3月19日(木)

朝は雨がちだが昼頃には晴れ間があり、暖かかった。

はんけち

  細やかなかやつり草に縁どられその片端に赤蜻蛉二つ

あれあれ見たか/あれ見たか/二つ蜻蛉が草の葉に/かやつり草に宿をかり……

  初路の死。あやまったとは思ひしがあはれなりけり清らかにして

  盂蘭盆の夜が更け初路の墓の前あはれ陰々と鬼気迫るもの

『孟子』万章章句上123-2 帝、其の子九男(きうだん)二女(にじよ)をして、百官・(ぎう)(やう)倉廩(そうりん)を備へ、以て舜に(けん)(ぼ)の中に(つか)へしむ。天下の士、之に就く者多し。帝将に天下を(じき)ゐて、之を遷さんとす。父母に順はれざるが為に、窮人の帰する所無きが如し。天下の士之を悦ぶは、人の欲する所なり。而も以て憂ひを解くに足らず。好色は人の欲する所なり。

帝の二女を妻とすれども、而も以て憂ひを解くに足らず。富は人の欲する所なり。富天下を有てども、而も以て憂ひを解くに足らず。貴きは人の欲する所なり。貴きこと天子と為れども、而も以て憂ひを解くに足らず。人之を悦び、好色・富貴あるも、以て憂ひを解くに足る者無し。(ただ)父母に順はるれば、以て憂ひを解く可し。人少ければ則ち父母を慕ひ、好色を知れば則ち少艾(せいがい)を慕ひ妻子あれば則ち妻子を慕ひ、仕ふれば則ち君を慕ひ、君に得ざれば則ち熱中す。大孝は終身父母を慕ふ。五十にして慕ふ者は、予大舜に於て之を見る」と。

大孝は終身父母を慕ふ。五十にして慕ふもの大舜を於て知らず

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

はかなきこの世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに 万の仏に疎まれて 後生わが身をいかにせん
 (法文歌・雑法文歌・二四〇)

【現代語訳】はかないこの世を生きていこうとして、海や山で生き物を捉え暮らすうちに、多くの仏に見放されてしまった。来世の自分の身をどうしたらよいのだろう。

【評】生きるために殺生の罪を犯さざるを得ない人の深刻なおののきを歌った一首。『梁塵秘抄』には、「鵜飼」の罪の意識に焦点を当てた今様もある(→三五五・四四〇)。

当該今様では、第三句に表現される多くの仏に見放されてしまったという自己認識が、堕地獄の恐怖をより一層切実なものとしている。

仏に捨てられたことを嘆く今様として、建長六年(一二五四)に成った説話集『古今著聞集』巻八には次のような今様が見える。

過去無数の諸仏にも 捨てられたるをばいかがせん 現在十方の浄土にも 
往来すべき心なし たとひ罪障おもくとも 引接(いんぜふ)したまへ弥陀仏

(過去世の無数の諸仏にも捨てられてしまった身の上をどうしたらよかろう。現在十方の浄土にも往生できるほどの心の修行ができていない。たとえ罪深い私でも、どうぞ来世は極楽へお連れください、阿弥陀仏よ)

仁和寺の覚性法親王に千手という寵童がいたが、新しく参った三河という優れた童におされ、やや影が薄くなってしまった。人に合わせる顔がないと思ったためか、千手は退出して、長い寺に参らなかった。ある日、酒宴が催され、笛や今様が得意であった千手が特に呼び出された。そこで千手が歌ったのが先の今様である。ここでは、「過去無数の諸仏にも 捨てられたる」に、覚性法親王の寵愛が薄れたことを響かせているが、一首全体は、罪深い身が仏に見放されてしまったこと、仏道修行に励むこともなく過ごしてきてしまったこと、それでも阿弥陀仏を唯一の頼りとすること、を歌い、『梁塵秘抄』二四〇番歌と二三五番歌を合わせたような趣になっている。なお当該説話に見られる、仏教的な内容の今様に主人の寵を失った悲しみを込めるという趣向は、『平家物語』の祇王の逸話(→二三二)と重なるもので、両者の何らかの交渉を感じさせる。

3月18日(水)

