1月15日(木)

快晴。しかし朝は寒い。

糸塚

  散々に甚振(いたぶ)られ倒され無惨なる碑を雁字搦めに緊縛したり

  (ふん)と薫った石の肌。おもはず「あ」と声立ててゐる

  担ぎだすために直肌ではまずからう藁・筵くくり下へとおろす

『孟子』離婁章句上70 孟子曰く、「桀紂の天下を失ふや、其の民を失へばなり。其の民を失ふ者は、其の心を失へばなり。天下を得るに道有り。其の民を得れば斯に天下を得。其の民を得るに道有り。其の心を得れば斯に民を得。其の心を得るに道有り。欲する所は之を与へ之を聚め、悪む所は施す勿きのみ。

  天下を治むるには大事なことがある民の心を欲するままに悪まずに

川本千栄『土屋文明の百首』

朝よひに真清水に採み山に採み養ふ命は来む時のため 『山下水』

<朝に夕に。泉の澄んだ水に育つ草を摘み、山に山菜を摘み、食べて養う命はやがて来る時のためだ。>

昭和二十年六月、文明と妻、三人の娘は群馬県川戸に疎開してきた。この歌は、大学の寮で一人離れて住む長男夏実への、家族からの寄せ書きに書かれたものだ。故郷に近く、同様に山深い村に住み、草を食べてでも生きるという決意の表明だ。「に」音や「採み」の語の繰り返し、「真清水」と「山」との対比で、韻律の整った歌となっている。「来む時」は戦争が終わる時だろう。それが来ること、また近いことも予感しているのだ。

山の上に吾に十坪の新墾あり蕪まきて食はむ餓ゑ死ぬる前に 『山下水』

<私には山の上に十坪の新しく開墾した土地がある。そこに蕪を蒔いて食べよう、飢え死にをする前に。>

その出身から文明には、農に対する心得も執着もあった。そのためか、これからは自分で農作物を作る決意を宣言したこの歌は、明るく前向きな精神に満ちている。昭和二十年七月、人々は空襲に焼かれ、配給の食べ物も不足し、餓死の一歩手前にあった時期だ。私は自分の手で自分を食わせて生き延びる、飢え死になどしない、そんな気概が伝わる。こうした明るい農の歌は、短歌に依る人々の戦後に生きる指針となってゆく。 

1月14日(水)

今日も晴れ。稲取への旅も昨日終えた。一泊二日。ああ、惜しまれる。

  盂蘭盆の夜が更け初路の墓の前あはれ陰々と鬼気迫るもの

  わあ、わっ、わっ、おう、ふうと四人の男とすれ違ふ

  「出ただええ、幽霊だあ」「おッさん、蛇、蝮?」「そんげいなもんじゃねえだア」

『孟子』離婁章句上69 孟子曰く、「不仁者は与に言ふ可けんや。其の危ふきを安しとし、その(わざはい)を利とし、其の亡ぶる所以の者を楽しむ。不仁にして与に言ふ可くんば、則ち何の国を亡ぼし家を敗ることか之れ有らん。孺子(じゆし)あり、歌うて曰く、『滄浪の水清まば、以て我が(えい)を濯ふ可し。滄浪の水濁らば、以て我が足を濯ふ可し』と。孔子曰く『小子之を聴け。清まば斯に纓を濯ひ、濁らば斯に足を濯ふ。自ら之を取るなり』と。夫れ人必ず自ら侮りて、然る後人之を侮る。家必ず自ら(やぶ)りて、而る後人之を毀る。国必ず自ら伐ちて、而る後人之を伐つ。太甲に曰く、『天の(な)せる(わざはひ)は猶ほ(さ)く可し。自ら作せる孼は(い)く可からず』と。此れの謂なり。

  『書経』の太甲篇に「天の災ひは避けられる、しかし自らの招くは逃れざるべし

川本千栄『土屋文明の百首』

ただの野も列車止まれば人間あり人間あれば必ず食ふ物を売る 『韮靑集』

<ただの野原も列車が止まると、そこに人間が存在する。人間が存在すれば必ず食べる物を売る。>

列車が野原に停車した。休憩のためだろう。列車が止まると、それに合わせたかのように、どこからか売り子がやって来て食べる物を売る。下句は破調で散文的に何でも無いことのように言うが、本質を捉えている。人間は必ず食べる。食は人間が生きる力の根源なのだ。他にも蓮の実、饅頭、麵、餅など様々な中国の食べ物を売る場面、人々がそれを食べる場面の歌がある。食の歌を通して、中国民衆の活力に満ちた姿が描かれる。

