2月20日(金)

今日は寒い。

  一階のポストへ何度も通ひしも今日は手紙の一通もなし

  たのしみの一つはポストに葉書、封書、書籍のパックいつぱいの時

  取り出してくれぇ早く開けてくれぇと騒ぎたる郵便ポストの扉をひらく

『孟子』離婁章句下103 孟子曰く、「君子の深く之に(いた)るに道を以てするは、其の之を自得せんことを欲すればなり。之を自得すれば、則ち之に(を)ること安し。之に居ること安ければ則ち之に(と)ること深し。之に資ること深ければ、則ち之を左右(さいう)に取りて其の(みなもと)に逢ふ。故に君子は其の之を自得せんことを欲するなり。

  君子はその道を自得せむとす自得できれば妙効もあり

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

般若の御法(みのり)を尋ぬとて 常啼(じやうたい)(ひんがし)へ尋ね行き 妙香(めうかう)(じやう)に至りてぞ 畢竟空をば悟りてし(法文歌・般若経・五四)

【現代語訳】般若の教えを尋ねて、常啼菩薩は東方へ進んで行き、妙香城に到着して、ついに「畢竟空」の真理を悟ったのである。

【評】『般若経』に説かれる常啼菩薩の長い物語を簡潔にまとめた一首。常啼菩薩は、般若の教え(すべての道理を見抜く智慧)を求めて、その求めがたさに七日七晩泣き悲しんだが、「東へ行け」という空中の声を聞いて東方に向かって旅立つ。さまざまな苦難の末、妙香城にたどりつき、法涌菩薩から般若の教えを聞き、「畢竟空」(いっさいの事象には実体がないと考える、究極絶対の空)の真理を悟った。常啼菩薩は、一般的にはさほど知られない菩薩であり、釈教歌にもあまり詠まれないが、今様の流行期に生き、自らも今様を作っている唯心房寂然(一一一八?~一一八二?)の『法門百首』には「常啼菩薩」の題で詠まれた和歌が見える。

あはれにもむなしき法をこひわびて涙は色に出でにけるかな
(しみじみと心打たれることには、常啼菩薩は空の教えを求めて求め得ず。涙がそれとわかるように流れ出たことだよ)

同様に、寂然の兄・寂超も「常啼菩薩」と題して、くちはつる袖にはいかが包ましむむなしと説ける御法ならずは
(涙で朽ち果ててしまった袖にはいったいどのように包もうか、一切は空であると説く般若の教えでなかったら、包むことはできないのだ――実体がない空であるからこそ、朽ち果てた袖にも包めるのだ)

  の一首を詠んでいる。これらの和歌は、涙や涙に朽ち果てた袖を詠んでいて、常啼菩薩がその名

のごとく、ひどく泣いたということに重点が置かれ、菩薩の苦労・苦心が強く印象づけられてい

る。それに対して今様は、常啼菩薩が東に向かい、妙香城に至ったという行動に焦点を当ててお

り、そこに真理を悟った明るい結末部分を歌っている。具体的な表現で菩薩の行動そのものに重

点を置く歌い方は、地蔵菩薩の歌(四〇)とも共通する今様の特徴と言える。

2月19日(木)

晴れ。寒い。

今村翔吾『イクサガミ 神』、蟲毒の争いが東京に入ってからの物語。殺し合いの最最終章だ。結局、双葉のみ残ることになるその後の顛末も書かれてあり、大方終末も見えたが、愁二郎の生死、行方が不明。生きていることを暗示しハラハラ・ドキドキ、四冊時間がかかったが四冊を読み終える。面白かった。

  厚木基地所属の偵察機ならむわが住むマンションの上に回転しをり

  偵察機の訓練飛行。時間は決まらず航路は同じ

  何人を載せて飛ぶのかは分からねど回転してをりほぼ毎日

『孟子』離婁章句下102 孟子曰く、「生を養ふは、以て大事に当つるに足らず。惟死を送るは、以て大事に当つ可し」

  親の死を送るは人生の大事にして孝子なればぞ心すべき

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

毎日恒沙(ごうじや)の定に入り 三途の(とぼそ)を押し開き 猛火(みやうくわ)の炎かき分けて 地蔵のみこそ訪うたまへ
(法文歌・仏歌・四〇)

