2月9日(月)

昨日降った雪は止んだが、残雪はまだまだ。

文庫の棚には得るもの多き今回は『荘子』4・5、朔太郎の書

  小池真理子『月夜の森の梟』、木内昇『新選組 幕末の青嵐』も買ふ

  数冊の雑誌と本の価払いひエレベーターに一階に降る

『孟子』離婁章句下92-2 王曰く、「礼に旧君の為に服する有りと。如何なれば(すなは)ち為に服す可き」と。曰く、「(いさめ)行はれ言聴かれ、膏沢(かうたく)民に下る。故有りて去れば、則ち君、人をして之を導いて(さかひ)を出でしめ、又其の往く所に先んず。去つて三年反らず。然る後に其の田里(でんり)を収めむ。此を之れ(さん)有礼(いうれい)と謂ふ。此の如くなれば則ち之が為に服す。

  臣を礼遇するに三有礼あればその君の喪に服す

『梁塵秘抄』植木朝子編注

和歌にすぐれてめでたきは 人麻呂赤人小野小町 躬恒貫之壬生忠岑 遍照道命和泉式部 (今様・一五)

【現代語訳】和歌にすぐれていて素晴らしい歌人は、柿本人麻呂、山部赤人、小野小町、凡河内躬恒、紀貫之、壬生只岑、遍照、道命、和泉式部。

【評】著名な歌人を列挙した一首。柿本人麻呂と山部赤人は『万葉集』の代表歌人で、『古今和歌集』仮名序もまずこの二人を和歌の聖としてあげる。凡河内躬恒、紀貫之、壬生忠岑は『古今和歌集』の選者、小野小町と遍照は、それぞれ六歌仙の一人として名があがる。

道命と和泉式部は平安中期の歌人であるが、中世以降の説話伝承の中ではこの二人の恋愛関係が繰り返し語られる。たとえば、鎌倉時代前半に成立した説話集『宇治拾遺物語』の冒頭には、道命が、和泉式部と枕を交わした後、法華経を読誦した話が載る。五条の道祖神がこれを聴聞して語るには、日ごろ梵天や帝釈天が聴聞しているために、そば近くには来られなかったが、今日は共寝した身を清めないままに読誦したため、他の神々が寄りつかず、念願かなって聴聞することができたとのこと。皮肉な語り口で「色にふけりたる僧」として道命を描いている。また建長八年(一二五四)に成った説話集『古今著聞集』の巻八には、道命と和泉式部とが一つ車に同乗している様子が語られる。こうした伝承の行き着いた果ては、室町時代のお伽草紙『和泉式部』に見られるような荒唐無稽な物語であった。そこでは、道命は和泉式部の生み捨てた子ということになっており、それを知らずに二人は恋に落ち、近親相姦の罪を犯してしまうのである。物尽くしの今様は、結句に何らかの重みを持たせることが多く、当該今様が道命と和泉式部を並べて提示するのは、こうした中世説話に先立つ二人の恋愛伝承がすでに存在していたからであろう。単純な名前の羅列と見える中にも、当時の人々の興味関心を引き付ける話題が巧みに内包されているのである。

2月8日(日)

朝から雪だ。あたりは白く雪が積もっている。

  紀伊国屋本店に着けば二階までエレベータに昇りゆく

  二階にあらい文学・文庫の棚がありまず『現代短歌』最新号を得る

  歌集の棚にはいろいろあれど『浜田到作品集』文庫版を得る

『孟子』離婁章句下92 孟子 斉の宣王に告げて曰く、「君の臣を視ること手足(しゆそく)の如くなれば、則ち臣の君を視ること腹心の如し。君の臣を視ること犬馬の如くなれば、則ち臣の君を視ること国人の如し。君の臣を視ること(ど)(かい)の如くなれば、則ち臣の君を視ること冠讐(こうしう)の如し」

  君主の臣を扱ふに手足の如くするべきに犬馬・土芥となせば仇や讐なり

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

新年春来れば 門に松こそ立てりけれ 松は祝ひのものなれば 君が命ぞ長からん(今様・一二)

