4月30日(木)

曇り。やがて雨。

  金沢の海に沈める夕べの日まばゆきものがたちまち消ゆる

  日の暮れを写さむとする妻のうしろ息おなじうす息吐くときも

  海上に本日最後の太陽の沈むを写す携帯(スマート)電話(フォン)

『孟子』万章章句下138-2 繆公(ぼくこう)亟々(しばしば)子思(しし)を見る。曰く、『古、千乗の国、以て士を友とすること、如何』と。子思悦ばずして曰く、『古の人言へること有り。曰く、<之に(つか)ふと云はんか>と。(あに)之を友とすと云ふと曰はんや』と。子思の悦ばざるは、(あに)曰はずや、『位を以てすれば、則ち子は君なり。我は臣なり。何ぞ(あへ)て君と友たらん。徳を以てすれば、則ち子は我に(つか)ふる者なり。(なん)ぞ以て我と友たる可けんや』と。千乗の君、之と友たらんことを求むるも、(う)(べ)からざるなり。而るを況や召す可けんや。

  賢者は千乗の国君が友人になろうとしてもなれはすまい 子思

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

わが子は十余(じふよ)になりぬらん (かうなぎ)してこそ(あり)くなれ 田子の浦に潮ふむと いかに海人集ふらん (まさ)しとて 問ひみ問はずみなぶるらん いとほしや(四句神歌・雑・三六四)

    ・

わが子は二十になりぬらん 博打してこそ歩くなれ 国々の博堂(ばくだう)に さすがに子なれば憎かなし (ま)かいたまふな 王子の住吉西宮 (四句神歌・雑・三六五)

    ・

媼の子どもの有様は、冠者(くわざ)は博打の打ち負けや 勝つ世なし 禅師(ぜんし)はまだきに夜行(やかう)好むめり 姫が心のしどけなければいとわびし (四句神歌・雑・三六六)

【現代語訳】わが子はもう十余歳になったことだろう。巫女をして歩いていると聞く。  田子の浦の辺りをさすらっているとか。どんなにか多くの漁師が集まってくることだろう。占いが当たっているよと言って、あれこれ口を出してはなぶりものにしているだろう。かわいそうに。

    ・

わが子はもう二十歳になったことだろう。博打をして歩いていると聞く。諸国の博打場を渡り歩いているとか。やくざ者でもやはりわが子だから、憎くはない。どうかわが子を勝負に負けないようにしてやってください。王子の宮、住吉、西宮の神々よ。

    ・

ばばの子どもたちの有様といったら、冠者は博打で負け通しでね、勝つ時なんかありゃしない。禅師はほんの子どもなのに、夜遊び好きのようなのさ。姫の気持ちはだらしがないから、まったくもってつらいことよ。

【評】子を思う痛切な親心を歌った三首。連続して置かれている。前の二首は、何らかの理由で生き別れになった、漂泊するわが子の噂を聞いて、その境遇を思いやっているもの。

三六四歌の「巫」は特定の神社に属する巫女ではなく、歩き巫女と呼ばれた、諸国を巡り歩く下級の巫女を指していると考えられる。彼女らは春をひさぐこともあったため、男たちの好色な目から逃れることは難しかった。占いを口実にからかわれ、なぶられる幼い娘の様子は具体的で、歌の主体として想定される母親自身がかつてそのような経験をしたのではないかと想像されるほどである。田子の浦は静岡県富士市の海岸で有名な歌枕。百人一首にも「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」(田子の浦に出て眺めると、真っ白な富士の高嶺に雪は降りしきっていることだ)の一首がある。風光明媚な場所であればあるほど、美しい風景の中で辛酸をなめる娘のあわれさが際立ち、「いとほしや」(かわいそうに)の呻きが痛々しい。