【現代語訳】毎日ガンジス河の砂の数ほどの瞑想の境地に入っては、三途の扉を押し開き、燃え盛る炎をかき分けて、地蔵菩薩だけが地獄を訪ねてくださるのだ。

【評】地獄の衆生を救う地蔵菩薩の力強さをほめたたえた一首。扉を押し開く、燃え盛る炎をかき分けるといった、ダイナミックな菩薩の身体の動きをなまなましく表現することは、典拠とされる経典や地獄説話の中には見られない、今様の新しさである。

「恒沙」とはインドのガンジス河の砂のことで、数の多いことを譬える。「定」は心の動揺を鎮めた冥想の境地。「三途」は、悪業を行ったものが、罪に応じて死後に赴く三つの世界で、畜生道(動物に生まれ変わって苦を受ける世界)、餓鬼道(飲食物を得られず飢えに苦しむ世界)、地獄道(種々に責められ最も苦しみの多い世界)を指す。

仏・菩薩は多く存在するが、地獄にまでやって来て衆生を救うのは地蔵菩薩だけである。西行(一一一八~一一九〇)の『聞書集』には地獄絵を見ての詠歌が収められているが、地獄を描写して次のように言う。

悲しきかなや、いつ出づべしともなくて苦を受けむことは、ただ地獄菩薩を頼み奉るべきなり、その御憐みのみこそ、暁ごとに炎の中に分け入りて、悲しみをばとぶらふたまふなれ、地獄菩薩とは地獄の御名なり

多くの仏・菩薩の中で、地蔵だけが地獄にまで訪れてくださるのであり、その故に地獄菩薩とも呼ばれた。当該今様は地獄に対する切実な恐怖を抱えた民衆の熱烈な地獄信仰を歌う。貴族階級の人々はたとえ地獄への恐怖を抱いても、現世で功徳を積めば地獄に堕ちることはないという意識のもとで、寺の建立や仏像の製作、写経、法会の開催その他、堕地獄からまぬがれる一応の手段を持っていたが、そのような財力を持たず、生活のためには狩りや漁などの殺生をおかさなければならなかった民衆は、地獄を必定とした上で、ひたすら地獄にすがるほかなかったのである。

このような事情から、貴族社会においては地蔵を単独で造像崇拝することはほとんど見られなかったが、平安末期の庶民的な地蔵信仰においては、地蔵専修が盛んに現れた。当該今様は、平安末期、まさに今めかしき素材としての地蔵を歌っているのである。

『梁塵秘抄』には、地蔵を歌う今様がもう一首収められている。

わが身には罪業重くして 終には泥犁に入りなんず 入りぬべし 佉羅陀山なる地獄こそ 毎日の暁に 必ず来たりて訪うたまへ
(わが身の罪は重く積もって、最後は地獄へ入ろうとしている。きっと入るだろう。佉羅陀山に住んでおられる地蔵菩薩こそは、毎日夜明けに必ず地獄へやって来てくださることだ。)

ここでも、地獄に入ることは定まったことだとして、唯一の救いとしての地蔵菩が歌われてい

る。

2月18日(水)

快晴。

  少し缼けし残りの月の手前飛ぶあけのからすのすがたすぼめり

  からだすぼめてからすがゆけば追うてくる三羽のからす空にはばたく

  町のビルの背後に月の残りたり明かるくなりても薄つすらとある

『孟子』離婁章句下101 孟子曰く、「大人なる者は、其の赤子の心を失はざる者なり」

孟子が言ふ「大徳の人は赤子のごとき心をいつまでも失はず」

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

(よろず)の仏の(ぐわん)よりも 千手(せんじゆ)の誓ひぞ頼もしき 枯れたる草木もたちまちに 花咲き実(な)ると説いたまふ  (法文歌・仏歌・三九)

