9月25日(金)

朝から晴れて、涼しいのだが、やがて湿度が気になる。

じわじわとシャツに汗水滲みくる雨の間のこの暑さゆゑか

この暑さじわじわシャツに汗滲みなんともしがたし老いたるかなや

この暑さにみんなみの空青くして日は射してくるやるせなきなり

    *

日夏耿之介『唐山感情』叙

過ぐる甲午の夏、箱根仙石原村千山万岳楼に暑を避けた砌、たまたま架上の一巻を抜いて、博士塩谷温君著唐詩二百首という註解の一書を得、そぞろに興に乗じ、此註本をオリヂナル・テクストとしていつしか二三十首を訳し試みた。旬日ならずして、工芸大学教授小林健志君の新著油印本単調の詞という詞類の註解本の贈与を受けて、之れ亦興に乗じ、此註本をオリヂナル・テクストとして、その十の九を忽ち訳し試みた。懶怠予の此すみやかなる業は、思うに函嶺の夏を彩る、清素淡美なる明星百合のあやなきマジックの造すわざであったろう。

専家の老学究の家学と、白面の機械学者の素人と、一は旧友の令兄、一は新知の忘年の友、此偶然の機会に結ばるる両人の書を同時に触目し、夏より秋かけて仙石原長尾峠精進湖に行き、もも自然に酔うたる人の如く盤垣する間、心は人事の最もねつぽき此唐山の詩詞の幾んど在来わが邦に紹介せられざる傷感情痴の文学に没頭した。別にアラン・ポオが、二十歳の若書き詩訳と俳句若干と短歌一首を得た。

姫沙羅の秘めし木肌を纏き〳〵て

 のうぜんかづらうつつともなし

その歳冬から正月かけて、熱海の双柿舎に遊び削正補訳を終え、支那訳詩集一巻爰に成った処、偶まの不測の事あって、其草稿を悉く喪失した。が、幸に三分の二は、好奇にも拙悪の第一草稿を欲れるとて自ら抄写して日に保持した一閨秀の抄本ありしに依り、勇を鼓して第二稿本の再製にかかり、夏に至って上総国大貫の某旧家に留つて業をいそぎ、草稿を携え、盃友を拉し、鹿野山神野寺に登り、

ほととぎすこは関東の第一寺

転じて凾嶺思出の、関守の葦葺の古風の宿を尋ね往きて、全稿本悉皆成った。第二稿本の抄写は、主として福田君江鮫島はるみ両嬢子の手によった。

詞の中では、十六字令が、一首の詩の字数として音数を並べると、わが俳句よりは短い。その外、南歌子といい、憶王孫といい、知夢令といい、調笑令というごとき、長短のライン参差錯落たる詞のバァラエティズを余さじと収め得たのは、小林氏註本のおかげであった。同君は更に詞学文献をあまた貸し与えたが、已に気分本意のわが興が、ようやく他に移っていたので、はつかに数首を採るにとどまった。塩谷本からの訳詞は多く紛失し、残の一部は性質上ここにはその詞に近き情懐のもの若干を加えるにとどまった。

詞類の研究や註解や訳詞は在来この邦には太だ尠なかった。その音楽のたましいによる艶冶放達真率受田の情姿の横溢をば、一図に謹厚なるわが漢学先生巨匠たちが桑中の文嬉として忌んだからであったろう。が、これは戦後の汚辱中に純ら時花る、夫の色雑情俗文学中に彙類せらるる俚諺猥雑なる歌謡曲の若きたぐいとは全くちがう。

原と志那楽器にあわせる心で制作せられたる高雅体シャンソンの類であり、作者は唐宋より現代民国に及ぶ一流男女詩客より、王者犯臣、名もなき歌妓妻妾にまで到る諸人を包容しておる婉約の詩風であるから、予も亦訳詩として、江戸小唄、隆達、投節、歌沢のたぐいの古雅なる三絃にあわせて歌うみじか唄もの詩形を主として摂り用いた。その合不合、誤釈曲解の多少は、(必ずあると惟うが)虔んで隠れたる江湖博雅の大教に俟ちたい。

