8月27日(木)

曇りなのに暑いのだ。明け方も外気は暑く、窓を開けられなかった。

小海線の通過する音も聴こえ来る宿りの窓に踏切閉る

野辺山のの空に虹が顕つ雲間に低く七色の虹

空仰ぎうれしき思ひもたちまちに短き虹とともに消えたり

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『孟子』尽心章句下234 孟子曰く、「を信ぜざれば、則ち国空虚なり。礼義無ければ、則ち上下乱る。無ければ、則ち足らず」

仁者賢者を登用せねば国空虚なり礼義なくば上下乱れ、政治なければ財足らず

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

古志に来てまだ古志なれぬ我なれやうたて寒さの肌にせちなる

【語義】「古志」は「越に国」、ここでは越後を指していることは云うまでもない。〇「我なれや」の「や」は感動の意を含めた発声で、疑いの意の「や」ではない。〇「うたて」は非常を意味する。感嘆の意をも含んでいる。〇「せちなる」の「せち」は「切」で即ち痛切。「せちなる」は「ひどく身にしみることよ」というほどの意。

【評言】これこそ文字通りに良寛帰国後間もない頃の作であろう。良寛は二十二歳で越後を出て凡そ二十年間の諸国雲水の後四十二、三歳で再び郷国に帰って来たのである。この歌をよむと俳諧寺一茶の「これがまあつひの棲処か雪五尺」の句に対すると同じように、「いかにもそうだったろう」と同情される。「うたて寒さの肌にせちなる」の表現にはおそらく聊の誇張もなかったのであろう。こういう境涯から年一年郷土の自然と同化して行った良寛その人の晩年の生活への推移をおもうと、私などにはたまらない親しみが感じられる。かの有名な「……雪のふる日はさむくこそあれ」の古歌のように自分を特別な者として見ていないところはこの歌にはいささかもない。ありのままの歌である。だが拙いことは随分拙い。上句などは殊にたどたどしい。良寛の歌の円熟したのはその晩年で、この歌をよんだ頃はまだこの位が関の山であったらしい。

8月26日(水)むすめ沙耶のバースデイ

今日は、格別に暑い。

夏の雲は青空に白く立ちにけり。積乱雲はもくもくとして

野辺山のもっとも高き一三七五メートル小海線がゆくに人は少なし

小海線の最高地点に鉄道神社小さき社に黙礼をする

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『孟子』尽心章句下233 孟子曰く、「名を好むの人は、くの国を譲る。も其の人に非ざれば、も色にる」

孟子がいふ名誉を好む人はよく千乗の大国をも人に譲る

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

しばの戸の冬のゆふべのさびしさをうきよの人にいかでかたらむ

【語義】「しばの戸」は「柴にてつくれる門」であるが、ここでは人里はなれたささやかな山家というほどの意に解してもよかろう。〇「いかでかたらむ」は「どうして語ろう、語ろうにも語るすべがない。

【評言】この山家住居の冬の夕ぐれのさびしさを世間の人達にどんな風に語ろう、語るにも語るすべがない、全く云って見ようもないから、ただひとりその意味を味っている外はないのである。訴えもせず、嘆きもせず、捨てもせず、破りもせずに、じっと静かにその寂味を味うているところに、良寛の尊い心境が窺われるのである。この歌「しばの戸」といい、「うきよの人」というような兎角嫌味にきこえ勝ちな型に囚えられた句を平気で入れていながら、少しも嫌味を感じさせないのは、やはり作者の生活基分のしからしめるところである。

8月25日(火)

今日も暑い。暑い。

山の天気はたちまちにして変貌す。霧また霽れて夏の山なり

貴宝石の湯にしづまりし心なり。溢れ出す湯に首まで浸かる

八ヶ岳の中央高き赤岳の背後ゆ立ちのぼる夏の雲なり

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『孟子』尽心章句下232 孟子曰く、「利にき者は、も殺すことはず。徳にき者は、も乱すこと能はず」

利益に用意周到なれば凶年にも餓死せず徳義に通ずれば志乱さず

     *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

み山べに冬ごもりするおいのみを誰かとはまし君ならなくに

たまさかに来ませる君をさよあらしいたくな吹きそ来ませる君に

たにのこゑみねのあらしをいとはずばかさねてたどれ杉のかげ道

【評言】この三首詞友阿部定珍に贈った歌であるが、前の「のきも庭も……」の歌よりも、この三首の方が遥かに真情のこもり方においてまさっている。訪ねて貰った嬉しさと共に訪ねて来てくれた人に対する思いやりが涙ぐましいまでにしみじみと歌われている。こうした真情の歌は容易に出来そうに見えるが、いざとなるとなかなか出て来ないものである。吾々だと兎角何とか勿体ぶらないと自分の情を他人に伝えにくいものであるが、このように真情を率直に歌ってしかも聊も生硬なところのないのは良寛の天品によるであろうが、やはりある程度まではそれを永い間の修練の結果であると見なければならぬ。

8月24日(月)

今日も暑い。

恩田陸『鈍色幻視行』下・読了。二週間の東アジアへの高級旅客船上でのインタビューが中心になる。どこか陳腐な風が吹くものの、「懐かしい死者たち」、「よっぽど生命力に溢れ、鮮やかに見え」て、「円環を閉じるその瞬間を、呆けたような顔で見届ける。」なんだか妙な展開だが、私はあまり得意ではないミステリながら、楽しめたことはたしかだ。