【現代語訳】多くの仏の願よりも、千手観音の誓願こそは頼みに思われるよ。千手観音に祈ったならば、枯れた草木もたちまちに花咲き実熟ると説いておられる。

【評】霊験あらたかな千手観音をほめたたえた一首。千手観音は千本の手があり、それぞれに一つの眼を持つという無限の慈悲を備えた菩薩。「枯れたる草木もたちまちに 花咲き実熟る」は『千手経』に見られる思想で、弘仁年間(八一〇~八二四)に成立した『日本霊異記』下‐一四に「千手経に説きたまふが如し「此の大神呪を呪すれば、乾枯樹すらなほ枝と柯と華と菓と生ふること得」」とある。     後白河院は千手観音を篤く信仰しており、千手観音を祀る三十三間堂を建てた。院は生涯に三十四度もの熊野詣を果たしているが、熊野の三神格(本宮の主神・家津御子大神、新宮の主神・熊野速玉大神、那智大社の主神・熊野夫須美大神)のうち、熊野夫須美大神の本地(仮に神として現れた姿〈垂迹〉に対し、本来の仏・菩薩の姿)は千手観音とされている。『梁塵秘抄口伝集』巻一〇には、熊野参詣の折、三山をめぐる間に院が『千手経』を転読し、さらに新宮の礼殿で『千手経』を誦んだ後、当該今様を歌ったところ「心解けたるただ今かな」(わが心は今、くつろぎ楽しんだことだ)と応えて歌う神の声が聞こえたという示現譚が記される。

2月17日(火)

朝から曇り空。寒い。

  打てば響く、響けば討たむ戦国の世のごとし短期決戦、総選挙戦

  金のことばかりに費やす衆議院選挙戦、大局観などひとつなしも

  嘘言に聴こえてしまふ選挙戦すこしは良きこと宣言すべし

『孟子』離婁章句下100 孟子曰く、「大人なる者は、言必ずしも信ならず、行ひ必ずしも果ならず、惟義の在る所のままなり」

  大人はただに義の在ることを求む言も行くも信ならずして

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

観音(かわんおん)大悲(だいひ)(ふね)(いかだ) 補陀落(ふだらく)(かい)に浮かべたる 善根(ぜんこん)求むる人しあらば 乗せて渡さむ極楽へ
(法文歌・仏歌・三七)

【現代語訳】観音菩薩は舟筏のようなもの。補陀落海に浮かんだことよ。善根を求める人がいたならば、乗せて極楽浄土へ渡そうというわけで。

【評】観音の慈悲を舟筏に譬えた一首。「大悲」は衆生に対するいつくしみ、慈悲の意で、その持ち主である観音を敬っていう。「補陀落海」は観音の住む補陀落山をとりまく海。「善根」は善い果報をもたらすような行為のこと。

苦界に沈む衆生を救う仏・菩薩を舟や筏に譬えることは経典や和讃などにも多く見られるが、平安時代中期以降、熊野の那智の浜から、死を覚悟の上で補陀落山を目指して船出する補陀落渡海が盛んに行われたため、補陀落海に浮かぶ船や筏は、単なる比喩としてではない、実感を伴った表現として捉えられたものと思われる。    当該今様では、人の導かれる先は補陀落山ではなく、阿弥陀の浄土である極楽となっている。観音菩薩は勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍であるから、それもうなずけるところである。

2月16日(月)

天気はいい。しかし夕刻、雨・雪になるという。

  東の街区は赤く染まりをりかへり見すれば満月の笑み

  夜の未だ暗きうちに家を出る見し空高く残りの満月

  地を濡らしわづかに斑に跡残す影踏み踏みて心遊ぶ

『孟子』離婁章句下99 孟子曰く、「仲尼は已甚しきを為さざる者なり」

   孔子は極端なことをなさらぬ方であった。

孟子が言ふ「仲尼は極端なことを為さざる者なり」

孔子 BC551頃―BC479 

孟子 BC四世紀後半に活躍

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

瑠璃の浄土は潔し 月の光はさやかにて 像法転ずる末の世に 遍く照らせば底もなし

                            (法文歌・仏歌・三四)