【現代語訳】新年なり春が来ると、家々の門には松が立ったことだ。松は祝いのためのものであるから、わが君の御寿命は長くあることだろう。

【評】狭義今様の分類で最初に置かれた一首。春の歌であり、祝いの要素を含んでいる当該今様は冒頭に置かれるにふさわしい。陰暦では、一月・二月・三月が春であるため、「新年春来れば」と歌い出した。古来、常緑樹の松は長寿、繁栄の象徴として捉えられてきたが、正月、門口に松を立てる門松の風習は平安時代末に広まったらしい。平安時代後期成立の漢詩文集『本朝無題詩』巻六所収惟宗孝言(一〇五〇?~一〇九七?)の詩に「門を鎖しては賢木もて貞松に換へたり」とあり、その自注に「近来世俗、皆松を以て門戸に挿す。而して余、賢木を以て之に換ふ」と見える。門松が和歌に詠み込まれるのも一一世紀(一一〇五)頃詠進された『堀河百首』に「門松をいとなみ立たつるそのほどに春あけがたに夜やなりぬらむ」(除夜・藤原顕季)と見えるのが早い。また、嘉応二年(一一七〇)に藤原実国の家で行われた『実国家歌合』

には「賤の宿に立て並べたる門松にしるくぞ見ゆる千代の初春」(藤原公重)、「おのがじし賤の門松もてさわぐ立つべき春や近くなるらん(源頼政)の例が見られ、庶民階級の風習として捉えられている。さらにこれら「門松」を詠み込んだ和歌の作者がいずれも今様に関心を寄せている人々であることも興味深い。当該今様は、一一世紀半ば以降の庶民階層における流行風俗を取り込んだ、まさに今様(=当世風)の一首と言うことができる。

2月7日(土)

細かい雪が降っている。昼過ぎには激しくなる。選挙、期日前投票に行ってきた。

  やうやくに快速急行に乗り換へて新宿までは無事に着きたり

  新宿駅南口に上がり左手へ路上のエスカレーターにて下へ降りる

  そこからはほぼまっすぐに紀伊国屋本店を目指し歩くのみな

『孟子』離婁章句下91 子産、鄭国の政を聴き、其の乗與を以て、人を溱洧(しんゐ)(わや)せり。孟子曰く、「恵なれども政を為すを知らず。歳の十一月には徒杠(とかう)成り、十二月には(よ)(りやう)成らば、民未だ渉るを病まざるなり。君子其の政を平らかにせば、行きて人を辟けしむるも可なり。焉んぞ人人にして之を済すを得ん。故に政を為す者は、人毎にして之を悦ばさんとせば、日も亦足らず」と。

  孟子言ふ政を為さんとするは大局を心がけ一人一人み満足せず

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

そよや 小柳によな 下がり藤の花やな 咲き匂ゑけれ ゑりな 睦れ戯れや うち靡きよな 青柳のや や いとぞめでたきや なにな そよな (古柳・一一)

【現代語訳】そよや、小柳にね、からみついて下がった藤の花がね、美しく咲き匂っているよ、ほら、楊と藤が仲良く戯れて、ね、風に靡いているよ、青柳のね、糸みたいな枝はとても素敵だよ、そら、全くね。

【評】「古柳」というジャンルに分類される一首。「古柳」は、今様の中でも高度な技術が必要とされた難曲であったらしく、『梁塵秘抄口伝集』巻一〇には「沢に鶴高く」という「古柳」の歌い方について、議論のなされた様子が記されているが、「古柳」として歌詞が伝わるのはこの一首のみである。同じく『口伝集』巻一〇には、仁安四年(一一六九)、四十三歳の後白河院が熊野本宮で、「古柳「下がり松」」を歌ったことが記される。これが当該今様に当るのであろう。「古柳」は、神に奉納するにふさわしい大曲だったらしい。「そよや」「ゑりな」「や」「なにな」「そよな」と囃し詞が多用され、そこに音楽的特徴があった可能性も考えられる。

さて、当該今様は柳と藤のとのからみ合いを歌うが、(略)柳と藤を取り合わせたことは、文学的伝統上には意表をつくものである。さらに当該今様は、美しい晩春の風景を描写するのみならず、「睦れ戯れ」の語によって、男女の愛撫、抱擁の様を重ねて表現しているものと考えられる。両者の密着性がより高くなるようなしなやかな姿態を持ち、またそれ自体が性的魅力の比喩ともなる柳(柳腰、柳眉など)が選ばれたことで、一首の官能的趣は一層濃厚になっていよう。「いとぞめでたき」の「いと」は柳の細くしなやかな枝を糸にたとえるのと同時に、大変に、の意味の「いとぞ」との掛詞になっている。

こうした自然の官能的把握ともいうべきものは、今様の特徴の一つと言い得る。

2月6日(金)