予ははかなき七十年の生涯を、西洋文学の専家として起った者であるが、若冠より志那文化文学を崇尚し、嗜唱し、濫読し、二十代の末葉の比、予の中央亜細亜症は赤道下を航過していた。志那という二文字からが、予にとっては已に絶待に敬重酷愛そのもので、事新らしく中国なんどと云い直す心根の中の卑屈を肯えて冒すにはあたらない。支那はCHINEであり、支那の二字には、儼たる世界一流文化国家の伝統と歴史とのニュアンスが勁い。支は支配也、那は持去也など考える不学の妄人は、如何に十六等国に飄零したりといえ、此邦の人間臭き日本人の間には、今日一人も居りはせぬ。此書の著者わたくしは、それでも尚遠慮して唐山の二字を用いたが、戦勝唐山禹域の良識諸君子は、敗戦日本市井の頽老病廃の一読諸人のこの文字のセンスの旨一応はよく心得ていてもらいたい。

歌をうたうその直前に、要なくこちたき談義は、抑も浅葱裏の学究リャンコの素、野巫の骨頂というものゆえ、尚なめずりする口もとを抑えて、なじょうこの上はいかでと、いそいで差し控えた。

昭和己亥二月十五日 信陽飯田市の僑居に於て 黄眠酔人

     *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

のみしらみ音に鳴く秋の虫ならばわがふところは武蔵野の原

【大意】蚤や虱が松虫や鈴虫のように音を立てて鳴く虫であったら、わしのふところは武蔵野の原の様だろう。

【評言】これは云うまでもなく戯れに詠んだもので、俳諧歌とも云うべきものである。良寛がいかなる小さな虫けらにまでも博大な愛を寄せていたということについてのさまざまな逸話が今日なお語り伝えられている。この歌は戯れながらにそうした心もちも含まれていることが感じられる。私はこの歌をおもい出す度にかの俳諧寺一茶の「わが味の柘榴の匐はすみしかな」という一句を聯想する。一茶のは「柘榴の実が人間の肉の味がするというから自分の体についている虱をその柘榴の木に匐わしてやった」というので、そこには一茶一流の皮肉がいかにもよく現れている。同じく戯れても、そこに人の相違の出て来るのが面白い。

9月24日(木)

今日は、昨日とうってかわって快晴。ちょっと暑くなるらしい。

夜の内に線状降水帯の直下にて激しく大量の雨が降るかも

相模川は茶色に濁り水量の増したるやうなり草地無くなる

三川合流地帯の広河原。泥水の内なり。激しき泥流

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『孟子』尽心章句下260 孟子曰く、「堯・舜りに至るまで、五百有余歳。禹・のきは、則ち見て之を知り、のきは、則ち聞いて之を知る。りに至るまで、五百有余歳。・の若きは、則ち見て之を知り、文王の若きは、則ち聞いて之を知る。文王由り孔子に至るまで、五百有余歳。・の若きは、則ち見て之を知り、孔子の若きは、則ち聞いて之を知る。孔子由りに至るまで、百有余歳。聖人の世を去ること、のく其れ未だ遠からざるなり。聖人の居に近きこと、此の若く其れだしきなり。りして有ること無しとせば、則ち亦有ること無からん」

孔子の時代も孔子の土地もかくのごとく近いにもかかわらず孔子を知らぬとは

『孟子』260章句が終わった。いやあ長かった。これで『論語』・『大学』・『中庸』・『孟子』の四書が終わった。たいへんなことであったが終わったのだ。よくやった。ほめてやりたい。とはいえ、ほとんど覚えてはいないが。まあこんなものだろう。

しばらくは中国古典シリーズを休みたい。かわりに日夏耿之介『唐山感情』を読んでみる。漢詩が江戸前に生まれ変わる。何と魅力的な事か

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

夜あくれば森の下いほからすなく今日も浮世の人の数かも

【大意】夜が明けると今朝もこの森蔭の庵に烏の鳴き声がきこえる、ああ今日もわしは生きているのかなあ、きょうも昨日と同じく、わしは浮世の人の数に入っているのだな。

【評言】自己の生に対する驚き――そう云ったものが力強く表現されている。上句を自然に、すなおにやわらかく、しかもしみじみとした調子で運んで来て、下句に至って突如として内心の閃きを強く鋭く歌っている。この歌を「観念的に自己を見ている」というように云っていた人があったが、私はやはり鋭い実感の歌だと思っている。山中独居の朝のめざめに閃いた実感がこもってはいないだろうか。「今日も浮世の人の数かも」の表現を私は決して観念的だとは思えない。「浮世」という言葉もそれを私たちが使うのとは使う人の気持がちがっている。