     ・

三六五番歌に歌われる「子」は、博打うちになって流浪しているらしい。「博堂」は、原本「かくたう」で、これまで「博党」の字を当てて、博打仲間と解されてきたが、他に用例がない。「博堂」は博打の行われる場所の意で、『今昔物語集』巻一三-一〇話や鎌倉時代の歌謡・早歌の一曲「双六」の中に例が見えるので、博打場の意にとった。博打場から博打場へ渡り歩くわが子の落魄を嘆きながら、それでも、勝負運を祈らずにはいられない親心があわれである。祈りの対象としての神々が具体的にあげられているところに、親の思いの切実さが表れていよう。「王子の住吉西宮」の「の」は調子を整えるために添えたもので、熊野の若王子社、住吉大社(大阪市住吉区)、西宮神宮(兵庫県西宮区)の三社をあげたものと考えられる。「住吉西宮」は、「関より西なる軍神」を列挙した『梁塵秘抄』今様(二四九)の中にも結句に並んで置かれている。戦に勝つことを祈る「軍神」としての「住吉西宮」を、博打の勝利を祈る対象として選んだ親の心情は、冷めた目で見れば大げさで滑稽であるが、それだけに切なく胸を打つ。

三六六番歌は、年老いた母親が、手元にいる子どもたちの無軌道な生活ぶりを嘆いた一首。「嫗」は「翁」の対で、老女のことだが、当該今様では自称として用いている。「冠者」はもともと、元服をして冠を着けた少年の意だが、ここでは老女の長男を指すのであろう。「禅師」は僧侶の称であり、僧体の次男のことか。「まだし」はその時期に達しない、という意味で、まだ幼いのに夜歩きばかりしている、と母の嘆きが強調される。「姫」は本来、貴人の娘をいうが、ここでは末娘を指すと見られる。「しどけなし」は、だらしがない、の意で、ここでは男性関係の乱れを言うのであろう。三人が三人とも勝手気ままに過ごしており、そばにいながら母はどうすることもできない。「いとわびし」とため息をつくばかりである。

『後撰和歌集』に収められた藤原兼輔の和歌「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」(親の心は闇ではないのに、子を思う道には、理性を失って迷ってしまうことだよ)は、『源氏物語』にもしばしば引かれて著名であるが、これらの今様は、親の「まどひ」を切実な感情語と共に具体的に描き出している。

4月29日(水)

曇りです。

金沢 二

北陸新幹線

  金沢へはトンネルばかり。白馬・立山連山まだ雪の山

  姫川の下流域通過するをたしかめて糸魚川あたり海原を見き

  一日目も二日目も春の暖かさ染井吉野は満開の花

『孟子』万章章句下137-3 曰く、「敢て問ふ、国君 君子を養はんと欲せば、如何にせば(すなは)ち養ふと謂ふ可き」と。曰く、「君命を以て之を(おこな)ひ、再拝稽首(けいしゆ)して受く。その(ご)(りん)(じん)粟を継ぎ、(はう)(じん)肉を継ぐ。君命を以て之を(おこな)はず。子思(お)(も)へらく、『(てい)(にく)(おのれ)をして(ぼく)(ぼく)(じ)として亟々(しばしば)拝せしむ。君子を養ふの道に非ざるなり』と。堯の舜に於けるや、其の子九男(きうだん)をして之に(つか)へ、二女(にぢよ)をして(これ)(めあは)し、百官・牛羊・倉廩(さうりん)備へ、以て舜を(けん)(ぽ)の中に養はしむ。(のち)、挙げて(これ)上位(じやうゐ)に加ふ。故に曰く、『王公の賢を(たふと)ぶ者なり』と」

  王公たる者の賢者を尊ぶ道なるは見極めをして賢者を選ぶ

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

王子(わうじ)御前(おまへ)(ささ)(くさ)は 駒は(は)めどもなほ茂し (ぬし)は来ねども(よ)殿(どの)には (とこ)(ま)ぞなき若ければ   (四句神歌・雑・三六二)

【現代語訳】王子の社前の笹草は馬が食むけれどまだまだ茂っている。あの人は来な いけれど寝所では、床の空く間もないことよ、私が若いゆえに。

【評】巫女の奔放な夜の生活を歌った一首。

「王子」は、諸注、熊野の若一王子社と見る。「王子」という神の「若さ」が、巫女の若さとも響きあって巧みである。「笹草」はイネ科の植物。葉は竹に似て、漢方では利尿薬とする。承徳三年(一〇九九)に書写された『承徳本古謡集』所収の風俗歌(地方の歌謡)に「信濃笹草や 馬に飼ふなや や はれ 駒に飼うなや」と見え、馬の飼料となったことがわかるが、ここでは笹草を食べさせるな、と禁止している。当該今様では、笹草の繁茂する様子を、共寝する相手が常にいる様子と重ね合わせた。