人参も二時間かけて素揚げするかくやはらかく甘きものなり

隠れ家のごとき森の中の蕎麦屋なり野菜の素揚も蕎麦もうまし

蕎麦すする妻もそしてこのわれもうましと笑ふ満足げなり

    *

『孟子』尽心章句下231 孟子曰く、「身、道を行はざれば、妻子にも行はれず。人を使ふに道を以てせざれば、妻子にも行はるること能はず」

己が道を行はなければ身近な妻子にも行はれず

    *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

のきも庭もふりうづめける雪のうちにいやめづらしき人のおとづれ

【語義】「いやめづらしき」、「いやが上にも珍しい」または「一層めずらしい」。

【評言】深い雪にうずもれた冬籠りのわびしさのうちへ思いがけなく人の訪ねて来た歓びをさながらに歌ったのであろう。「いやめづらしき人のおとづれ」にはいかにもよくその刹那の歓びが現れているが、「ふりうづめける雪のうちに」が力のぬけた憾みがある。

8月23日(日)

曇り空だけど、暑くなるようだ。

鳴く声にほけきょうの声の雑じりをり。あゝこの地にも鶯は鳴く

この宿も法華経のにつつまれて日の暮れ時は手を合せをり

  ・

朝の茶を妻と喫する時の間に八ヶ岳連峰たちまち霧中

    *

『孟子』尽心章句下230 孟子曰く、「古のをるや、将に以て暴をがんとす。今の関を為るや、将に以て暴をさんとす。

古の関は乱暴を防ぐもの今の関は出入りに税金、暴政をせむ

    *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

このゆふべいはまに滝つ音せぬはたかねのみゆきつもるなるらし

【語義】「滝つ音」は「滝の音」。〇「みゆき」の「み」は美むる意味の発語で「みゆき」は単に「雪」というに同じ。

【評言】良寛はよく「このゆふべ」とか「このあさけ」とかいう風な云い方をしているがそれがいずれもよく利いている。良寛の遺墨の中に「さよふけてたかねのみゆきつもるらしいはまにたきつ音だにもなし」と書いたものがあるが、やはり「このゆうふべ~」の方が遥かにいい。おそらく「さよふけて……」の方がさきに出来て、それをあとで「このゆうふべ……」に詠みなおしたのであろう。この歌も静寂な心持のよく現れたいい歌である。

8月22日(土)

今日も暑いのだ。

山の鳥、野の鳥のこゑ聴こゆるに鳥の名分かず朝明けてゆく

八ヶ岳は突兀とした山つらぬ。宿りの窓に遠望したり

編笠山・西岳・権現岳に赤岳高く・阿弥陀岳・横岳・硫黄岳に天狗岳なり

    *

『孟子』尽心章句下229 孟子曰く、「吾今にしてる後、人のを殺すの重きを知るなり。人の父を殺せば、人も亦其の父を殺し、人の兄を殺せば、人も亦其の兄を殺す。然らば、則ち自ら之を殺すに非ざるや、のみ」

孟子がいふ今更ながら人の近親を殺すことが重大事であることを知る

    *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

ふと里にもいでずなりにけり昨日も今日も雪のふれゝば

【評言】ここもで来ると前の歌の静寂にこもっている心持が一段のつつましさを加えている。現身の命の糧をすらも求めに出ずに、独りつつましく遠離の境界に安住し生の寂味に浸っているこの心持は尊い。「飯乞ふと」という第一句は良寛の歌にはかなり多くあるが、それが少しも鼻につかぬのは、この人なればこそである。孤独静寂の境地を歌っていながら、所謂枯木寒巌流な冷たさのないのも良寛の歌の最もなつかしい特色の一つである。

8月21日(金)

今日も暑い。

とち狂ひたるか冷静か輾転反側して干涸ぶ蚯蚓

相つぎてみみず路上に乾び死す肉色の屍を避けて歩まむ

なにゆゑに討ち死にしたるか自づから干涸びてなにもなさず死にたり

    *

『孟子』尽心章句下228 孟子曰く、「舜のをひをふや、に身を終へんとするがし。其の天子とるに及びてや、をり、をし、る。之を固有するがし」

舜は貧乏であったが天子と為ると画衣を着、琴を弾じ、二人の娘をはべらせ平気なり

    *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

白雪の日毎にふればわがいほはたづぬる人のあとさへぞなき

【大意】毎日毎日雪が降りつづいているので自分の庵にはたずねて来る人の足迹さえもない。

【評言】一見前の歌と同じようであるが、しかしこの歌の方はもうすっかり冬になりきって雪の中にうずもれてからの作で、その気持ちが一首の上にいみじくも現わされている。「いまよりは」と「日毎にふれば」、「みちふみわけて誰かとふべき」と「たづぬる人のあとさへぞなき」との表現の相違を味って見ると、そこに微妙な心持の相違が味われる。孤独感が前の歌よりも一層深められていると同時に、そこには何となくつつましくその静寂裡にこもろうとする心のおちつきさえも加わっている。