8月2日(日)

暑い、暑い、暑い……

アスファルトの亀裂に縦に数メートル緑の低き草が生へたり

亀裂よりはみだす雑草時を経て枯れだすものもありて色変ず

まだみどりの草も枯れたる草も混在してゐる縦に走る亀裂

    *

『孟子』尽心章句上209 問うて曰く、「士は何をか事とする」と。孟子曰く、「志をくす」と。曰く、「何をか志をくすと謂ふ」と。曰く、「仁義のみ。を殺すは、仁に非ざるなり。其のに非ずして之を取るは、義に非ざるなり。にか在る、仁是なり。にか在る、義是なり。仁に居り義にれば、の事、備はる」と。

孟子いふ「常に仁にをり、義によって事を行ふそれこそ大人」

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

ゆふぎりにをちの里べはうづもれぬ杉立つ宿にかへるさのみち

【語義】「をち」は「遠方」。〇「かへるさ」は「帰る折」。

【大意】自分は今あの杉の群っている自分の棲家へ帰ろうとして道を急いでいる、遠くを見ると村々はもうすっかり夕霧の底に蔽いかくされた。

【評言】これも秋に歌であろう。「杉立つ宿」でさびしみが一層深められている。良寛の住んでいた国上山の五合庵のあたりは、もと老杉昼なお暗く茂り立っていたということである。松の林は何となく明るい感じがするが、杉の群立というと見るからに暗いさびしい感じがする。そうした山上の庵へあの茫々とした平野の中の細道を一人とぼとぼと托鉢から帰って行く老法師の姿が目に見えるようだ。上の句の「ゆふぎりにをちの里べはうづもれぬ」の表現もいい。殊に「うづもれぬ」の一句で印象がきわやかに現わされている。

8月1日(土)

晴れ、晴れ、暑い。

三眼九尾のきつねひるがへる踊り見て飽くることなく見尽くしてをり

闇の奥へとびだしてゆく狐なり三眼九尾の不可触のもの

闇をぬけてあつけらかんとゆく狐どこまでゆくか九尾をふりて

    *

『孟子』尽心章句上208 公孫丑曰く、「詩に曰く、『せず』と。君子の耕さずしてふは、何ぞや」と。孟子曰く、「君子の是の国に居るや、其の君之を用ふれば、則ちに、其の之に従へば、則ちなり。素餐せざること、れか是より大ならん」と。

君子さへその国にをれば君は安泰その君が彼を用ふれば孝悌忠信を子弟は修む

    *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

この岡につま木こりてむ久方のしぐれの雨の降らぬまぎれに

乞ふと里にもいでずこのごろはしぐれの雨の間なくし降れば

水や汲まむたき木やこらむ葉やつまむ秋のしぐれの降らぬそのまに

【語義】「つま木」は「爪木」で即ち「爪折りたる薪木」の意。〇「こりてむ」は薪をとって置こうの意。〇「久方の」は「雨」の枕詞。〇「まぎれに」は「間切に」で降らない間にの意。〇「間なくし」の「し」は意味を強める為に添えた語。

【評言】この歌は三首ともほとんど同巧であるが、しかも四、五句の「降らぬまぎれに」「間なくし降れば」「降らぬそのまに」の表現にわざとならぬ技巧のこまかさが窺われる。そしていずれにも良寛その人の生活状態の一端が窺われてなつかしい。

7月31日(金)

今日も暑い・あついのだ。

親指の爪を伐るときふとうかぶわたしもかつてはもののふならむ

奈良一文字に買ひきたる爪切を愛す武器のかはり

武器の代りを手にもてあそぶ爪切は刀鍛冶がうつ灼熱の塊り

    *

『孟子』尽心章句上207 曰く、「は曰く、『、にれしめず』と。をにせしに、民大いに悦べり。太甲賢となる。又之に反せしに、民大いに悦べり。賢者の人臣るや、其の君賢ならざれば、則ち固より放す可きか」と。孟子曰く、「伊尹の志有らば、則ち可なり。伊尹の志無くば、則ちふなり」と。

孟子がいふ「伊尹の志があればよし、無ければそれは簒奪ならむ」

    *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

秋雨の日に日に降るにあしびきの山田のをぢはおくて刈るらむ

【語義】「日に日に」は「来る日も来る日も」または「毎日」の意。〇「あしびきの」は「山」の枕詞。〇「をぢ」は「老翁」。〇「おくて」は「晩稲」。

【評言】この歌も前に掲げた「足引の山田のをぢが日めもすに……」の歌と同じように農人の労苦を思いやって詠んだのである。毎年のことではあるが、越後では到るところの農村で雨の為に晩稲を刈り乾す日の少いのを嘆ずる人々の声を聞く。世離れた山中に孤住していた良寛にも、そうした農人たちの身の上が来る日も来る日も雨の降るにつけてしみじみ思いやられたことであろう。晴れる日を待ち得ないところから、雨の中をも厭わずに山田の晩稲を刈っている農夫の姿、それに想像を浮べながら山中の庵に秋雨の音を聴いていた孤独な老法師――この歌はそうした二重の意味で私の心を惹く。

