8月9日(日)長崎の日

今日も晴かよ。暑い。

恩田陸『夜果つるところ』を詠み終える。墜月荘という不思議な館をめぐるミステリ。女だか男だかわからない主人公。天帝の子どもだといわれる主人公。しかもこの小説は「飯合梓」という著者が書いたものになっている。作中作なのだ。『鈍色幻視行』という上下二冊の本編がある。それを読んで、斯の静謐で耽美な世界をまた考えてみよう。

朝から強きひかりに照らされて欅大樹の木の葉かがやく

昼顔の花のピンクの色目立つみどりの垣を通りゆくとき

雑草の強さか。丈低きみどりなれど、踏みつけられてもまた立ちあがる

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『孟子』尽心章句上215 の、喪を短くせんと欲す。公孫丑曰く、「の喪を為すは、猶ほ已むにれるか」と。孟子曰く、「是れ猶ほ其の兄のをらすものらんに、之に謂ひて、くにせよと云ふがごとし。亦之にを教へんのみ」と。王子に其の母死する者有り。其の之が為にの喪を請ふ。公孫丑曰く、「のき者は如何ぞや」と。曰く、「是れ之を終へんと欲するも、得可からざるなり。一日を加ふと雖も、已むにれり。の之を禁ずる莫くして、為さざる者を謂ふなり」と。

斉の妾腹の王子の中に生母を喪ふものありき数カ月の喪ゆるさるべきなり

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

月よみの光をまちてかへりませ山路は栗のいがのおほきに

【語義】「月よみ」は「月」というに同じ。〇「かへりませ」は「かえりたまへ」。〇「いが」は棘の密生した栗の外皮の称。〇「おほきに」は「おおきゆえに」。

【大意】これは良寛の庵のあった国上山の麓の渡部という村に住んでいた良寛の詞友阿部定珍が一日良寛の庵を訪ねて帰ろうとするのを引き留て良寛の詠んだ歌で、もう日が暮れかかったではありあせんか、同じことなら月が出てからお帰りになった方がいいでしょう、山の道は栗のいがが沢山落ちていてあぶないからというほどの心。

【評言】たまらなく温かい情愛のこもった歌である。すらすらと歌っているが、到底凡手の及びがたいところである。「栗のいがのおほきに」という実感から迸り出た句で一首が引きしめられている。相手に対するやさしい思いやりと共に、やるせない人なつかしさの情が漲っている。数多い良寛の歌の中でもこの一首の如きはその最も代表的な秀作として推奨するに躊躇しない。情を叙べていながら環境までがくっきりとえがき出されているのではないか。なお良寛にはこれと同時に出来た歌に左の一首がある。

月よみの光をまちてかへりませ君が家路は遠からなくに

この二首は「一所にして味うべき性質の歌である」と斎藤茂吉氏の云ったのには私も賛成である。ところで私達が良寛にこうした秀歌の詠めたことを感嘆するにつけても、私達は良寛の歌における「万葉集」の善き感化の如何ばかりであったかを注意せずには居られぬのである。

月よみの光に来ませあしびきの山を隔てゝ遠からなくに

これは「万葉集」にある歌である。良寛のあの歌は「万葉集」中のこの一首が充分に彼の心に消化されていなかったら、とてもあのようには行かなかったであろう。しかし、これは決して模倣ではない。感化と模倣とは全然ちがう。良寛の歌に万葉の感化がいかに顕著であっても、良寛の歌はやはり良寛以外何人の歌でもない。

8月8日(土)

朝は26度だけれど、暑くなるらしい。

本の頁ひらけばじきに眠くなる年齢ゆゑか致し方なし

老化しておぼろかにしか見えぬ眼にとらへがたなし『荘子』の一編

眼鏡を外し裸眼に読むしか仕方なしときに二重に見えたるものを

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『孟子』尽心章句上216 孟子曰く、「君子の教ふる所以の者、五あり。の之を化するが如き者有り。徳を成さしむる者あり。財を達せしむる者有り。問に答ふる者有り。せしむる者有り。此の五者は、君子の教ふる所以なり」