晴れ。

  辻野とは心中未遂にあらざれど初路同じ時に水に入りたり

  二十(はたち)の日に死の(ふち)に辻野は(こら)へたるに女その夜千ヶ淵に沈む

  身投げせし別嬪さんはいぢめられ死といふも同じ日なりき

『孟子』万章章句上123 (ばん)(しやう)問うて曰く、「『舜、田に往き、旻天(びんてん)に号泣す』と。(なん)(す)れぞ其れ号泣するや」と。孟子曰く、「怨慕(ゑんぼ)すればなり」と。万章曰く、「『父母之を愛すれば、喜んで忘れず。父母之を悪めば、労して怨みず』と。然らば則ち舜は怨みたるか」と。曰く、「長息(ちやうそく)公明(こうめい)(かう)に問うて曰く、『舜の田に往くは、則ち吾既に命を聞くことを得たり。旻天に父母が号泣するは、則ち吾知らざるなり』と。公明高曰く、『是れ(なんじ)の知る所に非ざるなり』と。(か)の孔明高は、孝子の心を以て、(かく)(ごと)(かつ)ならずと為す。『我は力を(つく)して田を耕し、子(た)るの職に共するのみ。父母の我を愛せざるは、我に於て何ぞや』と。

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

(あかつき)静かに寝覚めして 思へば涙ぞ抑え(あ)へぬ はかなくこの世を過ぐしては いつかは浄土へ参るべき
  (法文歌・雑法文歌・二三八)

【現代語訳】夜明けの静けさにふと目覚めて思いにふけると、あふれる涙を抑えられないことだよ。ただいたずらにこの世を過ごしてしまっては、いったいいつ浄土に往生することができようか。

【評】老境にさしかかった人の切実な悲嘆を歌った一首。同想の和讃や和歌は多く、たとえば平安時代末期から鎌倉時代に成立した『空也和讃』に「長夜(ぢやうや)の眠りはひとりさめ (ご)(かう)の夢に驚きて 静かに此の世を観ずれば 僅かに刹那ほどぞかし」(長い闇夜の眠りから覚醒し、夜明け前の夢に目覚めて、静かにこの世に思いめぐらせば、ほんの一瞬に過ぎないものだったよ)とあり、大治三年(一一二八)成立の『菩提心讃』に「此のたびはかなく過ぐしなば いづれの時とか思ふべし」(今この時をむなしく過ごしてしまったなら、一体いつ仏道への心を向けるというのだろうか)と見える。また、寂然(一一一八?~一一八二?)の歌集『唯心房集』の今様に「静かに寝ざめてつくづくと、はかなき此の世を思ふ間に、夜や明け方になりぬらん 賀茂の河原に千鳥鳴く」(静けさにふと目覚めて、つくづくとはかないこの世を思っているうちに夜は明け方になってしまったらしい。賀茂の河原に千鳥が鳴いているよ)がある。」

これらの類例に比べて、当該今様は抑えられぬ涙を歌い、より直接的実感的な嘆きを表現しているとともに、暁という幻想的な時間や静かに流される涙によって、一種の甘美な感傷を潜ませてもいよう。

3月17日(火)

雨ではないが寒い。

お米

  妖艶なる三十路(みそぢ)の女と連れ添ふて燈籠寺へと参り候

  雪国の冬にはあれど小春日和、石段に坐す。ああ提灯、いやどっこい

  就中(なかんづく)、公孫樹は黄にて紅樹、青林。見渡す森は(もみ)(ぢ)を含む

『孟子』離婁章句下122-2 其の妻帰り、其の妾に告げて曰く、「良人なる者は、仰ぎ望みて身を終ふる所なり。今此の若し」と。其の妾と与に、其の良人を(そし)りて、中庭に相泣く。而るに良人は未だ之を知らざるなり。施施(しし)として外従り来り、其の妻妾に(おご)れり。君子(よ)り之を観れば、則ち人の富貴利達を求むる所以の者、其の妻妾羞ぢず。而も相泣かざる者、(ほと)んど(まれ)なり。

  君子より観れば富貴利達を求むるはこの斉人のごとく妻妾相泣く

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

われらは何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ 今は西方極楽の 弥陀の誓ひを念ずべし
  (法文歌・雑法文歌・二三五)