7月30日(木)

朝方は涼しい。しかし直に暑くなる。暑い。

高木彬光『帝国の死角 第二部・神々の黄昏』を読み終える。自殺した鈴木大佐の抱えていた天皇の資産の行方を問うた続編である。鈴木の次男にあたる二郎を中心に話は巡る。八光教などという新興宗教の教団をもまきこんで破天荒な展開をするのだが、奇怪な話であり、興味深くもあるが……まあ、おもしろかった。

木に花咲く季節とはちがふ木の勢ひ夏のものなり。緑濃くして

苔の色も少しく濃くなり。夏の虫ねばつくやうに飛びめぐりをり

またまた造園業の手が入り全ての花は絶滅危惧種

    *

『孟子』尽心章句上206 孟子曰く、「堯・舜は之を性にするなり。・武は之を身にするなり。は之をるなり。久しくりて帰さずんば、んぞ其の、に非ざるを知らんや」

五覇は仁義を借りてゐるしかしそのまま返さずいればだれも知らず

    *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

飯乞ふとわれ来にけらし此の園の萩のさかりに逢ひにけるかも

【語義】「来にけらし」は「来たのらしい」または「来たのであろう」。

【大意】俺は今丁度うまくこの園の萩の花ざかりに逢った、これはまあ何という美しさだ、何といううれしいことだ、それにしても俺はここへ物を貰いに来たのらしいがなあ。

【評言】「われ来にけらし」は力強い表現である。「飯乞ふとわが来しかども」とか、「飯乞ふとわが来て見れば」とか、「飯乞ふとわが来し君が」など云ったのではなんの妙味もない。「来にけらし」だからいいのである。一切を忘れ果てて萩の花の美に吸い込まれた歓びを歌ったところに心を惹かれる。生活の糧を求めて来たことすらも打ち忘れてひたすら自然の美に見とれた、その瞬間の心を捉えたところに動かされる。

   飯乞ふとわれこのやどに過ぎしかば萩のさかりに逢ひにけらしも

という歌もあるが、いずれにしても「けらし」は発せずに居られなかった言葉であったと見える。一が他をなおした結果であるとは思えない。自分にもその折の心もちはどちらがどうかわからなかったのであろう。そこが却って私達には面白く感じられる。即ち彼は前の歌のようにも感じたと同時に、更にまた「うまくこの家の萩の花盛りに逢い得たものだ、これはまあ何という仕合だ、これというのも俺がこうして物を貰おうとしてこの家の前を通りかかったから丁度うまく萩の花盛りに逢うことが出来たのかも知れないよ」こうも感じた。そしていずれの感じ方をも彼は捨て得ないでそのままいずれをも歌にした。それがまた一層私達には興味深く感じられるのである。

こんなことを云うとまたろくでもない理屈をこねるといって笑われるかも知れぬが、私はこの歌からこんな事まで考えさせられたのである。吾々生きている。この肉体の生命をつなごうとして働いている。しかも、その生きんとする欲望の為の働きの連続とも見るべき吾々の生活の途上において、吾々は多くの楽しみを与えられている。飢えて食う。食うはただ生命をつながん為めであろうが、しかもそれと同時に吾々は快い味を得ている。これは二重にありがたいことだ。だが、一体こうした吾々の生活はただ生きんとする欲望のみの然らしむるところかどうか。自分はただ生きんが為に生きているらしい。しかも自分には時としてその生きんが為の営みをすらも打ち忘れて美しさに見とれ、楽しさに驚かされることがある、これはまあどうしたことだ――そこまで良寛のこの歌の心を以て行こうというのではないが、私としては時にこの歌からこんなことまで考えさせられずには措かないだけは偽れない事実である。「飯乞ふとわれ来にけらし此の園の萩のさかりに逢ひにけるかも」。「飯乞ふとわれこのやどに過ぎしかば萩のさかりに逢ひにけらしも」。そのいずれがいずれとも定めがたいところに、この歌を詠んだ折の良寛その人の心持の貴さがある。

7月29日(水)