君子には人を教ふるに五つの方法があるその五つこそ教ふるべきや

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

秋風になびくやまぢのすゝきの穂見つゝ来にけり君がに

秋の夜の月のひかりのさやけさにたどりつゝ来し君がとぼそに

【語義】「さやけさに」は「あきらかなので」。〇「たどりつゝ来し」は「たずね探りながら来た」。〇「とぼそ」は「扉」で門口の意。

【評言】この二首はほとんど同一句法でよまれている。ただ第三句が異なっているだけである。二首とも心は自然の美に吸いこまれながら、しかも人間愛慕の情にひかされてゆく心持を現わしている点に、懐しみを感じさせる。「すゝきの穂見つゝ来にけり」と「さやけさにたどりつゝ来し」との表現の相違は特に注意すべきである。

8月7日(金)

海老名は暑い。

夏の雲。不二山あたりにわだかまり西の方には山すら見えず

大山のいただきあたりも雲の中。夏の雲なりだうだうとして

積乱雲のごときが急に育つなり。山のいただき見えず雲ん中

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『孟子』尽心章句上214 孟子曰く、「は、天性なり。聖人にして、然る後に以てをむし」

ただに聖人のみが形骸にそなはるものを働かすべし

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

いにしへをおもへば夢か現かもよるはしぐれの雨をきゝつゝ

【語義】「いにしへ」はここでは自分の過去の生活の意であろう。「も」は疑問の「か」に添えた感嘆詞。

【大意】静かに自分の過ぎ去った生涯を思って見るとそれが夢幻でであったのか現実であったのかわからないような気がする、わけて秋の夜しぐれの音をききながら思いを過去に馳せて見たりすると。

【評言】上句の「夢か現か」というような表現は云わば型にはまった言葉であるが、それが下句の力ですっかり活かされている。「よるは」などは容易に出ない言い方である。

8月6日(木)広島の日

佐久の鯉はうまかった。渋滞。下界は暑い。

空の青、雲の白きが対になる夏の朝の暑くなりゆく

木々の間に太陽のひかり隠れたり。ひむがしの空束の間雲来る

草やぶにひるがほのピンクの花の色こころたのしき朝の公園

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『孟子』尽心章句上213 孟子曰く、「ひて愛せざるは、之をするなり。愛して敬せざるは、之をするなり。なる者は、の未だはざる者なり。恭敬にして実無ければ、君子す可からず」

幣帛の礼物をもって恭敬なり恭敬の心なくば君子引き留められず

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

玉鉾のみちまどふまでに秋萩はちりにけるかも行く人なしに

【語義】「玉鉾の」は「みち」の枕詞。〇「みちまどふまでに」は「どこが道だかわからないほどに」。

【大意】どこが道やらわからないまでによくまあこんなに萩の花が散っているものだ、通る人がないのだな。

【評言】落花の歌などには昔からよくこんなふうに歌った歌がある。しかし、この歌で吾々の参考とすべきは第二句の字余りの全体の上に及ぼしている効果や、それから第四句目の切れ方と結句との関係などである。一首の調子の上に何ともいえない快さの味われる点で私はこの歌を時々おもい出しては口にのぼして見る。

8月5日(水)

今日も清涼。

公園の欅の葉々のかたはらに強い光の太陽坐ます

太陽は雲を透かしておぼろげに見えてゐるこの曇りの空に

太陽は高く上りてこの世をば照らしだすなり。隠すものなく

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『孟子』尽心章句212 孟子よりにき、の子をし、として曰く、「は気を移し、養は体を移す。大なるかな居や。れく人の子に非ざるか」と。孟子曰く、「王子の宮室・車馬・衣服は、多く人と同じ。而るに王子の彼のき者は、其の居之をして然らしむるなり。んや天下のにる者をや。魯の君宋に之きの門に呼ぶ。守る者曰く、『此れ吾が君に非ざるなり。何ぞ其の声の我が君に似たるや』と。此れ無し、居相似たればなり」と。

地位が似たれば自然すべての様子が似てくるならむ

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

山住みのあはれを誰にかたらましあかざこに入れかへる夕ぐれ  ×

【語義】「あはれ」は「哀愁」。〇「あかざ」は「藜」で野生の草であるが、葉や穂は食用に供せらる。〇「こ」は「籠」

【大意】自分は今あかざの葉や穂を採ってそれを籠に入れて家に持ちかえるところだ、日はもう暮れかかっている、何ということなしに山に住んでいることのあわれさがしみじみと感じられる、だがこうした哀愁を一体誰に打ち明けたものだろうか、何だかそのような人もないような気がする。