箱舟に袋も豚も投げ入れて落ちたる豚は黄河を泳ぐ 『韮靑集』

<渡し舟である箱舟に、人々は荷物の袋も豚も投げ入れている。舟から落ちてしまった豚は、しばらく黄河の水に浮かんで泳いでいる。>

一行は黄河のほとりにやって来た。水は黄色く濁り、夏の日が輝いている。渡しでは駱駝が船を待っている。水に落ちた豚はすぐに引き上げられるのだろうが、見た通りに「黄河を泳ぐ」と表現されると、そのまま大黄河を泳ぎ渡って行きそうで、何ともユーモラスだ。景も大きく、人も大らかだ。中国大陸の自然の広大さと民衆の持つ力に触れた文明の現実(リア)主義(リズム)の筆致は明るい。

1月13日(火)

夕べから風が強い。(いなとり荘)

  (きり)(たて)といふまでもないが巌の(みち)嶮しく上がれば櫐々と墓

  巌を縫って(わだかま)る根に寄りきたる先祖代々の墓にお京を拝む

  お京の墓と相向ひやや斜め下、左に草土手初路の墓あり

『孟子』離婁章句上68-2 詩に云ふ、『商の孫子、其の(かず)億のみならず、上帝既に命じて、(こ)れ周に服せしむ。侯れ周に服せしむ、天命は常(な)し。殷士(ふ)(びん)なるも、京に(くわん)(しやう)す』と。孔子曰く、『仁には衆を為す可からず』と。夫れ国君仁を好めば天下に敵無し。今や天下に敵無からんを欲して、而も仁を以てせず。是れ猶ほ熱を執りて而も以て濯せざるがごとし。詩に云ふ、『誰か能く熱を執るに、逝に以て濯せざらん』と。

  諸侯は天下に敵する者をの無いことを願ひしかも仁政を行はず

これではだめだ。

川本千栄『土屋文明の百首』

馬と驢と騾との別ちを聞き知りて驢来り騾来り馬来り騾と驢と来る 『韮靑集』

<馬と驢馬と騾馬の違いを聞き知ると、驢馬が来て、騾馬が来て、馬が来て、騾馬とがやって来る。>

荷を積んだ動物たちが朝市へやって来る。どれも同じように見えていたが、違いが分かると、これはロバだ、あれはラバだと区別がつき、おもしろくなって、見たものを次々に歌に入れている。上句は定型。下句は四句十二音、五句は定型の七音。四句は大胆な破調だが、「ロキタリ・ラキタリ・マキタリ」とほぼ同じ音を三回繰り返す。動物を一語一音で言うことや、「と」の繰り返しでそれを繋ぐなど、音の効果が細かく考えられている。

さし来る海の潮を見るごとし草に切り入る民族の力 『韮靑集』

<さして来る海の潮を見るかのようだ、草原を切って入る民族の力は。>

海の潮が地表を覆うかのように、草を切って開拓し、耕し、畑にしている。彼らは土にしっかりと根付いて離れず、多くの作物を作っていく。そこに膨大な人口と、民族の測り知れない力が見られる。この歌が作られた時、文明を含む日本人一行は列車で旅していた。畑には、淡い青の亜麻の花、白い莜の花が咲き、栗や小麦の穂が実る。青い空の下、目の届く限り草原と畑が続く広大な風景だ。

1月12日(月)

晴れましたね~伊豆稲取へ。

  いぢめとは工場の誰彼を憎むともやるせなきものはかなきものを

 *

  上下、左右さわさわさわと音立てて数千数万の赤蜻蛉飛ぶ

  とんぼ二つは比翼のすがた初路の霊しづまらず。糸塚建てむ

『孟子』離婁章句上68-2 詩に云ふ、『商の孫子、其の(かず)億のみならず。上帝既に命じて、侯れ周に服せしむ。(こ)れ周に服せしむ、天命は常(な)し。殷士(ふ)(びん)なるも、(けい)(くわん)(しやう)す』と。孔子曰く、『仁には衆を為す可からず』と。夫れ国君仁を好めば天下に敵無し。今や天下に敵無からんと欲して、而も仁を以てせず。是れ猶ほ熱を執りて而も以て濯せざるがごとし。詩に云ふ、『誰か能く熱を執るに、逝に以て濯せざらん』と。

