7月18日(土)

曇りだね。梅干は昨日収穫す。

雨上がりの道は斑の文様なり濡れたる箇所と乾きたる場所

濡れてゐるところと乾きたるところ交互にありて歩みがたし

木の葉の枝より落ちたるは沙羅のしづくか悟りなどなし

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『孟子』尽心章句上195 孟子曰く、「君にふるなる者有り。の君に事ふれば、即ちをす者なり。社稷を安んずる臣なる者有り。社稷を安んずるを以て、悦を為す者なり。なる者有り。達して天下に行ふ可くして、る後に之を行ふ者なり。なる者有り。己を正しくして、して物正しき者なり」

人物には四段階ある君に仕える、国を安んずる、そして天民、大人、ほかも正しく感化するべし

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

この宮のみさかに見れば藤波の花のさかりになりにけるかも

【語義】「みさか」の「み」は尊ぶ意味を持った接頭語。

【評言】何等の説明も解釈も要しない単純平明な歌であるが、それでいて印象の深い余韻の豊かな歌である。たくらんだり、ひねくり廻したりしたのでは、到底これまで純な歌い方は出来ない。「この宮の」という以上、それは何とか固有の名を持った社であるに違いないが、それをことわる必要がないまでにこの歌では「この宮の」の「この」が力強く響く。それでいいのである。何となればこうした場合に特に「何々神社」とか「何某の社」とか云ったりすると、却って読者への印象が稀薄になるからである。そうかと云って単に「社」とか「宮」とかだけではまるで力がぬけてしまう。やはり、「この宮の」でなくてはいけない。

7月17日(金)

曇っているが、暑い。

『孟子』の後はどうしやうか『荘子』四冊買ふがまだ先

日夏耿之介の漢詩訳『唐山感情集』を写してみたし

良寛と漢詩の訳との取り合わせ夢に見てをり楽しくなるか

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『孟子』尽心章句上194 孟子曰く、「人の、有る者は、恒にに存す。独りのみ、其の、心をるや危ふく、其の、患を慮るや深し。故に達す」

徳行・知恵・技術・才知を得るものは疢疾であるゆゑ達すべし

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

草のいほに足さしのべて小山田の山田のかはづきくがたのしき

【語義】「草のいほ」は「草庵」で単に「庵」というに同じ。〇「さしのべて」は「さし出し伸べて」の意。俗に「ふんのべて」というほどの意である。〇「きくがたのしき」は「聞くことの楽しさよ」というほどの意。〇「小山田の山田」と重ねたのは山田という語の意味を強めたに過ぎない。「小山田」の「小」は意味のない発語。

【評言】結句の「きくがたのしさ」を「聞かくよろしも」と書いたのもあるが、私にはどうも「きくがたのしさ」の方が素樸の感じがあっていいように思われる。「足さしのべて」から「小山田の山田の」と続いた工合がいかにものびのびとした気持がよく現れている。単純な感情をそのまますなおに歌ってあるのだが、それでいて読む者の心をすっかりその境地へ引込んで行く。幾度も口誦さんでいるとたまらなく静かないい気持になる。

7月16日(木)

今日も暑い、暑いのです。

『梁塵秘抄』を終へて『良寛和尚歌集』に移る歌の文体も用途もちがふ

すこしでもわが短歌のたしになればよいそんな気持でここに写す

『論語』『大学・中庸』と写しつづけて『孟子』もう少し

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『孟子』尽心章句上193 孟子曰く、「其の為さざる所を為すこと無く、其の欲せざる所を欲すること無し。の如きのみ」

君子の道といふのはなそうとせぬことをせず欲しようせぬことは欲せぬそれのみである

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

百とりの鳴く山里はいつしかも蛙のこゑとなりにけるかな

【語義】「百とり」はさまざまの鳥、〇「いつしかも」の「も」は「いつしか」に添えた感嘆詞。

【評言】季節の推移はまったく「いつしかも」である。「蛙のこゑとなりにけるかな」は無理な表現のようでいて、却って自然である。蛙の声が聞こえるようになったというよりも、蛙の声と変えてしまったという方が、あの縹渺とした夢のような蛙の声にふさわしい表現である。「あしびきの山田のたゐに鳴くかはず声のはるけきこの夕べかも」というのがあるが、この「はるけき」もいかにもよく蛙の声の感じを現わしている。因にこの歌の中の「たゐ」は「田どころ」というほどの意味に用いたのであろう。

7月15日(水)

曇りだか、晴れているのだか。晴れるはずだが……

普段の圏央道は糞詰まり状態ならむ遅々と進まず

でっかい輸送トラックが渋滞になれば大きな荷台ばかり

輸送トラックに挟まれて乗用車もある渋滞の列

『孟子』尽心章句上192 孟子曰く、「舜の深山のにるや、木石と居り、と遊ぶ。其の、深山の野人に異なる所以の者は、どなり。其の、一善言を聞き、一善行を見るに及びては、江河を決して沛然たるがく、之を能くむる莫きなり」