【評言】「あかざこに入れ」の句などは実感からでなくては出ないように思われるが、全体として沁み入る力が足りないように感じられるのは、一つは下句の調子がたるんでいるからでもあろうが、それよりも三句切れの上句の調子と下句の調子とがしっくり調和していないからであろう。

8月4日(火)

八ヶ岳は清涼だ。

行くところにみみず動かず。ふまぬやうに歩み避けゆくみみずの身投げ

やっとこさっとこしんばうして土の中よりはいだすものを

空は曇りされど猛暑にみみずたち路上に乾びてのたうちまはる

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『孟子』尽心章句上211 問うて曰く、「舜、天子と為り、、士と為り、、人を殺さば、則ち之を如何せん」と。孟子曰く、「之をへんのみ」と。「然らば則ち舜は禁ぜざるか」と。曰く、「夫れ舜はんぞ得て之を禁ぜん。夫れ之を受くる所有るなり」と。「然らば則ち舜は之を如何にせん」と。曰く、「舜は天下を棄つるをること、猶ほを棄つるがごときなり。かに負うて逃れ、海浜にひてり、終身として、楽しんで天下を忘れん」と。

舜王の父が人を殺せばいかにせむ天下を棄てて父を負うて逃れゆくのみ

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

この頃は早苗とるらしわが庵はかたを絵にかき手向こそすれ

【語義】「早苗」は苗代から田に移植する頃の稲苗の称。即ち「早苗とるらし」は「稲の苗を苗代からとって田に移しているのだろう」の意。〇「かた」は「形」で、この場合ではその「様子」の意。〇「手向」は「供え物をする」。

【大意】この頃はどこでも田植をしているであろう、そう思って自分の庵ではその農人労作の有様を絵にかいてそれを神仏同様に思い供え物をして拝んでいる。

【評言】有りのままに事を叙しているのであるが、そのうちにもおのずから良寛その人の貴い心が現れている。農人の労作に対するさまざまの思いやりや、またそれについて自ら省みた上のさまざまの感情を少しも叙べずに淡々として事を叙している。そこには聊かの思わせぶりも、誇示もない。そのありのままが却って深い感動を与える。しかも「手向こそすれ」の「こそすれ」などの力強さには樸たれずには居られない。「かたを絵にかき」なども容易に出て来ない表現である。

8月3日(月)むすこ夏生の誕生日だ。暑い日だった。

結構涼しいのだ。曇りだけれど。

黄金蟲

足伸ばしのびてゐるのか黄金蟲。死にたるかなや、少しも動かず

エレヴェーターのとびらの前に、生前と変らぬ姿に黄金蟲死す

いづこかへ飛びて帰るを望めどももうだめだ死にせる黄金蟲には

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『孟子』尽心章句上210 孟子曰く、「は、不義にして之に斉の国を与ふるも、受けず。人皆之を信ず。是れ・をつるの義なり。人は親戚・君臣・上下を亡するより大なるは莫し。其の小なる者を以て、其の大なる者を信ぜば、んぞ可ならんや」

仲子はだめだ親戚・君臣・上下の人倫の大節までは立派ではない

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

秋の日にひかりかヾやくすゝきの穂これの高屋にのぼりて見れば

【評言】いかにも大きな歌だ。見ゆるかぎりただ銀色にかがやくすすきの穂で一ぱいになっているような気持のいい歌だ。「秋の日に」は一寸気になるが、自然にほとばしり出ているだけに弱くない。良寛の歌にはこういう風に一気に詠み放った歌に良い歌が多くある。「ひかりかヾやく」なども自然な表現であって、しかも調子を大きくするに与って力がある。更に「これの高屋にのぼりて見れば」にはたしかに驚きがある。すすきの穂の中を歩いて来てふと高屋にのぼって自分の今まで歩いていた地上の光景を見下し渡してその雄大な荘厳な美に驚かされた形である。自分がその中に居た間はさほど心にとめなかったその美に今更の如く驚かされている――そこがいいのである。これがある一定の所にとどまって居て眺めたとか、わざわざ家の内から外へ出て見たとかいうのであったら、さほど大きな感じは与えなかったであろう。「のぼりて見れば」がいかにも力強く響く。