朝から晴れだ。
夢を見る。夜中に何度もトイレに通うから、夢はその度に断絶するものの、ストーリはだいたい同じに思える。簡単に言ってしまえば「逃避行」である。続けて見るのではない。途絶する度に微妙にストーリーは変わるが、結局は何者かから、どこかに帰還する場所を求めての逃避行ということになるだろう。場所は同じこともあるが、これも微妙に変わる。土むきだしの崖を含んだ広大な作業地、帰還するための田舎駅付近、流れの激しい川を下に見る崖上。こんなところが代わる代わる出てくる。そこを、とにかく逃げる。主人公は私だ。はじまりには数人の知人(これも不特定。旧友であったり、同僚であったり)だが、次第に周囲には誰もいない。一人で逃げている。そして恐怖の中でどこにも帰りつかない。怖いのだ。昨夜も逃げた、逃げた。そして夢の中では足が速いし、空中を飛ぶ。そして逃げる。現実の私とは全く違うのだが、私であることに間違いはない。追う相手はいない。いたためしがないのだが、逃げる。息せき切って目を覚ます。一晩のうちに数回、逃避するのだ。正直言って、疲れる。疲労困憊で目が覚めるものの、また眠ればどこかから逃げているのだ。
まだ暗きに古反故処理す。そのために集積場まで闇の中ゆく
手の内にぽんかんぽんかん楽しまむ。ぽんかんの皮手に割きにけり
歩けるうちは人は死なないといふ広告。さうかもしれないと思ふ日もある
『孟子』離婁章句下121 儲子曰く、「王、人をして夫子を矙はしむ。果たして以て人に異なる有るか」と。孟子曰く、「何を以て人に異ならんや。堯・舜も人と同じきのみ」と。
孟子言ふ堯・舜と同じく人に異なること無し
『梁塵秘抄』植木朝子編訳
烏瑟翠の元結は 髪筋ごとにぞ光るなる 龍女が妙なる声引は 聞けども聞けども飽く期なし
(法文歌・雑法文歌・二三一)
【現代語訳】龍女の結い上げた黒髪は、髪の筋目ごとにつやつやと光り輝いている。龍女の説法の美しい声の調子はいくら聞いても飽きることがない。
【評】龍女(→二〇八)の成仏した姿を、優美な仏像のイメージで捉えた一首。ここには「烏瑟」(肉髻とも。仏・菩薩の頂上の骨肉が隆起して、結い上げた髪のようになったもの)という、仏の相貌を表わす言葉が使われてはいるが、美しい女性の姿と声とが官能的な印象をもって歌われている。
龍女成仏のテーマはしばしば絵にも描かれた。厳島神社蔵の国宝『平家納経』提婆達多品表紙には、大きな口や鋭くとがった背びれ、飛び出した目玉などを持つ怪魚が数匹描かれ、龍女の住む暗く怪しい世界を暗示する。それに対して見返し絵は龍女が宝珠を捧げ持って海中から出現し、二人の侍女を従えて、仏の待つ天上世界へまっすぐ進んで行く様子をきらびやかな色彩で描く。経の中では「変じて男子となりて」とされる龍女であるが、この絵の中では、結い上げた黒髪に、袂と領巾を風に翻し、美しい女人のまま、天空を目指す姿で描かれている。当該今様にも、『平家納経』の絵のように、龍女を成仏後も美しい女人として捉えていこうとする傾向が窺われよう。
『声引』は歌謡や説経などの声の延ばし具合。『法華経』提婆達多品では、龍女の智慧あることに触れ、「心に念じて、口に演ぶることは、微妙・広大にして慈悲・仁譲あり」とする。「声引」に関連して、諸注、当該箇所を引くが、経では、声そのものではなく、口に出される言葉について、素晴らしく立派なことであり、慈しみふかく憐れみに満ちていた、としている。髪のつややかさと声そのものの美しさを取り上げて、それを肉感的に表現したのは、『法華経』の内容を超えた今様の工夫であろう。
聴聞者が美貌・美声の説教者に憧れる様子を歌った今様には、他に「峰の花折る小大徳面立ちよければ裳袈裟よし まして高座に上りては 法の声こそ尊けれ」(→三〇四)があり、聴聞者と説教者の性が逆になったもの(聴聞者が男/説教者が女〈二三一⇔聴聞者が女/説教者が男〈三〇四〉〉として対比的に見ることもできよう。