  孔子いふ仁あるものには誰も敵せず熱ありて水浴びせざらむ

川本千栄『土屋文明の百首』

方を劃す黄なる甍の幾百ぞ一団の釉熔けて沸ぎらむとす 『韮靑集』

<紫禁城は方形(四角形)に区切られており、黄色い甍は幾百あるだろうか。炎暑に瓦の釉薬が一かたまりになって熔けて、煮えたぎろうとしている。>

昭和十九年夏、文明は中国へやって来た。陸軍省報道部として五か月の視察の旅だった。まず北京に着き、旧王宮の紫禁城を描いている。巨大な城に連なる黄色い甍。黄色は皇帝の色だ。瓦の表面の釉薬が熔けて煮えたぎる、は誇張した表現だが、炎天下の暑さが実感として伝わる。景を大きく力強く捉え、一首全体に躍動感がある。青い空に黄色い甍が映え、色彩も豪華で鮮やかだ。

垢づける面にかがやく目の光民族の聡明を少年に見る 『韮靑集』

<垢で汚れた顔に輝く目の光がある。私は民族の聡明さをこの少年に見る。>

中国大陸の風景は桁外れに大きかった。この時は汽車が川の増水で停車。減水を待つ間、文明は列車を降りて、辺りにいた少年と虫を捕って遊んだ。貧しいからか入浴の習慣が違うからか、少年の顔は垢で汚れている。けれどもその目は聡明さを湛えて輝いている。彼の民族は聡明だ。民族名は述べておらず、中国人全体を指すと考えられる。文明は相手をそのままに見ることにより、中国の人々に対する、当時の日本人の意識を超えたのだ。

1月11日(日)

朝は寒いし曇っている。晴れるらしいが。

絲山秋子『細長い場所』を読む。最初は分からなかったが、細長い場所は、この世とあの世の境界に当るらしい。登場人物のいづれもが透明で、平ったく中有に迷っている死者のごときだ。だから面白い。中有からなかなか昇天しない。だから小説になる。堪能した。

  墓所(ぼしよ)(ぢき)に近いものをお米も座る。柘榴の葉散る

  もともとは千五百石のお(やしき)女臈(じようろう)の初路刺繍に才あり

はんけち

  (こまや)かなかやつり草に縁どられその片端に赤蜻蛉二つ

『孟子』離婁章句上68 孟子曰く、「天下に道有れば、小徳は大徳に(えき)せされ、小賢は大賢に役せらる。天下に道無ければ、小は大に役せられ、弱は強に役せらる。斯の二つの者は天なり。天に順ふ者は存し、天に逆らふ物は亡ぶ。斉の景公曰く、『既に令すること能はず、又命を受けざるは、是れ物を絶つ為り』と。涕出でて呉に(めあ)はせり、今や小国、大国を師として、命を受くることを恥づ。是れ猶ほ弟子にして命を先師に受くるを恥づるがごときなり。(も)し之を恥ぢなば、文王を師とするに(し)くは莫し。

  文王を師とせば、大国は五年、小国は七年にして、必ず政を天下に為さん。

  周の文王を師として仁義の道を学ぶべしさすれば政を行ふ王者にならむ

川本千栄『土屋文明の百首』

いで行くに思ひ思ひのまどゐせり雨には妻と傘に入りたまへ 『山の間の霧』

<出で行く(出征して行く)のに際して思い思いに集まって語り合っていた。雨には妻と傘に入りたまえ。>

昭和十八年「送別二人」より。「まどゐ」は「円居、団居」、車座に座ることや、団欒を指す。練兵場に送別に行くと人々はあちこちで芝に座って語り合っている。雨が降って来た。見送りに来た妻と傘に入りなさい、と優しく語りかけている。この時期、若い知人が出征した、戦死した、という歌が非常に多い。文明は彼らをひとまとめにして歌うのではなく、彼らの名前を入れたり、誰か分かるようにして、一人一人を歌にしている。

とりよろふ常なる山並の間にして一朝の霧過ぎにきと言へ 『山の間の霧』

<立派な姿で常に変わらない山並みの間に、一朝の霧が過ぎて行ったと言いなさい。>

「とりよろふ」は万葉集、舒明天皇の一節「とりよろふ天の香久山」を踏まえる。「霧」は文明自身の比喩で、「霧が消えてしまうように文明が死んだ」と人には言ってくれ、と親しい人に言い残している。昭和十九年「遠く行かむとして」より。同年七月より文明は陸軍省報道部臨時嘱託として中国大陸の旅に出る。敗色濃い時期に戦地へ行くのだから死も覚悟しており、自分の一生は霧に似て儚かった、と遺言のように振り返っている。

