12月13日(土)

寒い、寒い。遅くなって雨らしい。

  焼津へはヤマトタケルも東征に訪れしもの。われも焼かれむ

  ともすれば長く立ちどまる吾れならむいつか焼かれむ日も遠からず

  階段を降りるのが人より遅くして一段一段踏むやうにして

『孟子』縢文公章句上51-2 徐子以て夷子に告ぐ。夷子曰く、「儒者の道は、古の人赤子を休んずるが若しと。此の言何の謂ひぞや。之は則ち以為へらく、愛に差等無し、施すこと親由り始む」と。徐子以て孟子に告ぐ。孟子曰く、「夫の夷子は信に人の其の兄の子を親しむこと、其の鄰の赤子を親しむが若しと為すと以為へるか。彼は取ること有りて爾るなり。赤子の匍匐して将に井に入らんとするは、赤子の罪に非ざるなり。且つ天の物を生ずるや、之をして本を一にせしむ。而るに夷子は本を二とする故なり。

藤島秀憲『山崎方代の百首』

机の上に風呂敷包みが置いてある 風呂敷包みに過ぎなかったよ 『迦葉』

風呂敷包はしょせん風呂敷包み、何を包んであったとしても風呂敷包みである。人間も同じこと、どんなに難しい学問を身に付けたところで自分は自分に過ぎないよと、かなり投げやりな人生訓でもある。

『青じその花』には、机に向かい虫眼鏡を使って鉛筆で原稿を書いている方代を写した写真が掲載されている。下着姿で胡坐をかいている。机は文机。机の上には薩摩焼酎「かごしま」のボトルとコップ。背後には書棚。壁には十朱幸代のポスター。<十朱幸代君が唱えば浅草の酸漿市の夜は闌けてゆくなり>が『こおろぎ』にある。

母の名は山崎けさのと申します日の暮れ方の今日の思いよ 『迦葉』

歌やエッセイを読んでいると、父に比べて母が出てくることが少ない。ざっと見たところ母の登場回数は父の三分の一程度。更に父は主役級の重大な役割なのに母の扱いは軽い。この差はどこから来るのだろう。

総じて父の歌はドライである。対して母の歌はウェット、哀愁を帯びている。この歌のように母の名前が詠まれただけでも、じっとりと悲しみを湛えてしまう。きっと方代はそれが嫌だった。ウェット一返倒れの歌は避けたかったのだ。

父は九十四歳まで生きた。母は六十九歳までしか生きられず、右左口を出ることがなかった。

12月12日(金)

快晴ですが、寒いのです。

今日から、先日行ってきた「焼津」の歌です。

焼津

  東海道線各駅停車に熱海まで、乗り換へてゆく焼津の駅へ

  四人席を二人で使ふ楽しさよ。焼津へ各駅に停車して行く

  この旅もいのちせいいつぱいにゆかんとす足弱なれば注意深く

『孟子』縢文公章句上51 墨者夷之、除辟に因りて孟子に(まみ)えんことを求む。孟子曰く、「吾固より見んことを願ふも、今、吾尚ほ病めり。病癒えなば我(まさ)に往き見んとす。夷子来たらざれ」と。他日、又孟子に見えんことを求む。孟子曰く、「吾今は則ち以て見る可し。(ただ)さざれば則ち道(あらは)れず。我且に之を(たださ)んとす。吾聞く、夷子は墨者なり。墨の喪を治むるや、薄きを以て其の道と為す。夷子は以て天下を易へんと思ふ。豈以て是に非ずと為して貴ばざらんや。然り而して夷子は其の親を葬ること厚しと。則ち是れ賤しむ所を以て親に事ふるなり」と。

  夷子は墨者なり喪に薄しされど親には厚きといふこれやいかに

藤島秀憲『山崎方代の百首』

べに色のあきつが山から降りて来て甲府盆地をうめつくしたり 『迦葉』

たくさんの赤とんぼが飛び交っている光景。秋が来たことを告げている。「甲府盆地をうめつくしたり」のスケールの大きさに心ときめく。すみれとか石とか小さなものを歌う印象が方代にはあるが、どっこい大きな自然を歌わせれば、独自の切り口を見せる。

