2月24日(火)

晴れてる。

  わが歩みの先行く小爺(こぢぢい)。懸命に追ひ抜かむとするにとても及ばず

  わが前をゆく子爺の(つら)を見むと思へどつひにふりかへることなし

  角を左に曲がる小爺の姿見むとしてわれも曲がるに影すらもなし

『孟子』離婁章句下107 徐子曰く、「仲尼(しば)(しば)水を称して曰く、『水なるかな水なるかな』と。何をか水に取れるや」と。孟子曰く、「原泉(げんせん)混混(こんこん)として昼夜(ちうや)(お)かず。(あな)に盈ちて而る後に進み、四海に(いた)る。(もと)有る者は(かく)の如し。是を之れ取れるのみ。苟も本無しと為さば、七八月の(かん)、雨集まりて、溝澮(こうくわい)皆盈つるも、其の涸るるや、立ちて待つ可きなり。故に声聞(せいぶん)情に過ぐるは、君子之を恥づ」と。

  君子は名声が実情以上は水源なき水と同様恥とするべし

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

窮子(ぐじ)の譬ひぞあはれなる 親を離れて五十年 万の国に誘はれて 草の庵に留まれば
                 (法文歌・法華経二十八品歌・信解品・七八)

【現代語訳】窮子(ぐじ)の譬え話はまことに感銘深く思われることよ。親の家を出て五十年間、あちらこちらを放浪し、ついに親の家に戻っても門外の草庵にとどまって、卑しい身と思っていたのだから。

【評】『法華経』信解品で説かれる長者窮子の譬えを歌った一首。釈迦の説法を聞いた迦葉ら四人の弟子が、自分たちの幸運を次のような譬え話に託して喜んだ。幼いころに家出をした息子が、生活に困窮し、諸国を流浪して五十年が過ぎた。たまたま父の長者の住む家の前を通りかかるが、それが父の家とは気付かない。父が人をやって呼ばせると、罰せられるのではないかと恐れるほどであった。そこで父は、貧相な男二人に「我々と『一緒に働こう』と誘わせ、息子を清掃人として雇う。長者自身も粗末な身なりをして息子に近づき、次第に親しくなる。そして息子を徐々に取り立てて、二十年後には財産の管理を一任する。臨終に際して、実子であることを告げ、全財産を相続させる。――自分たちはこの息子のようなもので、仏の方便によってまず小乗(声聞・縁覚→七二)の教えを与えられたが、今日、真実の教えを聞くことができてうれしい、と迦葉は述べた。

当該今様は、第二句・第三句では困窮した息子の放浪生活を歌い、第四句では、」息子が放浪の後、長者の家で二十年を過ごし、財産管理を任されるようになってからも草庵にとどまってたいたことを歌う。第三句と第四句の間には大きな飛躍があるが、長者窮子の譬えがよく知られていることが前提にあり、特に有名な『法華経』の偈(詩の形で表現された部分)「猶門外に処し、草庵に止宿して」を生かしてあるのだろう。

第四句「草の庵に留まれば」と第一句「あはれなる」の関係については、親に救われて親と気付かぬ人間、すなわち仏に導かれながら迷界に流転して仏性を自覚せぬ人間のはかなさを嘆いたとする説と、窮子が懸命で、多くの財産を扱うことになっても自制して身を持ち崩すことがなかったことをほめたたえたとする説があるが、真実の教えを聞いた弟子の喜びの表現としてこの譬え話が語られるところから、前者のように嘆きの感情を主たるものとして捉えるよりも、後者のように、ほめたたえる気持ちが中心にあると考えたい。ただし、ほめたたえられる対象は、弟子たちの譬えである窮子ではなく、窮子の譬え話全体から浮かび上がる仏の導きだと考えられる。すなわち、仏のはからいによって、いまだ草庵にいるような状態なのに求めもせずに無量の宝(真実の教え)を得られたことがすばらしくありがたいことだとしているのであろう。

2月23日(月)