【現代語訳】自分はいったい、何をしてこのように年老いたのだろう。考えてみれば本当に悲しいことだよ。今はただ、西方極楽浄土の阿弥陀如来の誓願におすがりしよう。

【評】自分の来し方を振り返り、後悔の思いに沈む哀感に満ちた一首。「われら」の 「ら」は複数を表すのではなく、卑下の気持ちを表す接尾語。仏道修行に励むこともなく無為に過ごしてきた老いの身にとっては、衆生の極楽往生の願いをかなえようという阿弥陀の誓いがただ一つの救いになっているのである。
後白河院の今様の弟子である平康頼が編んだ説話集『宝物集』巻七には次のような話が収められている。
神崎の遊女とねぐろは、仏道に心を向けることもなく、往き来の客に身を任せては日々を過ごしていた。ある男と一緒に西国へ下る旅の途中、海賊に襲われて何か所も斬られ、命が尽きるという時に、西方に向かってこの今様を何度も歌って息絶えた。すると西の方からかすかに音楽が聞こえ、海上に紫雲がたなびいたという。

遊女が死に臨んで、自らの得意芸であった今様をもって阿弥陀如来への信仰心を吐露し、それによって極楽往生を遂げたという説話は、後白河院にも深い感銘を与えたらしく、『梁塵秘抄口伝集』巻一〇の末尾近くに「遊女とねぐろが戦に遭ひて、臨終の刻めに「今様は西方極楽の」とうたひて往生し」と簡略化した形で紹介されている。

3月16日(月)

朝は雨、やがて曇りから晴れてくるらしい。

小池真理子『月夜の森の梟』をよむ。良人であった藤田宜永への鎮魂の賦だ。夫婦で作家。三十七年の付き合いだったという。肺に腫瘍が見つかってから一年十カ月。そして死後。辛いとか悲しいとかの言葉では語れないことをエッセイに書いた。何度も何度も不覚の涙。

  退屈だなあと声にするときいささかの疚しさあれば本を読む真似

百合の花墓場に咲くや五六本 泉鏡花

  泉鏡花最後の小説「(る)(こう)新草(しんさう)」。(つひ)の思ひはふるさと金沢

辻野糸七

  おそらくは鏡花の悔いを負うたるか、辻野糸七どこかぎこちなし

『孟子』離婁章句下122 斉人、一妻一妾にして、室に(を)る者有り。其の良人出づれば、則ち必ず酒肉に(あ)きて、而る後に反る。其の妻与に飲食する所の者を問へば、則ち尽く富貴なり。其の妻其の妾に告げて曰く、「良人出づれば、則ち必ず酒肉に饜きて、而る後に反る。其の与に飲食する者を問へば、(ことごと)く富貴なり。而も未だ嘗て顕者の来ること有らず。吾将に良人の之く所を(うかが)はんとす」と。(つと)に起き、(なな)めに良人の之く所に従ふ。国中を(あまね)くするも、(とも)に立つて談ずる者無し。(つひ)東郭墦(とうくわく)(はんかん)の祭る者に之きて、其の余りを乞ふ。足らざれば、又顧みて他に之く。此れ其の(えん)(そく)を為すの道なり。

変な話だ。

  斉の人で毎日酒肉に満腹なりその跡着ければ墓場通ひ供物の残飯喰ふばかりなり

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

仏も昔は人なりき われらも終には仏なり 三身仏性具せる身と 知らざりけるこそあはれなれ
  (法文歌・雑法文歌・二三二)

【現代語訳】仏も昔は人間だった。われらも最後には仏に成れるのだ。仏に成るべき性質を本来備えている身だと知らずに、仏道をなおざりにしているのは悲しいことだよ。

【評】すべての衆生が仏性を持っていることを歌う一首。たとえば『涅槃経』獅子吼菩薩品に「一切衆生悉く仏性あり」とするのはよく知られているが、当該今様は、その仏性の存在に気づかない凡夫の悲しさの方に焦点を当てて、深い哀感を漂わせる。

「三身」は(ほつ)(しん)(永遠不変の真理そのもの)、(ほう)(じん)(修行の報いとして得た、功徳を備えた身)、(おう)(じん)(さまざまな衆生救済のため、それぞれに応じて現れる身)の三者を指すが、いずれも仏の身を現わしたものであり、「三身仏性」は「仏性」というのと同じ。衆生が本来備えている仏に成り得る資質をいう。

『平家物語』巻一「祇王」の章段には、白拍子の祇王がこの今様を歌い替えた話が見え、よく知られている。祇王は平清盛に愛されて栄華を極めていたが、やがて別の白拍子・仏御前が清盛の寵愛を得るようになると、屋敷から追い出されてしまう。翌年になって、祇王は突然呼び出され、清盛と仏御前の前で今様を歌うように命ぜられる。祇王が涙ながらに歌ったのは次のような今様であった。