【現代語訳】薬師如来のいらっしゃる瑠璃の浄土は清らかだ。月の光は澄み渡り、像法の起こる末の世までもあまねく照らして隠れるところもない。

【評】薬師如来の浄土の美しさをほめたたえた一首。薬師如来の浄土ははるか東方にあり浄瑠璃浄土と呼ばれた。その土地は瑠璃(光沢ある青い宝石。ラピスラズリ)から出来ているという(『薬師如来本願経』)。この今様では、瑠璃の輝きに月光が加わり、夢幻的な世界を描き出している。月の光は薬師如来の放つ光明と考えられるが、脇侍が月光遍照菩薩、日光遍照菩薩であるところからの連想も働いていよう。薬師如来の十二の大願の筆頭に「自身光明」によって、「無量無数無辺世界」を照らすことがあげられている(『薬師瑠璃光如来本願功徳経』)。

2月15日(日)

快晴。

  カーテンをあけて真っ暗だぁとつぶやくは老いたるわれか。まことに暗し

  視界に渋くかすめるものただよへりここは相模の中央ならむ

  相模国の国分寺、国分尼寺の建つところ古へここに都あるらむ

『孟子』離婁章句下98 孟子曰く、「人の不善を言はば、当に後患を如何にすべき」

  他人の不善を言ひたつれば恨みを買いてどうしようもなし

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

像法(ざうぼふ)転じては 薬師の誓ひぞ頼もしき 一度御名を聞く人は 万の病もなしとぞいふ

                            (法文歌・仏歌・三二)

【現代語訳】像法の世になっては、薬師如来の誓願こそが頼りに思われることだ。一度御名を聞く人は すべての病が癒えるということだ。

【評】薬師如来の治病の力をほめたたえた一首。「像法」は、釈迦の入滅後の時期区分、正法・像法・末法の一つ。正法は、教・行・証、すなわち、教えと、それに従って修行する者と、悟りを開く者がいる時期、像法は、教えと、それに従って修行をする者はいるが、悟りを開く者はいない時期、末法は、教えのみがあって、修行する者も悟りを開く者もいない時期。「転ず」は、起こる意で、『薬師瑠璃光如来本願功徳経』に、「像法転ずる時、諸の有情を利楽せん」と見える。

今様霊験譚の中で、今様を歌うことによって病が癒されたという話は多く見られ、たとえば、建長六年(一二五四)に成った『古今著聞集』巻六によると、今様の名手・藤原成道が、「雨降れば軒の玉水つぶつぶといはばや物を心ゆくまで」(雨が降ると軒の雨だれぽたぽたと落ちるように、心の中にたまったことをぼつぼつ言いたいなあ、気のすむまで)と歌ったのを聞いた病人の具合がよくなったという。今様の詞章に病平癒の言葉が直接に含まれなくても、効果が発揮されているわけであるが、当該今様は、病平癒を祈る折に、特にふさわしものであった。『梁塵秘抄口伝集』巻一〇によると、後白河院は、病床にあった今様の師である青墓の傀儡女・乙前を見舞って、『法華経』を読み聞かせた後、当該今様を二、三度繰り返して歌った。乙前は『法華経』よりも、この歌の方がありがたがって涙を流して喜び、「これを承り候ひて、命も生き候ひぬらん」(この歌を承りまして、後も生き続けることができましょう)と言ったという。さらに、『口伝集』巻一〇の結び近くに、乙前の今様の師にあたる目井は、自分のパトロンである源清経が病気になってもう最期という重篤な状態だった時に、当該今様を歌って、すぐさま病を治したという奇跡が記されている。病への恐怖が、医療の発達した現代とは比べものにならなかった時代、薬師如来の霊験と今様の起こす奇跡への期待がいかに大きかったかが窺われよう。

2月14日(土)