舜のすぐれたところは善言・善行を聞き見ることで進みゆくなり

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

みちのべにすみれつみつゝ鉢の子を忘れてぞ来しその鉢の子を

みちのべにすみれつみつゝ鉢の子をわが忘るれどとる人はなし

【語義】「鉢の子」は托鉢に出る時に手に持っていく鉢で、鉄鉢、瓦鉢、木鉢等があるが、良寛は木製のものであったらしい。

【評言】無一物の生活を送っている托鉢僧にとりては、施物を受取る為の唯一の器であるところの鉢の子は最も大切な宝である。しかも彼はその生活上欠くべからざる器をすらも菫の花の美しさに心ひかされたあまりに路傍の草原に置き忘れて来た。前の歌の「その鉢の子を」と繰り返しているあたりにはいかにもよくそれに対する愛着の心が現れている。しかも後の歌の「とる人はなし」に至ってそれに対する一味のさびしみさえも含まれている。なおこの二首においても前に掲げた「飯乞ふと……」の歌におけると同じく聊かも気取りや見せびらかしのないのがうれしい。

7月14日(火)

晴れている。

昨夜、村上春樹『夏帆』を読む。発売日7月3日に書店の山のてっぺんから買い求めたものだ。村上の小説は、常に販売日にというのが約束ごとのようになっている。この小説もアリクイ夫婦などを含めて村上ワールド、わくわくしながら読み切ってしまった。異類、異界のものが出て来るのも定番だが、「武蔵境」という、ここも境界としての場所を得て、逡巡・悩みなどを経て、もとの人々へ戻っていく。なかなかに楽しい読書であった。

圏央道の今朝はスムーズ。海老名ジャンクションでの渋滞あらず

高き所を走る圏央道けさがたはスムースに進む。九階の窓に

雲多くあれども明るい朝なり圏央道も円滑に動く

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『孟子』尽心章句上191 孟子曰く、「人の学ばずして能くする所の者は、其のなり。らずして知る所の者は、其のなり。のも、其の親を愛するを知らざる者無し。其の長ずるに及びてや、其の兄を敬するを知らざる無し。をしむは仁なり、長を敬するは義なり。他無し、之を天下に達するなり」

たいせつなのは親親・敬長の心こそ天下に推し及ぼすべきなり

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

この宮のもりのしたにこどもらとあそぶはくれずともよし

かすみ立つながきに子どもらと手毬つきつゝ此の日くらしつ

【評言】二首とも語義や大意の説明を要しないほど平明な歌である。いたるところの町や村でこどもの仲間入をして遊んでいた良寛その人の面目のよく現れた歌である。表現の上から特にこの二首について注意すべき点は前の歌の「この宮」、後の歌の「此の日」における「この」の使い方である。この一つの言葉によって如何に全体が引きしめられているか、そこを参考とすべきである。因に、前の歌はもと和亭の画に讃したものであるが、今となっては必ずしもそれを画讃の歌と見なくてもよいと私は思っている。

7月13日(月)

雲・曇・くもり……暑い。

公園の砂地にいく本かの轍あり凹凸ありて歩き難し

自転車の轍を避けて歩みゆく右に左に足動かして

凹凸ある砂地の轍見えたるにそれでも歩くふらふらふらり

『孟子』尽心章句上194 孟子曰く、「人の、有る者は、恒ににす。独りのみ、其の、心をるや危ふく、其の、をるや深し。故に達す」

人に徳行・知恵・技術・才知の長所あるは災患に置かるるからなり

孤臣孼子に限つては自然、事の道理に達しやすし

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

飯乞ふとわが来しかども春の野に菫つみつゝ時をへにけり

【語義】「飯乞ふ」とは「托鉢に」。「わが来しかども」は「自分は来たのであるが」。

【大意】現身の命をつなぐ糧を求めにと托鉢に出たのではあるが、春野に咲いている菫の美しさにひかされてそれを摘みながら時を過してしまった。

【評言】良寛その人の面目が躍如としている。しかもそれをいささかの誇張も衒気もなしに淡々と歌っている。わざとらしい咏嘆の臭味などは露ほどもない。「どうだ、こうした心境はお前達にはわかるまい」と云ったような所謂禅坊主的な気取りや見せびらかしからは遥かに超越している。

7月12日(日)

晴れてんだか、曇ってんだか。

妻の誕生日は6月29日だが、

わが妻の誕生日を祝ふ手紙二通少なくとも二人よき友なりき

誕生日を祝ひGODIVのチョコレート隠したるもの今日だしきたる

六十六がそれほどに嬉しいか妻の笑顔あゝいつのまにか年を経たる

『孟子』尽心章句上193 孟子曰く、「其のさざる所を為すこと無く、其の欲せざる所を欲すること無し。の如きのみ」

君子の道とはなそうとせぬことをせず欲しようとせぬことを欲せず

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相馬御風編注『良寛和尚歌集』

うぐひすの声をきゝつるあしたより春の心になりにけるかも

【大意】自然界の春はいつ来たか、またいつ来るのか知らないが、わしは鶯の声を聞いた朝から春の心になったわい。

【評言】これは一寸読んだだけでは平凡で何の妙味もないように思われるかも知れぬが、よく誦み味い、繰り返し誦み味って見ると、不思議な魅力を感じさせられる。純情の力である。しらべの力である。この歌でも前の歌におけるが如く「聞く」が「聞える」でないところに注意すべきである。すなおに一気に詠んでいながら、筋張ったところがない。ゆらゆらとしたのどかな心の律動が糸の如くゆらいでいる。単純素樸もここまで来なくては本物でない。