朝はすずしいが、やがて暑くなる。

薄雲に隠れておぼろな太陽あり。模糊たるひかりはこの世の

雲を出ずばおぼろけに透く太陽のわずか光あればよきなり

大山も富士をも隠す夏の雲、こんもりと山の在りかを隠す

    *

『孟子』尽心章句上205 孟子曰く、「すこと有る者は、へばを掘るがし。井を掘ること、而もに及ばざれば、猶ほ井を棄つと為すなり」

事をなさんとする者は必ずやり抜かねばならぬ

    *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

秋もやゝうらさびしくぞなりにける小笹に雨のそゝぐをきけば

【語義】「うらさびしく」は「心、淋し」。〇「小笹」の「小」は意味のない発語で単に「笹」というに同じ。

【評言】「秋もやゝ」の「やゝ」がよく利いている。下句の調子にもたるみがない。「きけば」も少しも説明に堕していない。じつと聴き入っている雨の音を受けているものが笹であるところに動かし難い実感味がある。微かな音のようであるが天地を引き入れてゆくように感じられる。本当の孤独に住したものにでなければ、聴きとれないような微かな自然の音楽である。「秋もやゝうらさびしくぞなりにける」――そこから更に果しも知れない広大なたましいの世界がひろがっている。決して単なる詠嘆などではない。

7月28日(火)

曇りで、少し涼しい。このままだといいのだが……

雨ふれば草も木もみどりあたらしく草葉・木の葉の匂ひあざやぐ

木も草も雨のしづくに濡れたるに夏の匂ひすたのしきろかも

ビニール傘に雨音うけて踊りだすひょうろくだまはわれならなくに

    *

『孟子』尽心章句上204 孟子曰く、「は、を以て其のをへず」

柳下恵は三公の栄位の得失によりその操守を変えるようなことせず

    *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

わが待ちし秋はきぬらしこのゆふべ草むらごとに虫の声する

【語義】「きぬらし」は「来たと見える」。

【評言】平凡な歌のようで、しかもしみじみと胸にしみ入る力を持った歌である。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」などに比べると遥かに実感味の切実さがある。「このゆふべ」がよく利いている。ふと虫の音に心をとめた刹那の心の動きが「このゆふべ」の一句でピタリと捉えられている。「このゆふべ」のおかげで「きぬらし」も活きているのである。「わが待ちし」「草むらごとに」などの表現も吾々では容易に出ない言葉である。

7月27日(月)

ずっと曇り。だが夕刻に雨になるようだ。

道路上を人間が行く、そして帰るその上を翔ぶ白鷺のすがた

白鷺は一羽のみ道路の上をゆくその純白の無垢なるすがた

見上げて確認する人ひとりもあらずただ白鷺の視界のうちに

    *

『孟子』尽心章句上203 孟子曰く、「飢ゑたる者は食を甘しとし、したる者はを甘しとす。是れ未だの正しきを得ざるなり。飢渇之を害すればなり。のみ飢渇の害有らんや。人心も亦皆害有り。人能く飢渇の害を以て心の害と為すこと無くんば、則ち人に及ばざる憂ひと為さず」

飢渇の障害で心までも害することがなき人ならば憂ひ感ぜず

    *

相馬御風編注『良寛和尚歌集』

かぜはきよはさやけしいざともにをどり明さむ老のなごりに

いざうたへわれたち舞はむぬば玉の今宵の月にいねらるべしや

【語義】「さやけし」は「あきらけし」。〇「なごりに」は「心残りに」若くは「残り惜しさに」。〇「ぬば玉の」は夜の枕詞で「今宵」にかかるもの。〇「いねらるべしや」は「ねられようか」。

【評言】誰か心の合った友人と酒でも飲みながら折から聞えて来る盆踊の太鼓の音や唄の声にそそられて感興のあまり相手の友人に詠み与えたのであろう。この二種の調子には珍しく溌溂たる生気が動いている。「かぜはきよし月はさやけし」の如き、「いざうたへわれたち舞はむ」如き、「いねらるべしや」の如き、いかにいきいきとした気持の溢れ出た句法である。良寛のたましいは静寂の境に安住していたが、良寛その人はあらゆる人、なべてものと共に遊んだ。子どもらと共に戯れ、村人と共に踊り、時にはうかれ女を相手にはじきを遊びすらもした。彼はいかなる豪族の旦那様とも膝を交えて語ったと共に、いかなる悪党やならず者とも打ちとけて酒を飲むことが出来た。そしていたるところ、いかなる種類の人々の間にも常に春風の如きやわらぎをもたらした。しかも彼みずからは何人のよつても傷つけられず、何人によつても汚されず、何人によつてもゆがめられず、常に幼な児の如く純真で、岩間の清水の如く澄んでいた。