いや~珍しい朝から晴れてる。
鈴木大拙館
雨降るに思索空間の長椅子に端坐しておもふそのことばなど
廊下から仰げる欅に鳶の巣あり雨しとどふるを巣に返る鳶
金沢の桜はこちらの花と違ふ春のひかりをまとふがごとく
染井吉野に山桜、どちらも満開はなびらちらす
『孟子』万章章句下137-2 曰く、「君之を餽れば則ち之を受くと。識らず、常に継ぐ可きか」と。曰く、「穆公の子思に於けるや、亟々問うて、亟々鼎肉を餽れり。子思悦ばず。卒りに於てや、使者を標きて、諸を大門の外に出し、北面し、稽首再拝して受けず。曰く、『今にして後、君の犬馬もて伋を養ひたるを知る』と。蓋し是自り台餽ること無きなり。賢を悦びて挙ぐる能はず、又養ふ能はずんば、賢を悦ぶと謂ふ可けんや」と。
賢者好みても挙げ用いることならず養ふできずば賢者ならず
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『梁塵秘抄』植木朝子編訳
甲斐国よりまかり出でて 信濃の御坂をくれくれと はるばると 鳥の子にしもあらねども 産毛も変はらで帰れとや (四句神歌・雑・三六一)
【現代語訳】甲斐国から出て参って、信濃の御坂峠を苦労しながらやっと越え、はるばる都に上って来たのです。それなのに、鳥の子でもないというのに、産毛も生え変わらないまま、国に帰れとおっしゃるのでしょうか。
【評】うら若い乙女の嘆きの歌。主体を巫女とみて勧請のための苦しい旅を続ける中で、乙女のままではいられなくなってしまった自らを嘆く歌と見る説もある。当該今様はそうした嘆きを装いながら、実は、男の気を引こうとする遊女の手管の歌と読めるのではないか。「産毛も変はらで帰れとや」のよく似た表現として、前歌に「色も変はらで帰れとや」がある。
御前に参りては 色も変はらで帰れとや 峰に起き伏す鹿だにも 夏毛冬毛は変はるなり (三六〇)
(神社にお参りしたのに、色も変わらないで〈周辺の巫女や遊女と逢いもしないで〉帰れというのか。峰に起き伏す鹿でさえ、夏の毛と冬の毛では色が変わるのに)
三六〇番歌は、神社周辺に集まっている遊女らとの情事を匂わせた一首であり、男が「遊女に逢いもせず帰ってくるのは無理だ」と開き直っている歌と捉えられるが、実は、遊女らが巧みに客を引く言葉であり、三六一番歌も同様の趣を持っているのではないだろうか。三六一番歌の主体を田舎出の若者と見て、「色町をひやかしただけでは帰れない」と訴えた歌と見る説もあるが、自らを鳥の子に譬えるところにはどちらかというと、女性的な口吻が感じられる。
「甲斐国」は現在の山梨県、「卵」との掛詞で後の「鳥の子」と響き合う。「信濃の御坂」は長野県下伊那郡の神坂峠。美濃国(現在の岐阜県南部)に抜ける難所。平安時代後期の説話集『今昔物語集』巻二八-三八話には、信濃守藤原陳忠が、任期を終えて上京するために御坂を越えた時、掛橋を踏み外して馬もろともに谷底に落ちたことが見える。陳忠は木に引っ掛かって無事であったが、人々は、「底いくらばかりとも知らぬ深さ」の谷なので、助かるはずがないと思っていた。この峠の険阻であったことを示す逸話であろう。当該今様は、このように険しい場所を提示して、都に来るまでの苦労を具体的に描出し、強調している。
さて、大治二年(一一二七)頃に完成した第五番目の勅撰集『金葉和歌集』には、次のような一首が収められている。
甲斐国より上りて、をばなる人のもとにありけるが、はかなき事にて
そのをばが、なありそ、とて追ひだしければよめる 読人不知
鳥の子のまだかひながらあらませばをばといふ物はおひいでざらまし
(鳥の雛がまだ卵のままであったならいたらば、尾羽など生え出ないだろうに―私もまだ甲斐国にいたならば、叔母〈伯母〉が追い出すこともなかったろうに)
この和歌は、かひ(卵―甲斐)、をば(尾羽―叔母または伯母)、おひ(生ひ―追ひ)の三種の掛詞が趣向となっているが、内容の類似から、同一事件の歌謡化が三六一番歌であるとする説もある。しかし、三種の掛詞が眼目となると和歌と当該今様との掛詞の一致は「かひ」だけであり、今様には肝心の「をば」が出て来ない。さらに、特定の個人的な事件が歌謡として流布するにはやはり相当の理由が必要ではないだろうか。したがってここでは、先のように、男たちを責めるように誘う女の、媚を含んだ歌と見ておきたい。旅の苦労を訴え、自らの若さと純情さを誇示し、この私をこのまま国へ帰すの、と恨む、そのような装いの中に歌われた甘い誘惑の歌と捉えられよう。