朝から晴れ。15℃くらいになるらしい。

  自家用車に横浜ハーバーの工場へ詰め放題の台に妻がゆらぐ

  詰め放題は女性ばかりが挑戦す台を囲みてビニール伸ばす

  平均値に及ばず横浜ハーバーたち不満を言へどせんかたもなし

『孟子』離婁章句下97 孟子曰く、「人為さざる有り、而る後以て為す有る可し」

  孟子は言ふ人ならば不義をなさずしかる後たいへんな事業をなさむ

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

弥陀の御顔(みかほ)は秋の月 (しやう)(れん)(まなこ)は夏の池 四十の歯ぐきは冬の雪 三十二相(さんじふにさう)春の花
(法文歌・仏歌・二八)

【現代語訳】阿弥陀如来のお顔は秋の月のように明るくまろやか。青蓮華のような青い眼は夏の池のように涼しげ。四十の歯は冬の雪のように真っ白。仏の備えた三十二相は春の花せんこうするのように華麗であるよ。

【評】仏の備えている三十二の身体的特徴(三十二相)を、四季の景物にあてはめて讃美した一首。第三句までの比喩表現は、『大般若経』以下、色々な経典に見られるが、源信(九四二~一〇一七)の『往生要集』巻中で阿弥陀のさまを四十二に分けて描写するところに、「六には、面輪…端正皎潔(白く清らか)にして、猶し秋月の如く、…九には、仏眼は青白にして…青きは青蓮華に勝れり、…十二には、四十の歯は…白きこと珂雪(白瑪瑙のような真っ白な雪)に逾えたり」とあることが、広く知られる契機になっていると思われる。また、今様に先行する仏教歌謡の中にも同様の例が見られ、当該今様の成立に大いに影響与えたとを考えられるが、たとえば「法成寺金堂種修正教化」第七夜、三十二相に、仏の御相好は 法界に満てりと聞くより 夏の池に鮮やかなる蓮 靑蓮の眼とぞ覚りける 如来の御相好は 仏刹に偏しと承れば 秋月の満てるも 満月の御容かとぞ見え給ひけるとある。「青蓮」とは、青い蓮華のことで、『大般若経』妙相品には、「諸仏の」とある。すなわち眼相は修広なること譬へば青蓮華の葉の如し」とあって、仏の眼が青蓮華の葉のように長く大きいことが記され、『注維摩詰経』(維摩経の注釈書として現存最古のもの)仏国品には「天竺に青蓮華あり。其の葉、修くして広し。青白分明たり」とある。すなわち、天竺にある青蓮華の葉は長く大きいことに加えて、葉の色が青と白とにはっきり分かれているとされ、それが仏の眼の形容になったのである。

このように、「葉」が問題にされていた仏典に対して、日本の教化や今様では、青蓮華の「花」の涼しげな様に焦点が当てられている。当該今様では、青い蓮の花のような眼がさらに夏の池に譬えられており、先にあげた教化では、夏の池に鮮やかに咲きだした青い蓮の花が仏の眼の比喩となっている。真夏に、池の中から咲く蓮は、それだけでも涼しげであるが、日本で一般に見られる、白や紅、桃色の蓮ではなく、青い蓮といえば、さらに清涼感が増であろう。鴨長明(一一五五?~一二一六)の編んだ仏教説話集『発心集』の巻三には、極楽往生した徴として、悪人・源大夫の舌の先から「青き蓮の花」が一房咲き出ていたという説話がある。いささかグロテスクではあるが、三十二相と関わって、もっぱら「葉」に注目されていた青蓮華の「花」に焦点を当てた日本の古典文学の例として興味深い。「歯ぐき」とは、現代語とは異なり、歯そのものを指す。一二世紀の辞書『類聚名義抄』(観智院本)には、「歯」の訓として「ハクキ」が見える。

人間の歯は三十二本であるが、仏はそれより多い四十本も歯を持っているのである。 三十二相を「春の花」そのものに譬える例は見出せず、当該今様の独創的な点といってよいかと思われる。たとえば『東寺修正作法裏書教化』には「春を迎ふごとに如来の三十二相をぞ讃め奉り給ひける」とあって、三十二相をほめたたえることと、春の季節感が結びつけられてはいるが、仏の姿そのものを春の花に譬えた当該今様は、より一層鮮やかな印象があり、一首に雪月花をそろえた華やかさを持つ。