9月23日(水)

なんだか雨、雨、雨。

横光利一『旅愁』上読了。船でヨーロッパ、特にパリに行く一行の矢代と久慈、それに宇佐美千鶴子らの葛藤と感情を描いて、執拗なほどだが、著者の筆力だらうなんとか読めた。まだ下があるから、終わったらまた。

報道は世界全土の災害と戦乱を映すかくのごときか

戦争に反対をするデモ隊にわが知り人も叫び拳あぐ

トランプももう力無し日ごと夜ごと意味なきことをのたまふのみに

    *

『孟子』尽心章句下259-3 万章曰く、「一郷皆原人と称す。往く所として原人らざる無し。孔子以て徳の賊と為すは、何ぞや」と。曰く、「之を非とせんに挙ぐべき無く、之をらんにるべき無し。に同じくし、にす。之にること忠信に似、之を行ふことに似たり。衆皆之を悦び、自ら以てとすも、もに堯舜の道に入る可からず。故に徳の賊と曰ふなり。孔子曰く、『似て非なる者を悪む。を悪むは、其の苗を乱るを恐るればなり。を悪むは、其の義を乱るを恐るればなり。利口を悪むは、其の信を乱るを恐るればなり。を悪むは、其の楽を乱るを恐るればなり。を悪むは、其の朱を乱るを恐るればなり。を悪むは、其の徳を乱るを恐るればなり』と。君子はに反るのみ。経正しければ、則ち庶民興る。庶民興れば、に無し」と。

似て非なるものを憎み天下の大道さへ興れば邪悪はなくなる

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

あすよりの後のよすがはいざ知らず今日のひと日はゑひにけらしの  (弟由之に)

【語義】「よすが」は「寄処」で「たより」「よるべ」の意。〇「いざ知らず」は「まあわからない」「どうでもあれ」というほどの意。

【大意】明日からのよるべはどうでもあれ今日一日は酔っちまったというものさ。

【評言】これもおそらく晩年に近い作であろう。久々で実弟山本由之と遇ったうれしさに二人で酒を飲み合った折の歌である。由之は良寛の次弟で、十八歳で良寛が出家した後を承けて家督を相続したのであったが、この人も五十の年に家職を長男泰樹に譲り、自分は専ら風月を友として諸国を遊歴すること多年、晩年剃髪して庵室を越後与板に結び天命五年正月十三日七十三歳で歿した。国学に長じ、和歌書画も能くした。この歌は良寛の他の一面をいかにも気持よく現わしている。「山かげの岩間をつたふ苔水」のように幽寂清澄な境地に高く住んでいた良寛が、時にこうしたうかれ心になったことを思うと、一層その人がなつかしくなる。良寛は酒はあまり大量ではなかったが、好きなことは大に好きであったという。この他にも酒の歌が少なからずある。更に二、三を挙げて見よう。

さす竹の君がすゝむるうま酒にわれゑひにけりそのうま酒に

さす竹の君がすゝむるうまざけをさらにやのまむそのたち酒を

これは定珍と唱和した折のである。「たち酒」は前にも説明した如く客の帰り際に出して飲ます酒である。

よしあしのなにはの事はさもあらばあれともにつくさむ一つきの酒

うま酒にさかなもてこよいつも〳〵草のいほりに宿はかさまし

これも定珍との唱和で、定珍が酒と肴を携えて良寛の庵をたずねた折に詠んだものである。「よしあしのなにはの事」の「なにはの事」は「難波の事」ではなく「何はの事」即ち「何のかのという事」というほどの意であろう。「一つき」は「一坏」で「一杯」というに同じ。「善いとか悪いとか何とかかんとかいう様なむつかし事はどうでもいい、まあ一緒に一杯やろうよ」というようなのが一首の意味であろう。後の歌は定珍が「うま酒にさかなしあらばあすもまた君がいほりにたづねてぞ来む」と歌ったのに和したのである。いずれもいい気持の歌である。しかもその間少しも気取りのないのはうれしい。こうした歌はとかくわざとらしく磊落ぶりがちなものであるが、良寛はどこまでも無邪気に歌っている厭味がない。