晴れている。暖かくなるらしい。

ずうっと積んであった『思想史講義【戦前昭和】』(山口輝臣・福家崇洋編著)を読む。戦争期に向かう左翼の動きが転向に至り、国体へ。そして人民戦線、国家総動員についての論、京都学派、日本浪曼派など興味深く、ひょうとしたらこれらの轍をまた踏んで世界戦争へ至るのではないかと怖れる。

  読みたき本を手に入れむため新宿紀伊国屋本店に小田急線で

  新宿までロマンスカーに乗車せむそのつもりでいたが特急は動かず

  車両点検のために遅れたる新宿に快速急行に急ぐ

『孟子』離婁章句下90 孟子曰く、「舜は諸馮(しよひよう)に生れ、(ふ)(か)に遷り、(めい)(でう)(をは)る。東夷の人なり。文王は(き)(しう)に生れ、畢郢(ひつえい)に卒る。西夷の人なり。地の相去るや千有余里。世の相後るるや千有余歳。志を得て中国に行ふは符節合するが若し。先聖・後聖、其の揆一なり」

  先聖・舜、後聖・文王、時代も土地も異なるが考へ、行ひ全く同じ

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

そよ 春立つといふばかりにや み吉野の 山も霞みて今朝は見ゆらん (長歌・二)

【現代語訳】そよ、立春になったというだけのためであろうか、今朝は吉野の山も美しく霞んで見えるようだ。

【評】「長歌」というジャンルに分類される一首。「長歌」は、五・七・五・七・七の短歌形式を持つ歌で、冒頭に、囃し詞「そよ」が付される。当該歌は三番目の勅撰和歌集『拾遺和歌集』の巻頭歌で、作者は壬生忠岑。吉野山は雪の深い山として知られるが、その吉野山でさえ、立春の日には春らしく霞んで見えることを歌う。「み吉野」の「み」は美称の接頭語。「霞」は春の到来を象徴する景物で、『梁塵秘抄』には「春の初めの歌枕霞たなびく吉野山 鶯佐保姫翁草 花を見捨てて帰る雁」(一三)の一首もあり、和歌によく詠まれる春の素材として、まず第一に、霞のかかった吉野山が歌われている。

2月5日(木)

今日も寒い。やがて14度になるそうだが。

今村翔吾『イクサガミ 地』。蟲毒の戦いは厳しいものになりつつ、この企画を樹てた者が明らかになる。警視庁のトップである川路利良が企て大久保利通、前島密と密かに敵対。大久保を殺害させる。基本的に浜松。「残り、二十三人」。

  嘘をつく嘘をつくことはだめだといふ然あれ嘘つく老いてなほつく

  大きな嘘と小さな嘘があるものを小さな嘘が大きくなりぬ

  人間にあれば嘘つき嘘をつき生きむとぞする致し方なし

『孟子』離婁章句上89 孟子曰く、「天下大いに悦んで将に己に帰せむとす。天下悦んで己に帰するを視ること、猶ほ(さう)(かい)のごときは、唯舜を然りと為す。親に得られずんば、以て人と為す可からず。親に順はれずんば、以て子と為す可からず。舜、親に事ふるの道を尽して、瞽瞍(こそう)(よろこび)(いた)せり。瞽瞍予を底して天下化せり。瞽瞍予を底して天下の父子為る者定まれり。此を大孝とい謂ふ」

  舜、父の瞽瞍のよろこべば天下感化せり大孝といふ

川本千栄『土屋文明の百首』

いつの間にか時は行くのかなびき合ふすすきの原にこゑののこりて 『青南後集以後』

<いつの間に時は過ぎていくのか。なびき合うすすきの原に声が残って。>

平成元年九十九歳、ほぼ晩年の作。秋の終わり、風になびき合うすすきを見ている。結句の「こゑ」は亡き人々の声だろう。生涯に出会った人々の声が、すすきの揺れる音の合間に聞こえるように思うのだ。また、二首後の「草の葉もさやぎを止めししばしの間すぎゆく時のこゑのきこゆる」という歌では、「時そのもの声」という、より抽象的な表現となっている。写実を極めて象徴へと転じているのだ。

これで川本千栄『土屋文明の百首』を終える。あれっと思うこともあったが、土屋文明の歌そのものがどうだろうか。そう思い納得したり、なかなか手強い百首であった。次回からは、趣向を変えて『梁塵秘抄』にしようと思う。植木朝子編訳、ちくま学芸文庫に従いたい。

