸し出しており、修行者をはげます気分に満ちていよう。
鎌倉時代後期成立の類題和歌集(和歌を歌題別に分類したもの)『夫木和歌抄』に、
ちさとのはま 未国 くまのへまゐり侍るとて 寂惠法師
末遠き千里の浜に日は暮れて秋風おくるいはしろの松
とあり、編者は「ちさとのはま」の所在地を未詳としているが、詞書より、熊野詣での途次に通った場所であることは明らかである。道の遥かさを「千里」に込めつつ、過ぎてきた岩代王子の松を取り合わせている。当該今様の背景にも、この和歌に見えるような「千里の浜」と「松」との連想関係が働いていると言えよう。