『古今和歌集』雑上には、

大荒木の森の下草老いぬれば駒もすさめず刈る人もなし (よみ人知らず)
(大荒木の森の下に生える草が老いさればえてしまったので、馬も好まず、刈る人もない)

という一首が見える。この老いを嘆く和歌は、『蜻蛉日記』(天延二年<九七四>四月、同一〇月)や『源氏物語』(紅葉賀、蛍)に引用され、下草が女に、駒が男に譬えられて、もっぱら性的な比喩として取り入れられた。「駒もすさめぬ草」といえば男に顧みられない女を、「駒なつく森」といえば頻繁に男が通っていく女を表すことになる。こうした性的比喩表現の流れの中で、当該今様はさらに、「床の間ぞなき若ければ」と、直接的な表現で若さを謳歌していると言えよう。しかし、一方では、「主」が来ない現実があり、やがて迫る老いへの恐れもある。『古今和歌集』の和歌を当該今様の源泉とするならば、この今様の歌い手も聞き手も、今の若さに対置される老いを意識せざるを得ない。当該今様を、女の精一杯の強がり、あるいは「主」へのあてこすりと見れば、どことなく哀感も漂うだろう。

4月28日(火)

いや~珍しい朝から晴れてる。

鈴木大拙館

  雨降るに思索空間の長椅子に端坐しておもふそのことばなど

  廊下から仰げる欅に鳶の巣あり雨しとどふるを巣に返る鳶

  金沢の桜はこちらの花と違ふ春のひかりをまとふがごとく

  染井吉野に山桜、どちらも満開はなびらちらす

『孟子』万章章句下137-2 曰く、「君之を(おく)れば則ち之を受くと。識らず、常に継ぐ可きか」と。曰く、「穆公(ぼくこう)子思(しし)に於けるや、亟々(しばしば)問うて、亟々(てい)(にく)を餽れり。子思悦ばず。(をは)りに於てや、使者を(さしまね)きて、(これ)大門(だいもん)の外に出し、北面し、稽首(けいしゆ)再拝して受けず。曰く、『今にして後、君の犬馬(けんば)もて(きふ)を養ひたるを知る』と。蓋し是自り台餽ること無きなり。賢を悦びて挙ぐる能はず、又養ふ能はずんば、賢を悦ぶと謂ふ可けんや」と。

  賢者好みても挙げ用いることならず養ふできずば賢者ならず

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

甲斐(かひ)(くに)よりまかり出でて 信濃(しなの)御坂(みさか)をくれくれと はるばると 鳥の子にしもあらねども 産毛(うぶげ)も変はらで帰れとや  (四句神歌・雑・三六一)

【現代語訳】甲斐国から出て参って、信濃の御坂峠を苦労しながらやっと越え、はるばる都に上って来たのです。それなのに、鳥の子でもないというのに、産毛も生え変わらないまま、国に帰れとおっしゃるのでしょうか。

【評】うら若い乙女の嘆きの歌。主体を巫女とみて勧請のための苦しい旅を続ける中で、乙女のままではいられなくなってしまった自らを嘆く歌と見る説もある。当該今様はそうした嘆きを装いながら、実は、男の気を引こうとする遊女の手管の歌と読めるのではないか。「産毛も変はらで帰れとや」のよく似た表現として、前歌に「色も変はらで帰れとや」がある。

御前に参りては 色も変はらで帰れとや 峰に起き伏す鹿だにも 夏毛冬毛は変はるなり  (三六〇)
(神社にお参りしたのに、色も変わらないで〈周辺の巫女や遊女と逢いもしないで〉帰れというのか。峰に起き伏す鹿でさえ、夏の毛と冬の毛では色が変わるのに)

三六〇番歌は、神社周辺に集まっている遊女らとの情事を匂わせた一首であり、男が「遊女に逢いもせず帰ってくるのは無理だ」と開き直っている歌と捉えられるが、実は、遊女らが巧みに客を引く言葉であり、三六一番歌も同様の趣を持っているのではないだろうか。三六一番歌の主体を田舎出の若者と見て、「色町をひやかしただけでは帰れない」と訴えた歌と見る説もあるが、自らを鳥の子に譬えるところにはどちらかというと、女性的な口吻が感じられる。