9月22日(火)

台風はどこへ行っちまったのか。このあたりはひどい被害もなく、今日は快晴。暑くなるらしい。

世は荒れて雨水に浸かるか自動車のあまた動かず雨止まざりき

自動車の両側に飛沫跳ね上げてしばらく行けば動かずなりき

日本のみならず世界全土に土砂災害・山々の火事に混乱激し

    *

『孟子』尽心章句下259-2 「孔子曰く、『我が門を過ぎて我が室に入らざるも、我を憾みざる者は、其れか。郷原は徳の賊なり』と」曰く、「如何なればに之を郷原と謂ふ可き」と。曰く、「『何を以て是れたるや。言は行ひを顧みず。行ひは言を顧みず。則ち古の人、古の人と曰ふ。行ひ何為れぞたる。斯の世に生れては斯の世を為す。せららるれば斯に可なり』と。として世にぶる者は、是れ郷原なり」と。

郷原とはつまらなき奴閹然として本心あかさず媚びへつらふもの

    *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

山かげの岩間をつたふ苔水のかすかに我はすみわたるかも

【語義】上句を「かすかに」の序詞とも、また「すみ」の序詞とも見ることも出来るが、そう片附けてしまうよりも「苔水の」の「の」を「の如く」という風に解して一首全体の上に上句を生かし響かすように解した方がよいと思う。〇「苔水」は岩間から沁み出て苔を伝って滴り落ちている細い清水。〇「すみ」は「住み」とも「澄み」ともとれる。おそらくその二種の意味を含めているのであろう。

【大意】山かげの岩の間から沁み出て苔を伝い滴っている清水のように自分は世にあらわれず見るかげもない、しかし澄み切った生活を営んでいることよ。

【評言】「山かげの岩根もり来る苔水のあるかなきかに世をわたるかな」と書いた墨跡もあるが、この方は調子も弱いし緊張の度も足りないから、おそらく直さない前の未定稿といったようなものであろう。この歌は良寛が国上山の五合庵に入ってからの晩年に近い詠出にかかるもので、良寛の歌の最も代表的な一首である。彼みずからの心にしっかりと自己の生活の姿を攫み得た最も澄み切った心境から溢れ出た歌である。

微かな生活、しかし澄み切った生活――そこにこそ彼みずからの自己に対するつつましやかな、しかし深味のある満足も安心もあったのである。「山かげの岩間をつたふ苔水」に自己の生の姿と心とを見出したところに自然と人間との微妙な融解境が展開されている。斎藤茂吉氏はそれを指して「象徴であると云いたい」と云っている。いかにもこれは象徴と見るべきであろう。斎藤氏はなおこの歌におけるテニヲハの使い方に注意すべきことを説いている。兎にも角にもこの歌が良寛の歌の中で最も秀れた歌の一つであることは、多くの人の認めていいことだと思う。この歌を静かによみ味わうことは私達の迷い易い心にとりてありがたい救いであるような気さえする。

9月21日(月)

台風の雨がふりつづく、寒い。

昨夜からの雨、そして雨。湿気が多く圧さるるごとし

圧しくる空の重さに耐えかねて今日一日は臥してゐるなり

時に止む時もあらむかその時を間違ふことなく歩みだしたり

    *

『孟子』尽心章句下259 万章問うて曰く、「孔子陳に在りて曰く、『ぞ帰らざる。吾が党の士は、にして進取なり。其の初めを忘れず』と。孔子陳に在りて、何ぞ魯の狂士を思ふや」と。孟子曰く、「孔子は、『中道を得て之に与せずんば、必ずやか。狂者は進んで取り、獧者は為さざる所有るなり』と。孔子豈中道を欲せざらんや。必ずしも得可からず。故に其の次を思ふなり」と。「敢て問ふ如何なれば斯に狂と謂ふ可き」と。曰く、「・・の如き者は、孔子の所謂狂なり」と。「何を以て之を狂と謂ふや」と。曰く、「其の志たり。古の人古の人と曰うも、其の行ひをすれば、をはざる者なり。狂者又得可からず、をしとせざるの士を得て、之に与せんと欲す。是れなり。是れ又其の次なり」と。