歌集ではこの歌の後に<小仏の峠の道は秋早し吾亦紅が恋をしていた>が置かれていて、こちらは小さな自然を個性的に切り取っている。

ふるさとの山や動植物を思い出すようにぽつぽつ歌っているのもこの時期の特徴だ。

ふるさとを捜しているとトンネルの穴の向うにちゃんとありたり 『迦葉』

短歌の定型は五七五七七なのだが、本当のところは歌人の数だけ定型がある。例えばだが「蛍の光」をロック歌手と演歌歌手とオペラ歌手が歌えばそれぞれ全く違う歌になるように。

内容は俗っぽくても、方代短歌は格調高い調べを持っている。特に、この歌の凛とした言葉運びは絶品だ。「ちゃんと」というザックバランな言葉が入ったとしても「ありたり」と文語で収めることにより、緩みのない調べを作り上げている。

ふるさとがあることの心強さが歌われている。

12月11日(木)

寒い。でも晴れ。

  エレベーターに降りゆくとき三階の廊下に赤き手袋ぞある

  一廻り歩いて帰るエレベーター上がるにどこにも手袋あらず

  エレベーターに窓がある各階の廊下必ず見ゆる

『孟子』縢文公章句上50-11 「許子の道に従へば、則ち市の賈弐ならず、国中偽り無し。五尺の童をして市に適かしむと雖も、之を欺くこと或る莫し。布帛の長短同じければ、則ち賈相若く。麻縷糸絮の軽重同じければ、則ち賈相若く。五穀の多寡同じければ、則ち賈相若く。屨の大小同じければ、則ち賈相若く」と。曰く、「夫れ物の斉しからざるは、物の情なり。或ひは相倍し、或ひは什百し、或ひは相千万す。子比して之を同じうせんとす。是れ天下を乱すなり。巨屨・小屨 賈を同じうせば、人豈之を為らんや。許子の道に従ふは、相率ゐて偽りを為す者なり。悪んぞ能く国歌を治めん」と。

  許子の言に従へばこぞってごまかし手を抜けりそれでどうして国治めんか

藤島秀憲『山崎方代の百首』

ここ過ぎてうれいは深し西行の歌の秘密はいまも分からない 『迦葉』

『青じその花』にこのような文章がある。

歌を作るのにはいろいろな条件がいるが、精神のコンディションを調整することが私にとってはまず先決である。歌の秘密というとおこがましいが、結局それに尽きるのではありますまいか。不仕合わせを、少しずつ生活の意識の中に混ぜておくのが精神のバランスである。つまり、ちょぴり不幸という薪をちょろちょろくべるということ(以下略)

幸せ一辺倒ではどうもイケないらしい。

西行の秘密が分からないまま方代は死んでしまった。

帰りには月は上りぬてらてらと月夜の晩の人となりたり 『迦葉』

「月夜の晩の人となりたり」なんて美しい表現なのだろうと、三句の「てらてらと」を隠して読めば思う。美しい表現をぶち壊してしまう「てらてらと」という俗すぎるオノマトペ。残念だよね~と普通なら言ってしまうのだが、美しすぎることを避けた方代の思いを感じてしまうので、許してあげることにする。

でも「ゆうらりと」などの抒情優先のオノマトペでは絶対に方代らしくない。方代が方代でいるための最低ラインが「てらてらと」であったように思う。自分の世界をとことん大切にした結果だ。

12月10日(水)

寒いのだが、晴れ。

  追ひこされ、また追ひ越され、追ひこさる。情けなし、今のわたしの歩み

  公園の先のあたりを目標に定めたりしも三人に越さる

  どうしてもスピードがでないわが歩み。わづかの傾斜に躊躇したりき

『孟子』縢文公章句上50-10 今や南蛮鴃(なんばんげき)(ぜつ)の人、先王の道を非とす。子、子の師に(そむ)いて之を学ぶ。亦曾子に異なれり。吾幽谷を出でて喬木に遷る者を聞く。未だ喬木を下りて幽谷に入る者を聞かず。魯頌(ろしよう)に曰く、『戎狄(じゆうてき)は是を(う)ち、荊舒(けいじよ)は是れ懲らす』と。周公方に且つ之を膺つ。子は是を之れ学ぶ。亦善く変ぜずと為す」と。

藤島秀憲『山崎方代の百首』

鎌倉の裏山づたいをてくてくと仕事のように歩きおりたり 『迦葉』

読まれることを常に意識していた方代は、読者サービスを日頃から行っていた。読者に喜んでもらう、その精神を貫いた歌人人生、「歌人が仕事」という信念を基に歌い続けた。

「てくてくと」を使える歌人は方代くらいしかいないだろう。語り掛けるような言葉の中に、ごくごく自然に埋め込み、ちょっぴり寂しくも楽しいオノマトペとして機能させている。「おり」を使い、或るく自分を突き放して見た上で「たり」と文語で締める。何気ない、誰でも作れそうな歌だから余計に多くの技が秘められている。