「甲斐国」は現在の山梨県、「(かひ)」との掛詞で後の「鳥の子」と響き合う。「信濃の御坂」は長野県下伊那郡の神坂峠。美濃国(現在の岐阜県南部)に抜ける難所。平安時代後期の説話集『今昔物語集』巻二八-三八話には、信濃守藤原陳忠が、任期を終えて上京するために御坂を越えた時、掛橋を踏み外して馬もろともに谷底に落ちたことが見える。陳忠は木に引っ掛かって無事であったが、人々は、「底いくらばかりとも知らぬ深さ」の谷なので、助かるはずがないと思っていた。この峠の険阻であったことを示す逸話であろう。当該今様は、このように険しい場所を提示して、都に来るまでの苦労を具体的に描出し、強調している。

さて、大治二年(一一二七)頃に完成した第五番目の勅撰集『金葉和歌集』には、次のような一首が収められている。

甲斐国より上りて、をばなる人のもとにありけるが、はかなき事にて

そのをばが、なありそ、とて追ひだしければよめる 読人不知

鳥の子のまだかひながらあらませばをばといふ物はおひいでざらまし

(鳥の雛がまだ卵のままであったならいたらば、尾羽など生え出ないだろうに―私もまだ甲斐国にいたならば、叔母〈伯母〉が追い出すこともなかったろうに)

この和歌は、かひ(卵―甲斐)、をば(尾羽―叔母または伯母)、おひ(生ひ―追ひ)の三種の掛詞が趣向となっているが、内容の類似から、同一事件の歌謡化が三六一番歌であるとする説もある。しかし、三種の掛詞が眼目となると和歌と当該今様との掛詞の一致は「かひ」だけであり、今様には肝心の「をば」が出て来ない。さらに、特定の個人的な事件が歌謡として流布するにはやはり相当の理由が必要ではないだろうか。したがってここでは、先のように、男たちを責めるように誘う女の、媚を含んだ歌と見ておきたい。旅の苦労を訴え、自らの若さと純情さを誇示し、この私をこのまま国へ帰すの、と恨む、そのような装いの中に歌われた甘い誘惑の歌と捉えられよう。

4月27日(月)

朝から雨。激しく降るが、やがては止むらしい。

  犀川にも桜並木が連なりて雨しとしとと犀星記念館

  雨宝院の軒に濡れつつ犀星の小説のことなど考へてゐる

  愛すべき猫の最後の一匹なりカメチョロと名づけ東京の家へ

『孟子』万章章句下137 万章曰く、「士の諸侯に託せざるは、何ぞや」と。孟子曰く、「敢てせざるなり。諸侯国を失ひて、而る後諸侯に託するは、礼なり。士の諸侯に託するは、礼に非ざればなり」と。万章曰く、「君之に(ぞく)(おく)れば、則ち之を受けんか」と。曰く、「之を受けん」と。「之を受くるは何の義ぞや」と。曰く、「君の(たみ)に於けるや、(もと)より之を(すく)ふべければなり」と。曰く、「之を周へば則ち受け、之を賜へば則ち受けざるは、何ぞや」と。曰く、「敢てせざるなり」と。曰く、「敢て問ふ、其の敢てせざるは、何ぞや」と。曰く、「抱関撃柝(はうくわんげきたく)の者は、皆常に職有りて、以て(かみ)(は)む。常の職無くして上より賜る者は、以て不恭(ふきよう)と為せばなり」と。

  職あれば受け、職なければ賜はるは不謹慎なり

     *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けばわが身さ へこそ揺るがるれ  (四句神歌・雑・三五九)

【現代語訳】遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか、戯れをしようとして生れてきたのだろうか、一心に遊んでいる子どもも声を聞くと、私の体まで自然に動きだしてくることだよ。

【評】子どもの遊びに引き込まれていく大人の感慨を歌った一首。子どもたちの遊ぶ姿をほほえましく眺めているうちに、自分も浮き浮きと楽しくなってくるという経験は、多くの大人が持っているものであろう。