孔子は中庸の道を行ふ者と共にゐる志は嘐嘐然としいにしへの人を求む

    *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

なほざりにそとにでて見れば日はくれぬ又たちかへる君がやかたに

【語義】「なほざりに」は「深く心を付けずに」即ち「何の気なしに」。〇「やかた」は「館」で「家」というに同じ。

【評言】これも阿部定珍に与えた歌である。定珍の家に来ていてまだ帰りたい気もないのだが何ということなしに外へ出て見たが日が暮れているのでまたその家に立帰った折に、それだけの事をそのままに詠んだのであろう。ありのままを自由に率直に歌っていながら、情味がみちみちている。「なほざりに」もよく気持をとらえてある。「そとにでて見れば日はくれぬ」の「でて」もピンと響く「いで」などではつまらない。上句と下句のつづき工合もいい。こうした有りのままの経験を描いてそのうちに無量の情味を蔵せしめているのは、良寛の歌の最もいい特色の一つである。この歌をよむとその場合のその人の様子が目に見えるような気がすると同時に、いろいろ動いていたその人の経過までが味深く感じられる。事象だけを歌うのは易い、心だけを歌うのは易い。しかし、このように事象を歌いながら、歌いつくせない心までも含ませることは至難である。こうした歌をよんでただこれが無造作にのみ歌われたものだとなんとか思ってはとんだまちがいである。随分と苦労を経なければここへは行けないと思う。

9月20日(日)

朝方、ちょっと曇っていたが、後は雨。

気温は下がれどこの蒸し蒸し体調に影響ありからだ重し

天の圧力か圧しくるこの力には堪え難くして

もう少し若ければこんな天気などなにほどのこともなしとおもへるかもしれず

    *

『孟子』尽心章句下258 を嗜む。而して羊棗をふに忍びず、公孫丑問うて曰く、「と羊棗とれかき」と。孟子曰く、「膾炙なるかな」と。公孫丑、「然らば則ち曾子は何為れぞ膾炙を食ひて、羊棗を食はざる」と。曰く、「膾炙は同じうする所なるも、羊棗は独りする所なればなり。名をみてをまざるは、姓は同じうする所なるも、名は独りする所なればなり」と。

羊棗を好んで食うは曾晳なりその子曾子は羊棗食はず

    *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

われもおもふ君もしかいふこの庭に立てる槻の木いとふりにけり

【語義】「槻」は欅の一種、「つきけやき」ともいう。〇「しかいふ」は「そういう」。

【評言】これは阿倍定珍が「この庭に立てるつきの木人ならばとはましものをいく夜へぬると」と歌ったのに唱和したものである。何でもない歌であるが、「われもおもふ君もしかいふ」などは自由なもおである。それでいて少しも厭味がない。無理に弄した技巧ではないからである。

9月19日(土)

涼しいのです。晴れています。

珈琲のカップを両手に包み飲むこの幸せをたのしみてゐる

温度下がるも湿度高きこれを秋とはいまだ呼べざる

たしかに朽ち葉落ち葉は増えたるが秋には遠き情緒あらざる

    *

『孟子』尽心章句下257 孟子曰く、「心を養ふは、より善きは莫し。其の人と為りや寡欲なれば、存せざる者有りと雖も、寡し。其の人と為りやなれば、存する者有りと雖も、寡し」

人の本心を修養するに欲を少なくするよりよき方法はなし

    *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

山里のさびしさなくば殊更に来ませる君に何をあへまし

【語義】「あへ」は「饗へ」即ち「馳走する」。

【大意】山里のさびしさがなかったらわざわざ来てくだすったあなたに何を馳走しましょう、何もない。

【評言】わざわざこんな山里にいる自分をたずねてくれたがこの「さびしさ」以外に何も馳走するものはないという言葉のうちには、謙遜と共に一種の誇がある。さびしい山里は、そのさびしさそのものが第一の馳走だとは良寛にして初めて云い得る言葉である。この歌は阿倍定珍に贈ったのである。