昨夜雨が降ったようだが、妙に暖かい。

  雪の降りし翌日の朝、水のしたれば雪白くして未だに残る

  雪残る垣根の低き植木なり。なかなか溶けず、さはれば零る

  雪人形いくつか残る朝ならむ微笑めば人形も笑ひ反す

『孟子』離婁章句下106 孟子曰く、「言に実の不祥無し。不祥の実は、賢を蔽ふ者之に当る」

  実際には不祥不吉の言などなしあるとすれば賢者道を妨ぐるもの

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

幼き子どもはいとけなし 三つの車を請ふなれば 長者はわが子の(かな)しさに (びやく)(ご)の 車ぞ与ふなる
(法文歌・法華経二十八品歌・譬喩歌・七二)

【現代語訳】幼い子どもたちはあどけないものだ。三つの車を欲しがるので、長者はわが子が愛しくて、白牛の車をこそ与えるのだ。

【評】『法華経』譬喩品で説かれる火宅三車の譬えを歌った一首。釈迦の聞かせた譬え話は次のようなものであった。一人の大富豪がいて、古い邸宅に住んでいたが、その屋敷はには出口が一つしかない。ある日、突然火事が起こった。子どもたちは遊びに夢中になっていて、出てくるように言われても聞き入れない。そこで富豪は、「門の外には、お前たちの好きな羊の引く車、鹿の引く車、牛の引く車があるよ。早く出てきてこれで遊びなさい」と呼びかけた。つられて出てきた子どもたちに、富豪は宝物で飾り立て、大きな白い牛に引かせた車を一つずつ与えた。燃える家はこの世の譬え、羊車は声聞乗(自己の悟りのみを得ることに専念する者の乗り物)、鹿車は縁覚乗(師なくして独自に悟りを開いた者の乗り物)、牛車は菩薩乗(自己一人の悟りを求めるのではなく、悟りの真理を携えて他者のために実践しようとする者の乗り物)、大伯牛車は仏乗(菩薩をも超えた超越的存在である仏の乗り物)の譬えである。声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗を説くのは一時の方便であり、究極の目的は一仏乗である、と釈迦は説いた。

火宅三車の譬えは絵画化されることも多く、人々に広く知られていたものと考えられるが、当該今様では、経典にはない「わが子の愛しさに」という表現を用いて、親の情愛を強調している。がんぜない子どもの可愛らしさや親の思いといった身近な家族愛に訴えかける表現に、今様の特徴が窺われよう。

2月22日(日)

よく晴れて、春めいた日であった。静嘉堂文庫美術館へ。メトロ二重橋下車。

  鳩は平和の象徴と言ひしも現実は糞、糞し放題

  マンションの周囲にたたずむ鳩どもをやっつけねばならぬ鴉とともに

  ときをりはトンビも上空に現れていつせいに逃ぐる鳩むれならむ

『孟子』離婁章句下105 孟子曰く、「善を以て人を服する者は、未だ能く人を服する者に有らざるなり。善を以て人を養ひて、然る後能く天下を服す。天下心服せずして王たる者は、未だ之れ有らざるなり」

孟子言ふ「天下心服せざれば王となりたるものあらず

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

いにしへ童子の(たはぶ)れに (いさご)を塔となしけるも 仏に成ると説く経を 皆人持ちて縁結べ
(法文歌・法華経二十八品・方便品・六八)