仏も昔は凡夫なり われの終には仏なり いづれの仏性具せる身を へだつるのみこそ悲しけれ
(仏も昔は凡人であった。われらも最後には仏に成れるのだ。どちらも仏性を備えている身であるのに、分け隔てをするのが悲しいことだ――私も仏御前も同じ白拍子であるのに、清盛様が私たち二人を分け隔てして扱うのが悲しいことです)

この今様は『梁塵秘抄』二三二番歌の「三身」を「いづれも」と歌い替え、「知らざりけるこそあはれなり」を「へだつるのみこそ悲しけれ」と歌い替えて、仏道をなおざりにする愚かな人々についての一般的な歎きを、清盛が自分と仏御前とを分け隔てすることへの個人的な歎きに巧に転換している。『源平盛衰記』では、第三句以下が「三身仏性具しながら へだつる心のうたてさよ」になっており、「悲し」という自分自身の感情ではなく、「うたて」という相手に対する不満を表す言葉を用いることで、「仏性を有しているはずなのに、分け隔てなどをする清盛様の心のなさけないことよ」と、清盛に対する批判がより強まっている。この祇王の歌い替えは、その場にいた人々の心を動かし、皆、涙を流したという。

今様の歌い手には、美しい声で歌う音楽的な技術だけでなく、このように、その場にふさわしく歌い替える能力も求められた。臨機応変に歌詞を歌い替えられる、いわば文学的な力も重視されたのが、今様という歌謡の大きな特徴だったのである。

3月15日(日)

朝から晴れだ。

夢を見る。夜中に何度もトイレに通うから、夢はその度に断絶するものの、ストーリはだいたい同じに思える。簡単に言ってしまえば「逃避行」である。続けて見るのではない。途絶する度に微妙にストーリーは変わるが、結局は何者かから、どこかに帰還する場所を求めての逃避行ということになるだろう。場所は同じこともあるが、これも微妙に変わる。土むきだしの崖を含んだ広大な作業地、帰還するための田舎駅付近、流れの激しい川を下に見る崖上。こんなところが代わる代わる出てくる。そこを、とにかく逃げる。主人公は私だ。はじまりには数人の知人(これも不特定。旧友であったり、同僚であったり)だが、次第に周囲には誰もいない。一人で逃げている。そして恐怖の中でどこにも帰りつかない。怖いのだ。昨夜も逃げた、逃げた。そして夢の中では足が速いし、空中を飛ぶ。そして逃げる。現実の私とは全く違うのだが、私であることに間違いはない。追う相手はいない。いたためしがないのだが、逃げる。息せき切って目を覚ます。一晩のうちに数回、逃避するのだ。正直言って、疲れる。疲労困憊で目が覚めるものの、また眠ればどこかから逃げているのだ。

  まだ暗きに古反故(ふるほぐ)処理す。そのために集積場まで闇の中ゆく

  手の内にぽんかんぽんかん楽しまむ。ぽんかんの皮手に割きにけり

  歩けるうちは人は死なないといふ広告。さうかもしれないと思ふ日もある

『孟子』離婁章句下121 儲子(ちよし)曰く、「王、人をして夫子を(うかが)はしむ。果たして以て人に異なる有るか」と。孟子曰く、「何を以て人に異ならんや。堯・舜も人と同じきのみ」と。

  孟子言ふ堯・舜と同じく人に異なること無し

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

烏瑟(うしつ)(みどり)の元結は 髪筋ごとにぞ光るなる 龍女が妙なる声引(こわびき)は 聞けども聞けども飽く(ご)なし
   (法文歌・雑法文歌・二三一)

【現代語訳】龍女の結い上げた黒髪は、髪の筋目ごとにつやつやと光り輝いている。龍女の説法の美しい声の調子はいくら聞いても飽きることがない。

【評】龍女(→二〇八)の成仏した姿を、優美な仏像のイメージで捉えた一首。ここには「烏瑟」(肉髻とも。仏・菩薩の頂上の骨肉が隆起して、結い上げた髪のようになったもの)という、仏の相貌を表わす言葉が使われてはいるが、美しい女性の姿と声とが官能的な印象をもって歌われている。