遊女を主体とみて、無邪気な子どもに対置される罪深いわが身を、身を揺るがすような悔恨をもって見つめているとする説。そのような罪の意識を抱えながらも、今様唱歌へと引き込まれ、生業に執着せざるを得ない遊女がわが身を認識する歌ととる説、罪業感からは離れて、遊女が遊ぶ子どもの声を契機として、自らも歌を歌うという行為、つまりアソビへとそそのかされることを歌ったと見る説などもあるが、軽やかな繰り返しの律調からは、少なくとも、罪深い生活を悔いるといった暗さは受け取り憎いように思われる。主体を遊女に限定すべき強い根拠は見出しにくく、ある程度の年齢を重ねた大人一般の感慨と見ておきたい。

『梁塵秘抄』が発見され、刊行されて間もない大正初期の詩歌作品には、『梁塵秘抄』

今様の影響を受けた作が少なからず見出されるが、当該今様を引いた例は特に多く、好まれた一首であることが窺われる。

うつつなるわらべ専念あそぶこゑ巌の陰よりのびあがり見つ 斎藤茂吉

一心に遊ぶ子どもの声すなり赤きとまやの秋の夕ぐれ 北原白秋

おもてにて遊ぶ子どもの声聞けば夕かたまけてすずしかるらし 古泉千樫

また、川端康成は一九五四年に書いた舞踏劇「船遊女」において、白拍子たちに歌わせるという設定で、当該今様を次のような替え歌にしている。

遊びしたくて生まれ来た 戯れしたくて生まれ来た、遊ぶ子供の声聞けば わが身の春も思はるる 散らぬものかは咲く花の 手を取りかけて いざや遊ばん

この替え歌では、子どもの遊びから。白拍子(遊女)の遊びが連想され、にぎやかな宴の場を彩るようなものになっている。

4月26日(日)

朝から晴れてる。されど、いささか寒い。

泉鏡花記念館

  摩耶夫人の像も見たりき。泉鏡花の「おばけずき」はもとよりにして

  さばのぬか漬け、(ほたる)烏賊(いか)のぬた、治部(ぢぶ)(に)などが金沢のものまあ食うてみるか

  加賀鳶に榮樂などを三合ほど飲み口、酔ひ様、翌朝もよし

『孟子』万章章句下136 孟子曰く、「仕ふるは貧の為に非ざるなり。而れども時有りてか貧の為にす。妻を娶るは養ひの為に非ざるなり。而れども時有りてか養ひの為にす。貧の為にする者は、尊を辞して卑に居り、富を辞して貧に居る。尊を辞して卑に居り、富を辞して貧に居るには、(いづく)にか宜しき。抱関(はうくわん)撃柝(げきたく)なり。孔子嘗て委吏(いり)と為る。曰く、『会計当るのみ』と。嘗て乗田(じようでん)と為る。曰く、『牛羊(ぎうやう)(さつ)として壮長(さうちやう)するのみ』と。位卑しくして言高きは、罪なり。人の本朝に立ちて、道行はれざるは、恥なり」

  正しくは孔子に倣うべし。本朝に立ちて道行はれざるは恥ずべきなり

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

聟の冠者(くわざ)の君 何色の何摺か(この)うだう 着まほしき 麹塵(きぢん)山吹止摺に花村(はなむら)(ご)御綱(みつな)(がしわ)や 輪鼓(りうご)輪違(わちがへ)笹結(ささむすび) 纐纈(かうけち)まへたりのほやの鹿の子(か こ)(ゆひ)  (四句神歌・雑・三五八)

【現代語訳】聟の冠者の君は、何色の何摺をお好みか。着たいと思われるか。麹塵、山吹の色、止摺に花村濃の染め。御綱柏、輪鼓、輪違、笹結の文様。纐纈染めにまへたりのほやの鹿の子絞り。

【評】聟の着物の色や染めや文様についてあれこれ思いをめぐらした歌。妻の家における聟の装束選びの様子か。あるいは女(または女の親)と聟との対話ともとれる。

「麹塵」は渋い黄緑色。しばしば天皇だけが着用でいる禁色と説明されるが、『平家物語』には「麹塵の直垂」の例が見られ、『梁塵秘抄』の時代には禁色という意識はなかったものと考えられる。「山吹」は山吹の花の色のような鮮やかな黄色。『梁塵秘抄』には、

武者(むさ)の好むもの 紺よ(くれなゐ)山吹濃き蘇芳(すはう)…… (四三六)