『孟子』離婁章句上も、ここで仕舞い。次回は離婁章句下である。

2月4日(水)立春

今日も晴れ。暖かくなるのかも。昨夜は節分、豆を蒔き、追儺、そして福豆を喰う。

  若き頃のわたしに似たる青年が自動販売機にいのちを買ふ

  まだ暗きに自動販売機のみかがやけりジュースに並んでいのちを売るか

  自動販売機にいのちを買ふに嗜みありがちゃんがちゃんと音立てて出づ

『孟子』離婁章句上88 孟子曰く、「仁の実は、親に事ふること是なり。義の実は、兄に従ふこと是なり。智の実は、此の二者を知つて去らざること是なり。礼の実は、斯の二者を節文すること是なり。楽の実は、斯の二者を楽しむ。楽しめば則ち生ず。生ずれば則ち悪んぞ已む可けんや。悪んぞ已む可けんやとならば、則ち足の之を踏み手の之を舞ふを知らず」

  孝弟の楽しみ知れば音楽に合わせ手足動かして踊りだすべし

川本千栄『土屋文明の百首』

人の世のゆきゆく様は誰知らむ水の上なる木の葉の如し 『青南後集以後』

<人の世が進んで行く様子は誰が知るだろう、水の上にある木の葉のようなものだ。>

平成元年九十八歳の作。この時期の前後の歌には挽歌が多いが、亡き人を悼む気持ちと共に、残された者の孤独も痛切に歌う。生涯を振り返る目線によって、人生の真理に迫る深い歌が多く詠まれている。

川水の上を流れて行く木の葉は、この世の移り変わりそのものとも取れるし、また私たち一人一人の生とも取れる。その儚さは長い人生を生きた人だからこそ分かるのだ。鴨長明『方丈記』の冒頭部分をも思わせる。

命すぎ何をつくろはむこともなし皮をはぎ肉をすて骨をくだけよ 『青南後集以後』

<命が終り何を繕おうとすることもない。皮を剝ぎ、肉を捨て、骨を砕いてくれ。>

平成元年九十八歳の作。草花に寄せて亡き人を思う抒情的な面と、真骨頂である非情で冷徹な現実主義者の面が、老齢になっても同居していることを再確認させる歌だ。

死んでしまえばその身体はただの物質だ、何も飾り立てることは要らない、私が死んだら死体はこのようにしてくれ、という伝言だ。まるで自分の死体を見ながら言っているようでもあり、感情を交えない口調に、却って鬼気迫る迫力がある。

2月3日(火)節分

快晴。朝は寒い。10℃前後にはなるらしい。

老母が語るオーラルヒストリー私は聞かず妻が聴き取る

  戦中・戦後にまたがりて昭和七年生まれ老母の語り

  父と母そのかかはり合ひには興味ある伊勢ニチボーに遭ひたる二人

『孟子』離婁章句上87 孟子曰く、「不孝に三有り。後無きを大なりと為す。舜の告げずして娶るは、後無きが為なり。君子は以て猶ほ告ぐるがごとしと為す」

孟子が言ふ「不孝に三有り。後無きを大なりと為す」子どもがないことが最も不孝

川本千栄『土屋文明の百首』

亡き後を言ふにあらねど比企の郡槻の丘には待つ者が有る 『青南後集以後』

<自分の死んだ後のことを言うのではないが、比企郡の槻の丘には待っている者がいる。>

昭和六十年九十五歳の歌。この前年、埼玉県比企郡慈光寺の墓に妻と長男の納骨を済ませた。前科集では「湖も山谷もさびしき命なきものながら永久に置かむと思へば」と命の無い遺骨でも永久に自然の中に置くのは寂しいと迷っていたが、自身の年齢も考えての納骨だったのだろう。死後の話をしているのではなく今そこに待っている妻子がいる。現実を見つめてきた文明が老齢に至り、亡き人をありありと見るのだ。

何ひとの賜物なりや多く忘れ花咲けば花にただよりてゆく 『青南後集以後』

<どなたの賜物(贈り物)だったか、その多くは忘れてしまい、花が咲けば花にただ寄って行く。>

昭和六十三年九十七歳の作。植物好きの文明のために、多くの知人が草木を贈ったり、家の庭まで植えに来たりしていた。文明は長年、誰々が何々の草木をくれたと細かく歌にしてきたが、その人々は皆、先に逝ってしまった。人は亡くても、花はまた咲く。これは誰がくれた木だったか、と放心した面持ちで、咲く花に近づいて行く老人。「多く忘れ」は老いの無惨だ。四句の「花咲けば花に」の韻律が、孤独に少しの彩りを添えている。