くちなしの白い花なりこんなにも深い白さは見たことがない 『迦葉』

読めば目の前にくちなしの白い花が広がる。「こんなにも」と讃嘆して、絶賛する。くちなし讃歌。

でも本当にそれだけなのだろうか。どうも違うような心持になっている。白を畏れ、白を疑う気持が私には見えてしまうのだ。そもそも、白さと匂いで存在を示し過ぎるくちなしを方代は好んでいない気がする。とすると、この歌は褒め殺しか。くちなしを褒め殺しても仕方ないので、目立つ花ばかりに気を取られている人への皮肉。私は目立たない花ばかり見て来ましたので、今回初めてくちなしに気づいた次第でございます、と。

12月9日(火)

晴れているが、寒い

『文豪死す』読了。芥川龍之介・太宰治・梶井基次郎・中島敦・夢野久作・泉鏡花の生前最後の作品が集めてある。中島の「李陵」・今日かも『縷紅新草』が、とりわけ面白かった。読んでいなかった作品が多い。

  背中まで衆目にさら神秘なしただ木を刻む木彫に過ぎず

  仏からその神秘をも喪はせ博物館の円陣に立つ

  とみかうみ左右歴然たるみ仏に神秘あれこそここに来たりし

『孟子』縢文公章句上50-9 昔者、孔子没するや、三年の外、門人、任を治めて将に帰らんとし、入りて子貢に(いふ)し、相嚮(あひむか)ひて哭し、皆声を失ひ、然る後に帰る。子貢は反りて、室に場を築き、独り居ること三年、然る後に帰れり。他日、子夏・子張・子游、有若の聖人に似たるを以て、孔子に事ふる所を以て之に事へんと欲し、曾子に強ふ。曾子曰く、『不可なり。江漢以て之を(あら)ひ、秋陽以て之を(さら)す。皜皜乎(かうかうこ)として(くは)ふ可からざるのみ』と。

藤島秀憲『山崎方代の百首』

ものなべて日ぐれてゆけばわが思い私はあなたの鼻でありたい 『迦葉』

「鼻」は「花」の誤植?と思ってしまったあなたへ。その疑問は当然ですが、「鼻」が正しい。とっても変な感覚。目や耳ほどの働きはせず、気ままな存在に見える鼻。だが顔の中心にあって呼吸のために絶えず働く。嗅ぐという仕事も休みなく行っている。縁の下の力持ちのような存在であり、欠くことはできない。

あなたを私は陰で支えて参ります……という「わが思い」が、あらゆるものが日暮れてゆく頃に萌したのだ。「あなた」とは誰だろう。読者のみなさんと読んでしまっては綺麗すぎるか。でも、読者サービスと取って良い。

靑葉しげれる若宮大路にてゆくりなくめぐり逢いたりあなたなりけり 『迦葉』

若宮大路は由比ガ浜から鶴岡八幡宮に通じる参道で、鎌倉の目抜き通り。そこを歩けば多くの人に会える。この歌でも「あなた」は特定の人を指すのではなく、不特定多数の「あなた」。鎌倉の地に限らず、過去に出会った全ての人を指す。

数限りない人への贈答歌と言える。出会いが素晴らしいものであったことを「青葉しげれる」が表わす。この歌が発表されたのは昭和五十七年、翌年には左眼続発性緑内障で入院する。何らかの自覚症状が老いと死を考えさせたのか。まるで死を予感しているようにも読める。

12月8日(月)太平洋戦争(大東亜戦争)始まりの日。真珠湾攻撃。忘れてはならない日である。

よく晴れている。

  背黒鶺鴒が小刻みなる歩み止めたり草を咥へてわれから離る

  わが前を背黒鶺鴒歩むなり飛ぶこともなく離りゆくなり

  おそらくは背黒鶺鴒の仲間だらう欅黄葉の中から声す

『孟子』縢文公章句上50-8 吾夏を用て(い)を変ずる者を聞く。未だ夷に変ぜらるる者を聞かざるなり。陳良は楚の産なり。周公・仲尼の道を悦び、北のかた中国を学ぶ。北方の学者、未だ之に先んずる或る能はず。彼は所謂豪傑の士なり。子の兄弟(けいてい)、之に事ふること数十年、師死して遂に之に(そむ)く。