【現代語訳】「昔、童子が遊びとして砂で仏塔を造ったことも、それが機縁となって仏に成る」と説く『法華経』を、すべての人が信じ、受持して成仏のための縁を結べよ。

【評】法華経二十八品歌の方便品のうちの一首。宇宙万有の真相を十のあり方(十如是)で説く。方便とは、衆生に真実を明かすまでの暫定的な手段を意味し、三乗(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)の教えは仮の教え、方便であって、真実には一乗仏(一乗)があるだけあのだと説かれる。しして、過去における、布施・修福説・造塔・造石廟・作仏像・楽や歌唄など、それぞれに応じた修行や供養をなした者がみな仏に成ったことを示す。
具体例のうち、子どもが戯れに、土や砂で塔や仏像を造っただけでも成仏の因となるのだとする点は、今様が最も注目したところである。一方、釈教歌(仏教に関する和歌)では、成仏のきっかけになる善行の例として、童子の造塔よりも、一枝の花を仏像に捧げることの方がよく詠まれる。季節感を表すことができ、優美なものとして伝統的によく詠まれてきた「花」を和歌が取り上げ、やや俗に近く、日常的な親近感のある子どもの「遊び戯れ」を今様が取り上げるのは、両者の性格の違いをよく示していると言えよう。

2月21日(土)

晴れ。

  妻とともに横浜ハーバーの工場へ。詰め放題に心躍らせ

  詰め放題、女性ばかりが台囲みビニール袋をむやみに伸ばす

  平均値に及ばず袋を閉ざしたりちょっと残念また今度くる

『孟子』離婁章句下104 孟子曰く、「博く学んで詳かに之を説くは、将に以て反つて約を説かんとすればなり」

  博学にて詳らかにするは約を説かんとすればこそなれ

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

釈迦に法華経説く始め 白毫光は月の如 曼陀羅曼殊(まんず)の華降りて 大地も六種(むうさ)に動きけり(法文歌・法華経二十八品歌・六〇)

【現代語訳】釈迦が『法華経』を説かれた最初には、眉間の白毫から放たれた光は月の如く輝き、空からは曼陀羅華や曼殊沙華の花が降り、大地は六種に振動したのであった。

【評】法華経二十八品の序品のうちの一首。序品は二十八章からなる『法華経』の第一章にあたり、釈迦のまわりで起こった、説法の前触れとなるさまざまな奇跡を記している。

「白毫」は仏の眉間にある白い巻毛で、『法華経』を説かれようとした時、白毫から放たれた光は世界中をあまねく照らしたという。この光を今様は月光に譬えて幻想的で美しい情景を描き出している。

「曼陀羅曼殊の華」は「曼陀羅華」と「曼殊沙華」。『法華経』によると、両者に「魔訶曼陀羅華」「魔訶曼殊沙華」をあわせて四種類の美しい花が降ってきたとされる

辺りに満ちあふれる月のような光、天から降ってくる美しい花々、重い響きをたてて揺れ動く大地。劇的な場面が簡潔に美しく表現されている。

2月20日(金)

今日は寒い。

  一階のポストへ何度も通ひしも今日は手紙の一通もなし

  たのしみの一つはポストに葉書、封書、書籍のパックいつぱいの時

  取り出してくれぇ早く開けてくれぇと騒ぎたる郵便ポストの扉をひらく

『孟子』離婁章句下103 孟子曰く、「君子の深く之に(いた)るに道を以てするは、其の之を自得せんことを欲すればなり。之を自得すれば、則ち之に(を)ること安し。之に居ること安ければ則ち之に(と)ること深し。之に資ること深ければ、則ち之を左右(さいう)に取りて其の(みなもと)に逢ふ。故に君子は其の之を自得せんことを欲するなり。

  君子はその道を自得せむとす自得できれば妙効もあり

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

般若の御法(みのり)を尋ぬとて 常啼(じやうたい)(ひんがし)へ尋ね行き 妙香(めうかう)(じやう)に至りてぞ 畢竟空をば悟りてし(法文歌・般若経・五四)

【現代語訳】般若の教えを尋ねて、常啼菩薩は東方へ進んで行き、妙香城に到着して、ついに「畢竟空」の真理を悟ったのである。

【評】『般若経』に説かれる常啼菩薩の長い物語を簡潔にまとめた一首。常啼菩薩は、般若の教え(すべての道理を見抜く智慧)を求めて、その求めがたさに七日七晩泣き悲しんだが、「東へ行け」という空中の声を聞いて東方に向かって旅立つ。さまざまな苦難の末、妙香城にたどりつき、法涌菩薩から般若の教えを聞き、「畢竟空」(いっさいの事象には実体がないと考える、究極絶対の空)の真理を悟った。常啼菩薩は、一般的にはさほど知られない菩薩であり、釈教歌にもあまり詠まれないが、今様の流行期に生き、自らも今様を作っている唯心房寂然(一一一八?~一一八二?)の『法門百首』には「常啼菩薩」の題で詠まれた和歌が見える。

