快晴だ。が、寒い。
保阪正康と鈴木邦男の対話集『昭和維新とは何だったのか』を読む。なんだか不完全燃焼のやりとり。保阪のレクチャアーを鈴木が聞いているという印象が強い。もっと踏み込んで、昭和維新の最後尾として、その行動を語るべきであったと思うが。2023年1月11日に鈴木邦男は死んだ。後を引き受けるように補論を書き、保阪の主張ばかりが目立つ一冊になった。しかし、もっと深く維新運動を意味づけよ。
こぶし、白木蓮に梅の白ことしの春もとおからずくる
垣内よりながき枝につく白き花ここにもことしの春が来てゐる
歩みゆく道には白き花あふれちょっと楽しきわれも春なり
『孟子』離婁章句下120 曾子、武城に居る。越の冦有り。或ひと曰く、「冦至る。蓋ぞ諸を去らざるや」と。曰く、「人を我が室に寓し、其の薪木を毀傷すること無かれ」と。冦退けば則ち曰く、「我が牆屋を修めよ。我将に反らんとす」と。冦退き、曾子反れり。左右曰く、「先生を待つこと、此の如く其れ忠にして且つ敬なり。冦至れば則ち先づ去りて、以て民の望みを為し、冦退けば則ち反る。不可なるに殆し」と。沈猶行曰く、「是れ汝を知る所に非ざるなり。昔、沈猶、負数の禍有り。先生に従ふ者七十人。未だ与ること有らず」と。
曾子、武城にをるに越の冦あり未だ与ること有らず
『梁塵秘抄』植木朝子編訳
太子の身投げし夕暮れに 衣は掛けてき竹の葉に 王子の宮を出でしより 沓はあれども主もなし
(法文歌・雑法文歌・二〇九)
【現代語訳】薩埵王子が自ら虎の餌になろうと身を投げた夕暮れに、衣は掛け置いてあった、竹の葉に。悉達太子が王宮を出てから、沓は残っているけれど、持ち主の姿はもはやないのだ。
【評】薩埵王子(前世の釈迦)が、飢えた虎を養うために身を捨てた話と、悉達太子(出家前の釈迦)が、人生に悩み王宮を出た話を並べる。後半も薩埵王子の捨身飼虎の話と見る説もあるが、とすると第三句「王子の宮を出でしより」のおさまりが悪い。
『梁塵秘抄』今様には、傳氏が巌窟の嵐には 殷の夢見て後ぞよき 厳子瀬の池の水 今こそ汲むには濁るらめ (一九二)(傳説が住んでいた岩屋に嵐が吹いたのは、殷の武丁が良い臣下を得ると夢に見た後で、傳説は出世の幸運に恵まれた。厳陵瀬の池で釣りをしていた厳光は、後漢の光武に招かれたが、それを断った。もし応じていたら、世の濁りに染まっただろう。
鷲の行ふ深山より 聖徳太子ぞ出でたまふ 鹿が苑なる岩屋より 四果の聖ぞ 出でたまふ
(二二〇)
(鷲が仏法を行うという深山・霊鷲山から聖徳太子はお出ましになった。鹿野苑にある岩屋から四段階の悟りを得た高僧はお出ましになった)
のように、前半(第一句・第二句)と後半(第三句・第四句)とに二つの別の話を置く構成が散見する。前者は漢詩をもとに作られたものであるが、前半後半に二分され「王子の宮を出でし」、「衣は掛け」と「沓はあれ」のように、ゆるやかな対句仕立てになっている。
薩埵王子の捨身飼虎の話は『金光最勝王経』捨身品に見え、投身の時には大地が六種に動き、太陽が光を失ったかのように辺りが暗くなったとされる。それを当該歌は「夕暮れ」と表現したものであろう。衣を竹上に置いたことも同経に記されている。この逸話は法隆寺の玉虫厨子に描かれていることでもよく知られている。玉虫厨子の絵は上・中・下三段に分かれているが、上段、崖の上で王子は上衣を脱いで木に掛けている。中段は虚空に身を躍らせた王子の姿を描く。両手をそろえて伸ばし、裳裾を翻してまっさかさまに落下する姿である。下段、崖の下では、身を横たえた王子に、母虎と七匹の子虎が群がり、喰いついている。母虎の口からは赤い血のしたたるすさまじい光景である。このような描写に対し、今様は、崖下への落下や虎の姿を表現せず、スピード感や残虐さを排除して、静かに残された衣にだけ焦点を当てている。
悉達太子出家の際の沓のエピソードは、捨身飼虎のエピソードほど有名とは言えず、直接的な典拠も見出せないが、『仏本行集経』に、夭折した母親に代わって太子を育てた叔母・魔訶波闍波提の嘆きの言葉として、「きゃしゃで柔らかな足裏だというのに、裸足で歩いて行く(「徒跣地を踏む」)とは、棘や砂利や凍った水や焼けた道の上を、一体どうやって進むつもりなのか」という内容が見える。ここか残された沓焦点を当て、薩埵王子の衣と対比させたところに当該今様の工夫が窺われる。残された衣や沓によって主の不在を印象づける巧みな表現と言えよう。