と見え、武士の好む色として、紺、紅に並んで山吹色があげられている。

「止摺」は形木にのりをつけてその上に布を止め、染色する方法。

「花村濃」は、花色(濃い藍色)でところどころ濃淡をつけた染め方。

「御綱柏」は三裂した葉の形が角に似るところから三角柏ともともいう。「輪鼓」は真ん中がくびれた鼓の胴のような形の紋、「輪違」は二つの輪を交差させた形の紋。「笹結」は笹の葉を紐で結んだような形の紋か。笹の紋には、葉を三枚、五枚と重ねた「三枚笹」「五枚笹」、雪を戴いた「雪持笹」など多くの種類があるが、「笹結」は管見に入らず、推測の域を出ない。

「纐纈」は模様を彫った薄板二枚にはさんで染める絞り染めの一種。「鹿の子結」は鹿の子の毛のように白い斑点をの模様を出す絞り染めの一種。「まへたりのほや」は「前垂の寄生」と漢字をあてる注釈書が多いが、意味はよくわからない。「前垂」は平安時代末に成立した辞書『伊呂波字類抄』に「韎●」の表記で出ている。「マへタリ」の読みと膝を覆うものとの注とが付されるが、色や染め、文様などを問題にしている当該今様の中で、衣服の種類が出てくるのはやや不審である。寄生は他の樹木に寄生する植物(ヤドリギ)をいうが、紋所としても用いられた。『平家物語』巻一一「那須与一」の章段に「丸寄生摺ったる鞍」と見え、寄生を丸く図案化した文様を蔵の側面に青貝などで象眼したものだとされる。また、源俊頼(一〇五五?~一一二九?)の歌集『散木奇歌集』には「狩衣寄生の藍摺」と見え、藍を用いて狩衣(もと、公家が鷹狩の折などに用いた活動的な衣服。のち、公家、武家の常用服となった)に寄生の摺り文様を染め出したらしいことが窺われる。「纐纈」「鹿の子結」と並べられているところから、「まへたりのほや」は、絞り染めに関わるものと見たいところではある。

一首全体は、おおよそ、色の種類、摺り染めの種類、文様の種類、絞り染めの種類、の順に構成されていると考えられよう。

時代は下るが、室町時代末期の流行歌謡である小歌にも、聟に着せる着物をテーマにしたものがある。

聟に着せうとて 目づくしの小袖に 京上下を 京上下を(『宗安小歌集』)
(聟に着せようと用意したのよ。目づくし〈白い斑点模様を多くちりばめた染めか〉

小歌よりも長い詞章を持つ当該今様は、多くの色や染めや文様を並べていくことによって華やかな衣装の豪勢さが鮮やかに示し、それを用意する人々の浮き立つような気分をも巧みに伝えている。

4月25日(土)

曇っているような、晴れているような。晴れるらしい。

  徳田秋聲記念館の二階より黒き瓦に花びら散り(く)

  「秋聲の聴いた音楽」のCDを(か)ひ求めたり。SP版の音

  昼食を終へての春昼後刻にも岸辺には古木(こぼく)のさくらはなびら

『孟子』万章章句下135-4 曰く、「然らば則ち孔子の仕ふるや、道を事とするに非ざるか」と。曰く、「道の事とするなり」と。「道を事とせば、(なん)猟較(れふかく)するや」と。曰く、「孔子は、先づ祭器を簿正(ぼせい)し、四方(しほう)(しよく)を以て簿正に供せしめず」と。曰く、「奚ぞ去らざるや」と。曰く、「之が兆を為すなり。兆以て行ふに足る。而るに行はれず。而して後去る。是を以て未だ嘗て三年を終ふるまで(とどま)る所有らざるなり。孔子には(けん)(かう)可の仕へ有り。際可(さいか)の仕へ有り。(こう)(やう)の仕へ有り。季桓子(きくわんし)に於ては、見行可の仕へなり。衛の靈公に於ては、際可の仕へなり。衛の孝公に於ては、公養の仕へなり」と。