藤島秀憲『山崎方代の百首』

不二が笑っている石が笑っている笛吹川がつぶやいている 『迦葉』

遺歌集とは言っても死去を受けて企画されたものではなく、生前から作成は決まっていて、方代も病床で完成を待ち望んでいた。だから間に合わなかった最後の歌集ということになる。

六十六歳から七十歳までの歌が収められている。清く澄んだ歌が多い。方代が持ち続けていたセンチメンタルでロマンチックな特質が、大らかなユーモアに縁どられ、ゆるやかな言葉づかいによって読者に差し出される。

ふるさとを象徴する不二と笛吹川に加え「石」を置く。「石」はきっと方代自身。笑えていることにホッとする

死ぬ程のかなしいこともほがらかに二日一夜で忘れてしまう 『迦葉』

「忘れてしまう」は願望だろう。忘れられれば良いのに、しかも「ほがらかに」。

でも叶わぬこと。叶わぬ思いが歌われている。「死ぬ程のかなしいこと」の悲愴感と「ほがらかに二日一夜で忘れてしまう」の冗談めかした物言い、まったく正反対のものを咬み合わせても違和感がないのは、方代のキャラクターがあってのこと。キャラクター作りに勤しんだ成果と言えるだろう。

短歌はキャラクターを歓迎しない風潮がある。詠み人知らずでも良い歌は良いという言葉さへ時に聞く。キャラターを作り上げる大切さを方代短歌は教えてくれる。

12月7日(日)

寒いけれど、晴れ。

  まだ暗き公園に吾が歩み入ればすずめ十羽ほどが飛び翔りたり

  すずめごの数羽が鳴けば応じたるすずめゐる欅黄葉の枝葉の裡に

  公園を歩き過ぐれば小さな虫。耳の傍にて羽音聴こゆ

  わが耳の傍に顫音残し去りゆける虫の名わからず、しかし確かに

『孟子』縢文公章句上50-7 堯は舜を得ざるを以て己が憂ひと為し、舜は禹・(かう)(えう)を得ざるを以て己が憂ひと為す。夫れ百畝の(をさ)まらざるを以て己が憂ひと為す者は、農夫なり。人に分かつに財を以てする、之を恵と謂ふ。人に教ふるに善を以てする、之を忠と謂ふ。天下の為に人を得る者、之を仁と謂ふ。是の故に天下を以て人に与ふるは易く、天下の為に人を得るは(かた)し。孔子曰く、『大なるかな堯の君(た)るや。(ただ)天を大なりと為す。惟堯之に(のつと)る。蕩蕩乎(たうたうこ)として、民(よ)く名づくる無し。君なるかな舜や。巍巍乎(ぎぎこ)として、天下を(たも)つて而も(あづ)からず』と。堯・舜の天下を治むる、豈其の心を用ふる所無からんや。亦耕すに用ひざるのみ。

  堯・舜の天下を治むるにあたりただ農耕についてだけは用いざる

藤島秀憲『山崎方代の百首』

六十歳を過ぎた頃よりようやくに見合いの数も落ちて来にけり 『こおろぎ』

ということは六十歳になるまでは困ってしまうほど見合い話が舞い込んだということになる。事実とは思えないけれども、このように本人が歌っているのだから、そういうことにしておこう。」

「にけり」で終わる歌が方代には多い。談笑するような言い回しの最後を「にけり」で締めて、歌として立ち上がらせる。「けるかも」「なりけり」などもよく使う。

方代というと口語のイメージが強いが、いやいや実は文語の人で、文語と口語の匙加減に四苦八苦した人。数限りない推敲が行われたことだろう。

あさなあさな廻って行くとぜんまいは五月の空をおし上げている 『迦葉』

ここからは第四歌集の『迦葉』に入る。出版は昭和六十年十一月二十五日。だが方代はこの世にいない。八月十九日に肺がんによる心不全のために国立横浜病院で七十年間の生涯を終えている。方代自身が付けた歌集名は甲府から右左口に至るルートにある坂の名前だ。

ぜんまいの先っぽは丸まっている。あの丸まりが伸びて空を押し上げているという空想である。この面白い空想は、山菜が美味しい季節が訪れたことと、気持ちよく山野を散策できる気候になったことを喜ぶ思いから生まれたのだろう。