あはれにもむなしき法をこひわびて涙は色に出でにけるかな
(しみじみと心打たれることには、常啼菩薩は空の教えを求めて求め得ず。涙がそれとわかるように流れ出たことだよ)

同様に、寂然の兄・寂超も「常啼菩薩」と題して、くちはつる袖にはいかが包ましむむなしと説ける御法ならずは
(涙で朽ち果ててしまった袖にはいったいどのように包もうか、一切は空であると説く般若の教えでなかったら、包むことはできないのだ――実体がない空であるからこそ、朽ち果てた袖にも包めるのだ)

  の一首を詠んでいる。これらの和歌は、涙や涙に朽ち果てた袖を詠んでいて、常啼菩薩がその名

のごとく、ひどく泣いたということに重点が置かれ、菩薩の苦労・苦心が強く印象づけられてい

る。それに対して今様は、常啼菩薩が東に向かい、妙香城に至ったという行動に焦点を当ててお

り、そこに真理を悟った明るい結末部分を歌っている。具体的な表現で菩薩の行動そのものに重

点を置く歌い方は、地蔵菩薩の歌(四〇)とも共通する今様の特徴と言える。

2月19日(木)

晴れ。寒い。

今村翔吾『イクサガミ 神』、蟲毒の争いが東京に入ってからの物語。殺し合いの最最終章だ。結局、双葉のみ残ることになるその後の顛末も書かれてあり、大方終末も見えたが、愁二郎の生死、行方が不明。生きていることを暗示しハラハラ・ドキドキ、四冊時間がかかったが四冊を読み終える。面白かった。

  厚木基地所属の偵察機ならむわが住むマンションの上に回転しをり

  偵察機の訓練飛行。時間は決まらず航路は同じ

  何人を載せて飛ぶのかは分からねど回転してをりほぼ毎日

『孟子』離婁章句下102 孟子曰く、「生を養ふは、以て大事に当つるに足らず。惟死を送るは、以て大事に当つ可し」

  親の死を送るは人生の大事にして孝子なればぞ心すべき

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

毎日恒沙(ごうじや)の定に入り 三途の(とぼそ)を押し開き 猛火(みやうくわ)の炎かき分けて 地蔵のみこそ訪うたまへ
(法文歌・仏歌・四〇)

【現代語訳】毎日ガンジス河の砂の数ほどの瞑想の境地に入っては、三途の扉を押し開き、燃え盛る炎をかき分けて、地蔵菩薩だけが地獄を訪ねてくださるのだ。

【評】地獄の衆生を救う地蔵菩薩の力強さをほめたたえた一首。扉を押し開く、燃え盛る炎をかき分けるといった、ダイナミックな菩薩の身体の動きをなまなましく表現することは、典拠とされる経典や地獄説話の中には見られない、今様の新しさである。

「恒沙」とはインドのガンジス河の砂のことで、数の多いことを譬える。「定」は心の動揺を鎮めた冥想の境地。「三途」は、悪業を行ったものが、罪に応じて死後に赴く三つの世界で、畜生道(動物に生まれ変わって苦を受ける世界)、餓鬼道(飲食物を得られず飢えに苦しむ世界)、地獄道(種々に責められ最も苦しみの多い世界)を指す。

仏・菩薩は多く存在するが、地獄にまでやって来て衆生を救うのは地蔵菩薩だけである。西行(一一一八~一一九〇)の『聞書集』には地獄絵を見ての詠歌が収められているが、地獄を描写して次のように言う。