1月10日(土)

今日も晴れ。

  身投げせる別嬪さんはいぢめられ死にしといふも同じ日なりき

  見た処三百ばかりの墓また墓。燈籠のもとには九十九の精霊

  年月が余りに遠く隔たれば秋の菊日和も夢も朧

『孟子』離婁章句上67 孟子曰く、「政を為すは難からず。罪を巨室に得ざれ。巨室の慕ふ所は、一国之を慕ふ。一国の慕ふ所は、天下之を慕ふ。故に沛然として徳教四海に溢る」

  孟子のことば、政はなべて徳を以て行へば沛然として四海に溢る

川本千栄『土屋文明の百首』

この母を母として来るところを疑ひき自然主義渡来の日の少年にして 『少安集』

<この母を本当には母として生れて来たのかを私は疑っていた。自然主義文学が外国から日本に来た頃の少年であったので。>

母の挽歌の一連から。文明の中学時代、自然主義文学が全盛で、物事を美化せず、現実のまま正確に写し取る態度に、文明も影響を受けた。そういう自分だから、人として優れていない母は、自分の母とは考えにくかった、と言う。同連作の歌でも「意地悪と卑下」が母から遺伝したとうたっている。ただ後に愛情に満ちた歌も作っており、文明の母への愛憎は、父への愛憎同様、複雑だ。

恙みなく帰るを待つと送る吾に否まず肯はず行きし君はも 『山の間の霧』

<無事に帰って来るのを待つと言って送りだす私に、否定も肯定もせず出征して行った君なのであった。>

太平洋戦争が始まっていた。戦争に行くのだから死ぬかもしれない。「はい、無事に帰って来ます」とは言えない。だが「いいえ、私はお国のために命を捧げます」と言うほど、この戦争の理念を信じているわけでもない。自分の任務を果たすために、その人は戦地へ戻って行った。知的で冷静な人物なのだ。結句の「はも」は古語で「~だったなあ」と回想し、惜しむ表現。この詠嘆からその人がもうこの世にいないのでは、と感じられる。

1月9日(金)

朝は寒いが、晴れる。けど寒い。

  はんけちの工場につとめる娘さんうららかな朝はかなくなりぬ

  家は焼け、お京の(はら)のお米には(あざ)ありいまも(うつす)り青し

  心中ではないが遠くなり近くそのなる人がまとふかその薄明かり

『孟子』離婁章句上66 孟子曰く、「人恒の言有り。皆曰く、『天下国家』と。天下の本は国に在り。国の本は家に在り。家の本は身に在り」

  一身を治めずにして「天下国家」を論ずることは論外のこと

川本千栄『土屋文明の百首』

野分だつ夕べとなりて吹く風はかへり咲く桜の枝吹きわたる 『少安集』

<秋の激しい野分(台風)の風が吹く夕方となり、吹く風は、季節外れに返り咲きをしている桜の枝を吹きわたる。>

秋風が吹き過ぎ、まもなく返り咲きの花も散ってしまうだろう。だが今はまだ散らずに枝にある。寒々しく寂しい光景だ。実際に見た景色を描いているが、荒い風に吹かれる花が、暗い時代の風に吹かれる名も無い人々に重なって見える。「野分だつ」と古語で重厚に始まり、四句の九音で、風に揺れる枝のように韻律もゆらゆらと揺れる。結句七音で定型通り締めている。

歌よみが幇間の如く成る場合場合を思ひみながらしばらく休む 『少安集』

<歌人が、幇間のようになる幾つかの場合を思い浮かべながら、続けていた選歌をしばらく休憩する。>

「幇間」は「太鼓持ち」で権力者に追従する者の喩えに使われる。今読むと「幇間」の語や「場合場合」と重ねた韻律が面白いが、言論の自由の無いこの時代の歌としてはやや危険な面がある。権力者におもねる歌を作る歌人を批判するだけではない。戦争協力の歌を作る人の中には、心から応援しているのでは無く、ご機嫌を取っているだけの者もいるのだ、と政府や軍のような権力者側に示唆することにもなるからだ。