龍女成仏のテーマはしばしば絵にも描かれた。厳島神社蔵の国宝『平家納経』提婆達多品表紙には、大きな口や鋭くとがった背びれ、飛び出した目玉などを持つ怪魚が数匹描かれ、龍女の住む暗く怪しい世界を暗示する。それに対して見返し絵は龍女が宝珠を捧げ持って海中から出現し、二人の侍女を従えて、仏の待つ天上世界へまっすぐ進んで行く様子をきらびやかな色彩で描く。経の中では「変じて男子となりて」とされる龍女であるが、この絵の中では、結い上げた黒髪に、袂と領巾を風に翻し、美しい女人のまま、天空を目指す姿で描かれている。当該今様にも、『平家納経』の絵のように、龍女を成仏後も美しい女人として捉えていこうとする傾向が窺われよう。

『声引』は歌謡や説経などの声の延ばし具合。『法華経』提婆達多品では、龍女の智慧あることに触れ、「心に念じて、口に演ぶることは、微妙・広大にして慈悲・仁譲あり」とする。「声引」に関連して、諸注、当該箇所を引くが、経では、声そのものではなく、口に出される言葉について、素晴らしく立派なことであり、慈しみふかく憐れみに満ちていた、としている。髪のつややかさと声そのものの美しさを取り上げて、それを肉感的に表現したのは、『法華経』の内容を超えた今様の工夫であろう。

聴聞者が美貌・美声の説教者に憧れる様子を歌った今様には、他に「峰の花折る小大徳面立ちよければ裳袈裟よし まして高座に上りては 法の声こそ尊けれ」(→三〇四)があり、聴聞者と説教者の性が逆になったもの(聴聞者が男/説教者が女〈二三一⇔聴聞者が女/説教者が男〈三〇四〉〉として対比的に見ることもできよう。

3月14日(土)

ちょっと温かい。

  びんの蓋開け得ざりしは老いの手なり眉をひそめて妻が見てゐる

  ペットボトルも蓋開かざれば飲めぬものあゝ情けなしふた固きなり

  たうとつに、そして朗らかな声がいふそんなこともあるよ娘の声なり

『孟子』離婁章句下120-3 孟子曰く、「曾子・子思、道を同じくす。曾子は師なり、父兄なり。子思は臣なり、微なり。曾子・子思、地を易ふれば則ち皆然り」と。

  孟子が言ふ、曾子・子思ともに道を同じくす。立場を変へてもおそらく同じ

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

狂言(きやうげん)綺語(きぎよ)の誤ちは 仏を讃むるを種として あらき言葉もいかなるも 第一義とかにぞ帰るなる
  (法文歌・雑法文歌・二二二)

【現代語訳】でたらめの言葉、飾り立てた言葉で作った文学の営みは間違った行いではあるが、それも仏を讃嘆する機縁となし得る。荒々しい言葉もどんな言葉も、すべては仏法の絶対的真実に帰するということだよ。

【評】文芸即仏道の思想を、二つの典拠によって歌った一首。前半は、寛弘九年(一二一〇)頃には成立していた『和漢朗詠集』仏事の白居易の漢詩による。願はくは今生世俗文字の業狂言綺語の誤りを以て 翻して当来世世讃仏乗の因転法輪の縁と為さん(私は現世で俗っぽい文学の営みを生業とし、でたらめの言葉、飾り立てた言葉を使って作品を作るという誤りを犯してきたが、今後は何とかしてそれを転じて、未来永劫に仏をたたえ仏の教えを説く機縁にしたいと思っている)

この漢詩は、文学と仏教とを結び付けるものとして日本にも大きな影響を与えた。朗詠として歌われることで広く流布し、さらに、『狭衣物語』『栄花物語』『平家物語』など多くの文学作品に引用されている。

当該今様後半には、次に掲げる『涅槃経』梵行品の一節による。

諸仏は常に(ぜん)を語り、衆の為め故に(そ)を説く。麤語及び軟語、皆第一義に帰す。
(さまざまな仏は常にやわらかなことを語って、衆生のために荒々しいことを説く。荒っぽい言葉、やわらかい言葉はみな究極の真理に帰す)

この一節も広く知られ、安居院流唱導(経典や教義を説いて人々を導くこと)の祖とされる澄憲の「和歌政所一品経供養表白」(一一六六)に「伝へ聞く、麤語及び軟語、皆第一義諦の風に帰し、治世語言、併ながら実相真如の理に背かず」とあり、今様との関わりの深い歌人・寂然(一一一八?~一一八二?)の『法門百首』にも「廉言耎語(廉は「かどがある」の意、耎は「やわらかい」の意)みな第一義に帰して、一法としても実相の理に背くべからず」という注が見える。

