晴れているが、家の中は寒い。
清澄で、艶やかで、細緻なり。神仙、天使的と三島由紀夫云ふ
最晩年の泉鏡花の幽霊譚あまり恐くはないが蠱惑的なり
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『孟子』万章章句上124-3 曰く、「然らば則ち舜は偽りて喜べる者か」と。曰く、「否。昔者、生魚を鄭の子産に饋るもの有り。子産校人をして之を池に畜はしむ。校人之を烹る。反命して曰く、『始め之を舎てば、圉圉焉たり。少くすれば則ち洋洋焉たり。攸然として逝けり』と。子産曰く、『其の所を得たるかな。其の所を得たるかな』と。校人出でて曰く、『孰か子産を智なりと謂ふ。予既に烹て之を食へり。曰く、<其の所を得たるかな。其の所を得たるかな>と』故に君子は欺くに其の方を以てす可し。罔ふるに其の道に非ざるを以てし難し。彼、兄を愛するの道を以て来る。故に誠に信じて之を喜ぶなり。奚ぞ偽らんや」と。
偽りもまた複雑なもの信ずるに値するもの己にあるか
『梁塵秘抄』植木朝子編訳
近江の湖に立つ波は 花は咲けども実も熟らず や 比叡の御山の西裏にこそ や 水飲みありと聞け
(四句神歌・神分・二五四)
【現代語訳】琵琶湖に立つ波には、花は咲くけれど実もならず、枝も伸びないよ。だけどね、比叡のお山の西裏にはね、水の実ならぬ水飲があると聞いているよ。
【評】琵琶湖の波を題材に、言葉遊びを展開した一首。荘厳な趣を持つ前歌(→二五三)と好対照をなす。波頭を白い花に譬えることは古くから見られ、『万葉集』巻一三には「逢坂をうち出でてみれば近江の海白木綿花に波立ち渡る」(逢坂をうち出てみると、琵琶湖には白い木綿の花のように波が立っている)とある。こうした見立てから「波の花」という歌語も生まれ、『古今和歌集』秋下、文屋康秀詠に「草も木も色かはれどもわたつ海の波の花にぞ秋なかりける」(秋になれば、草も木も色が変わるけれど、色を変えることのない大海の波の花には秋はないのだなあ)と見える。このように波には花は咲くが、しかし、実はならず、枝も伸びない、とし、それなのに、比叡山の西裏には、ないはずの「水の実」があると洒落た。
「西裏」は琵琶湖のある東岸(延暦寺や日吉大社のある坂本側)を比叡山の表とし、西の京都側を裏とみた表現・京都の西坂本(今の修学院離宮の辺り)からの登山路を雲母坂といい、「水飲」はその頂上付近の地名。一三世紀後半に成立した比叡山延暦寺の寺誌『叡岳要記』所収の天禄元年(九七〇)慈慧太子良源の起請文には、比叡山に籠る僧がいるべき場所を区切って、東は悲田院、南は般若寺、西は水、北は楞厳院までとし、それ以上出てはならないことが記されている。その西の結界が「水飲」であり、『梁塵秘抄』三一二番歌「根本中堂へ参る道」の道行歌謡の中にも「雲母谷」と共に「水飲」の地名が見える。当該今様は、こうした重要な結界の地である「水飲」を、重々しい信仰の中にではなく、軽やかな洒落の中に歌い込めているのである。
遊女との交流も知られ、今様と関わりの深い歌人・源俊頼(一〇五五?~一一二九?)は「比叡の山その大たけはかくれねどなほみづのみはながれてぞふる」(『永久百首』且見恋)と詠んでいる。ここでは「水のみ」(水だけ)と地名の「水飲」が掛けられている。