  孔子には魯の季桓子には見行可の仕へ、衛の霊公は際可の仕へ、衛の孝公には公養の仕へ

    *

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

羽なき鳥の(やう)がるは 炭取(すみとり)(かい)(とり)かいもとり (いしな)(とり) (いた)(どり)(かき)(ほ)に生ふてふ菝葜(さるとり)弓取(ゆみとり)(ふで)(とり)小弓の矢取とか   (四句神歌・雑・三五七)

【現代語訳】羽のない鳥で変わった風情のあるものは、炭取、虎杖、垣根に生えるという菝葜よ。弓取、筆取、小弓の矢取といたようなもの。

【評】末尾に「トリ」がつくものを並べた言葉遊びの歌。「様がる」は一風変わっていておもしろそうであるといった意味で、『梁塵秘抄』には多くの用例がある。当該今様では「鳥」という音を持っていても、鳥でもないため「様がる」(風変りだ)としており、言語遊戯的な側面が強いが、伝統的なもの、ありふれたものに対して、やや変わっているもの、珍しいものを「様がる」と評価していく姿勢は、流行の最先端を追っていこうとする今様という歌謡の性質をよく表していると言えよう。

「炭取」は、炭を入れる容器。「(かい)(とり)」は、原文「かいとり」とあり、従来「楫取」の音便とされてきたが、「ぢ」が「い」音便となるには無理があるという説に従う。(かぎ)(とり)は文永五年(一二六八)成立の語源辞書『名語記』によって「カイトリ」とも読まれたことがわかる(巻九・十八オ)。中央官庁や諸国の倉などの鍵を保管して開閉を司る役のこと。「かいもとり」は、もののまわりを動いて回ることを原義とし、もがく、まとわりつく、といった意味もある。『梁塵秘抄』に、川を渡る樵夫が波に足をとられ、杖も手から離れてしまってもがいている様子を、「波に折られて尻杖捨ててかいもとるめり」(三八五)と表現した例があり、室町時代末期の流行歌謡を集めた『閑吟集』には、「恋風が来ては袂にかいもとれてなう」(恋風が吹いてきては袂にまとわりついてね)の例がある。

「石取」は小石を投げ上げたり取ったりするお手玉のような遊戯、「虎杖」「菝葜」はそれぞれ植物の名、「弓取」は弓を持つ武士、「筆取」は文字を書く人、「小弓の矢取」は遊戯用の小弓で射た矢を集める人。

取り上げられた素材は「トリ」の音を持つだけで、雑多であり統一がないとも評されるが、各素材の間にはゆるやかな連想が働いていると見られる。「炭取」と「(かい)(とり)」は日常生活において必須の身近な道具(またはその道具を扱う人)であり、「カイトリ」から「カイモトリ」の音が引き出され、手に石が「かいもとる」(まとわりつく)のような遊戯「石取」を挟んで、植物名が二つ並ぶ。「弓取」と「筆取」は文武両面を表し、最後に「弓取」との連想で結ばれながら、また遊戯に関わる「小弓の矢取」が置かれている。リズムと意味上の連想関係から巧みに組み立てられていると言えよう。

この中に見える「虎杖」について、『枕草子』は「見るにことなることなきものの文字に書きてことごとしきもの」(実物を見るとたいしたことはないのに、文字に書くと大げさなもの)の物尽くし章段で例にあげている。「虎の杖」と書く漢字表記が問題になっており、同じ素材を取り上げても、今様が「トリ」という音に注目するのと対照的である。『梁塵秘抄』と『枕草子』は、ともに物尽くしという形式を特色の一つに持っているが、耳で聞いた音を問題にする今様と、漢字を思い浮かべられなければおもしろみがわからない『枕草子』は、作者や享受層の違いからそれぞれ独自の世界を切り開いているのである。

4月24日(金)

曇っている。時に明るい。

金沢

  金沢は町の遠くに海見ゆるホテル二十階北の窓より

  空の色映して青き遠き海少し荒れたるかいつの間にか灰色

  浅野川の(しゆん)(ちう)たけて染井吉野。両岸に満開の花散らしをり

『孟子』万章章句下135-3 曰く、「今の諸侯は、之を民に取るや、猶ほ禦のごときなり。苟も其の礼際を善くせば、斯ち君子も之を受くとは、敢て問ふ何の説ぞや」と。曰く、「子(お)(も)へらく、『王者(おこ)る有らば、将に今の諸侯を比して之を誅せんとするか。其れ之を教へ、改めずして而る後に之を誅せんか』と。夫れ其の有に非ずして之を取る者は盗なりと謂ふは、類を充て義の尽るに至るなり。孔子の魯に仕ふるや、魯人猟較(れふかく)すれば、孔子も亦猟較せり。猟較すら猶ほ可なり。而るを況んや其の賜を受くるをや」と。