このように、朗詠や唱導といった一定の旋律に乗せて歌われ唱えられた一節が、今様にも取り込まれていったことが窺われる。

後白河院は自らの今様生活を振り返って記した『梁塵秘抄口伝集』巻一〇の終わりに、法文の歌、聖教の文に離れたることなし。法華経八巻が軸々、光を放ち、二十八品の一々の文字、金色の仏にまします。世俗文字の葉、ひるがへして讃仏乗の因、などか転法輪とならざらむ。
(法文の歌は、仏の教えの文言にはずれたことはない。『法華経』八巻の軸はすべて光を放ち、二十八品の一つ一つの文字は金色の仏でいらっしゃるのだ。世俗の文学の営みも転じて仏を讃嘆し仏の教えを説く機縁にならないことがどうしてあろうか)と述べて、白居易の漢詩を引きながら、今様即仏道の考え方を述べている。仏道と矛盾するのではないかという恐れを抱えながら文芸活動に携わる人々すべてにとって、 当該今様に表現された考え方は、この上なく頼もしい心の支えであったことだろう。

3月13日(金)

曇りだから寒い。

  思ふやうに読書進まず二月にはわづか三冊これではだめだ

  少なくとも去年の方が読む量は多し倍ほどは読了したり

  読む本、読みたき本ばかり増えたるにとても追ひつかず老いたるかなや

『孟子』離婁章句下120-2 子思 衛に居る。斉の冦有り。或ひと曰く、「冦至る。蓋ぞ諸を去らざるやと。子思曰く、「如し(きふ)去らば、君誰と(とも)にか守らん」と。

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

摩耶(まや)のなかより(む)れ出て 宝の(はちす)足を受け 十方(じつぱう)七度(ななたび)歩みつつ 四句(しく)の偈をぞ説いたまふ
    (法文歌・雑法文歌・二一八)

【現代語訳】釈迦は、摩耶夫人の胎内から誕生した。足を上げるたびに七宝の蓮華あそれを受け、十方に七歩ずつ歩きながら、四句の偈をお説きになった。

【評】釈迦誕生の際の奇瑞を歌った一首。生れてすぐ十方(東・西・南・北・北東・南東・北西・南西・上・下)に歩き出すと、釈迦の足を受けるようにして美しい七宝の蓮華が花開く。釈迦は高らかに四句の偈(仏の教えや仏・菩薩の徳をほめたたえる韻文)を唱えたという。典拠として『仏本(ふつほん)行集(ぎようじつ)(きよう)』巻八、『(ほう)広大(こうだい)荘厳(しやうごん)(きよう)』巻三、『大方便仏(だいほうべんぶつ)報恩(ほうおん)(ぎやう)』巻七、『過去現在因果経』巻一などの経、および『今昔物語集』巻一-二話「釈迦如来、人界生給語」などが指摘されてきたが、より直接的な典拠として、近年紹介された金沢文庫蔵の声明資料があげられる。

摩耶ノ右脇ヨリ生レ 宝蓮ミアシヲ受シカバ 十方七歩ヲ行ジッゝ 四苦ノ偈ヲ ゾ説キ給フ

先にあげた諸経でも釈迦は摩耶夫人の右脇から生まれたとされ、釈迦の誕生を題材にした絵画や彫刻でも、嬰児たる釈迦は、摩耶夫人の右袖から顔をのぞかせている。胎内からの誕生であれば、特に珍しいことはないので、本文としては、新出資料の「右脇」がよりよい形のように思われる。今様の音数からすると、「なか」は「わき」とでもあるべきところか。「宝蓮」を「宝の蓮」とし、「行ジツゝ」を「歩みつつ」として、今様は、よりやわらかな表現になっている。

さらに新出資料においては、問題の歌の三首後に「我生(がしやう)(たい)分身(ぶんしん) (ぜ)最末(さいまつ)後身(ごしん) 我已得漏尽(がいとくろじん) (とう)復度(ふくど)衆生(しゆじよう)」(私は輪廻転生の業が尽き、もう二度と生まれ変わることはないから、これが最後の人間としての身である。私はすでにすべての煩悩を超越したので、これからは仏となって一切の衆生を救おう)という四句の偈が見える(『今昔物語集』巻一ー二話にもほぼ同じ偈載る)。当該今様では具体的な内容が記されない「四句の偈」であるが、当時の人々には、この「我生胎分身」の偈が強く意識されていた可能性もあるだろう。