悲しきかなや、いつ出づべしともなくて苦を受けむことは、ただ地獄菩薩を頼み奉るべきなり、その御憐みのみこそ、暁ごとに炎の中に分け入りて、悲しみをばとぶらふたまふなれ、地獄菩薩とは地獄の御名なり

多くの仏・菩薩の中で、地蔵だけが地獄にまで訪れてくださるのであり、その故に地獄菩薩とも呼ばれた。当該今様は地獄に対する切実な恐怖を抱えた民衆の熱烈な地獄信仰を歌う。貴族階級の人々はたとえ地獄への恐怖を抱いても、現世で功徳を積めば地獄に堕ちることはないという意識のもとで、寺の建立や仏像の製作、写経、法会の開催その他、堕地獄からまぬがれる一応の手段を持っていたが、そのような財力を持たず、生活のためには狩りや漁などの殺生をおかさなければならなかった民衆は、地獄を必定とした上で、ひたすら地獄にすがるほかなかったのである。

このような事情から、貴族社会においては地蔵を単独で造像崇拝することはほとんど見られなかったが、平安末期の庶民的な地蔵信仰においては、地蔵専修が盛んに現れた。当該今様は、平安末期、まさに今めかしき素材としての地蔵を歌っているのである。

『梁塵秘抄』には、地蔵を歌う今様がもう一首収められている。

わが身には罪業重くして 終には泥犁に入りなんず 入りぬべし 佉羅陀山なる地獄こそ 毎日の暁に 必ず来たりて訪うたまへ
(わが身の罪は重く積もって、最後は地獄へ入ろうとしている。きっと入るだろう。佉羅陀山に住んでおられる地蔵菩薩こそは、毎日夜明けに必ず地獄へやって来てくださることだ。)

ここでも、地獄に入ることは定まったことだとして、唯一の救いとしての地蔵菩が歌われてい

る。

2月18日(水)

快晴。

  少し缼けし残りの月の手前飛ぶあけのからすのすがたすぼめり

  からだすぼめてからすがゆけば追うてくる三羽のからす空にはばたく

  町のビルの背後に月の残りたり明かるくなりても薄つすらとある

『孟子』離婁章句下101 孟子曰く、「大人なる者は、其の赤子の心を失はざる者なり」

孟子が言ふ「大徳の人は赤子のごとき心をいつまでも失はず」

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

(よろず)の仏の(ぐわん)よりも 千手(せんじゆ)の誓ひぞ頼もしき 枯れたる草木もたちまちに 花咲き実(な)ると説いたまふ  (法文歌・仏歌・三九)

【現代語訳】多くの仏の願よりも、千手観音の誓願こそは頼みに思われるよ。千手観音に祈ったならば、枯れた草木もたちまちに花咲き実熟ると説いておられる。

【評】霊験あらたかな千手観音をほめたたえた一首。千手観音は千本の手があり、それぞれに一つの眼を持つという無限の慈悲を備えた菩薩。「枯れたる草木もたちまちに 花咲き実熟る」は『千手経』に見られる思想で、弘仁年間(八一〇~八二四)に成立した『日本霊異記』下‐一四に「千手経に説きたまふが如し「此の大神呪を呪すれば、乾枯樹すらなほ枝と柯と華と菓と生ふること得」」とある。     後白河院は千手観音を篤く信仰しており、千手観音を祀る三十三間堂を建てた。院は生涯に三十四度もの熊野詣を果たしているが、熊野の三神格(本宮の主神・家津御子大神、新宮の主神・熊野速玉大神、那智大社の主神・熊野夫須美大神)のうち、熊野夫須美大神の本地(仮に神として現れた姿〈垂迹〉に対し、本来の仏・菩薩の姿)は千手観音とされている。『梁塵秘抄口伝集』巻一〇には、熊野参詣の折、三山をめぐる間に院が『千手経』を転読し、さらに新宮の礼殿で『千手経』を誦んだ後、当該今様を歌ったところ「心解けたるただ今かな」(わが心は今、くつろぎ楽しんだことだ)と応えて歌う神の声が聞こえたという示現譚が記される。