  長い習慣は尊重して黙殺されるまして諸侯からの贈り物をや

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『梁塵秘抄』植木朝子編訳

嵯峨野の(きよう)(えん)は 野口(のぐち)うち出てはいはさきに (きん)(や)鷹飼(たかかひ)(あつ)(とも)が 野鳥合(のとりあ)はせしこそ見まほしき  (四句神歌・雑・三五六)

【現代語訳】嵯峨野のおもしろさといえば、野の入り口を出て岩さきに行くあたり、禁野の鷹飼の淳友が、鷹に野鳥をとらせたとかいうありさまこそ見たいものよ。

【評】嵯峨野の見どころを、鷹飼の逸話を取り入れて生き生きと歌う一首。「野口」は野の入り口の意で、嵯峨野には限らない。「いはさき」は多くの注釈書が地名と捉えた上で、未詳とするが、あるいは地名ではなく、「岩の突き出たところ」の普通名詞か。『平家物語』巻九「老馬」の章段に、一谷の地形を説明して、

三十丈の谷、十五丈岩さきなんど申す所は、人の通ふべきやう候はず。
(三十丈〈一丈は約三メートル〉の谷、十五丈の岩の突き出たところなどは人の通れるところではありません)

とあり、寛元二年(一二四四)のうちに成立したと考えられている『新撰和歌六帖』に、
山川の落ち舞ふそばの岩さきによどめる水のわきかへりつつ (藤原家良)
(山川の流れが落ちて来るそばの岩の突き出たところには、よどんだ水がわき返ってくることだよ)

と見える。嵯峨野にあるのは、さほど険しい「岩さき」ではなかろうが、大堰川べりの目立つ岩を想定し得るのではないだろうか。「禁野」は天皇の狩猟場として一般の使用を禁じた場所、「鷹飼」は、鷹を飼いならして狩をさせる人、鷹匠。敦友は承保三年(一〇七六)一〇月の白河天皇の嵯峨野行幸に奉仕した鷹匠で、平康頼の編んだ説話集『宝物集』巻一に「片野の鷹飼下野の敦友が野鳥合はせけるこそおもしろかりけれ」と見える。「片野」は皇室の遊猟地のあった大阪府枚方市・交野市一帯を指すか。平康頼は、今様の名手として名高く、後白河院の今様の弟子の一人であった。順康は鹿ケ谷事件に連座して鬼界ヶ島に流されていたが、都に戻った治承三年(一一七九)には、『梁塵秘抄』はほぼ完成していたものと思われるから、康頼は当該今様を意識し、類似した表現を用いて敦友の逸話を記した可能性もある。

時代は下るが、至徳三年(一三八六)序、二条良基著『嵯峨野物語』によれば、敦友の放った鷹は、すぐさま雉をとらえて白河天皇の輿の前に落としたので、天皇ははなはだ感心したという。続いて下野敦久が同じく雉をとらえようとしたが、雉は西の山に入り、鷹は東の山にそれていってしまったため、人々は大笑いし、敦友の素晴らしさがより際立ったとされている。

この白河天皇の鷹狩行幸について記したものは多いが、たとえば、堀河天皇(一〇八六~一一〇七在位)の時代に成立した歴史書『扶桑略記』承和三年一〇月二四日条は、「大井河に行幸す。御鷹逍遥なり」とした上で、和歌の会と船遊びについてふれ、嘉応二年(一一七〇)序の歴史物語『今鏡』すべらぎの中「紅葉の御狩」は、この折の白河天皇の詠歌を記す。また『宝物集』は放鷹楽という楽曲を演奏したことに言及する。これらの対して今様は、鷹狩以外のさまざまな遊びにふれていない。散文ほどの情報量を持ち得ない、韻文としての制約が前提とはなるが、和歌や奏楽ではなく、鷹狩にこそ焦点を当てている点に、今様の嗜好が窺われよう。