8月21日(木)

暑い、暑い。

  肥満型と痩型の女二人肩をならべて日傘を開く

  一人は黒いワンピースもう一人はのしゃれた服いづこへ行くか肩を並べて

  この道を行けば間近に駅がある改札入れば二別れする

『孟子』梁恵王章句下8-3 「臣請ふ。王の為に楽しみを言はん。今、王此に鼓楽せんに、百姓王の鐘鼓の声、の音を聞き、を疾ましめをめ、而して相告げて曰く、『吾が王の鼓楽を好む、夫れ何ぞ我をして此の極に至らしむるや。父子相見ず。兄弟妻子離散す』と。今、王此にせんに、百姓王の車馬の音を聞き、の美を見て、挙首を疾ましめ、頞を蹙め、而して相告げて曰く、『吾が王の鼓楽を好む、夫れ何ぞ我をして此の極に至らしむるや。父子相見ず。兄弟妻子離散す』と。此れ他無し、民と楽しみを同じうせざればなり。

  王、民を省みず楽を楽しみ、猟を楽しむそれではだめだ民と楽しめ

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月』 大来皇女

現身の人なるわれや明日よりは二上山を弟背と吾が見む (同巻二・一六五)

右の悲報がただちに伊勢に伝えられ、姉大来(大伯)皇女は斎宮をしりぞいて上京して来る。その時の歌二首がこの歌のすぐ前にある。

神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに (同・一六三)

見まく欲りわがする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに (同・一六四)

「何しか来けむ」とがっかりしている。たったひとりの弟だった。それがもういないのだ。それでも「馬疲るるに」といそいで上京したようすがわかる。

この歌は大津皇子の屍が移されて、後に葛城の二上山に葬られた。その時にさらに詠まれた二首の一つである。「生き残ってこの世の人である私は明日からは二上山を姉弟のように思って眺めましょう」というのだが、人の世のかなしさ、はかなさ、それにあきらめの心を噛みしめている。そうして生ける人にものいうごとくつぶやき、かつ訴えているのである。もう一つの歌は、

磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありと云はなくに (同・一六六)

これも同じようにしっとりとして悲しみ深い歌である。「磯」は海岸のことではなく、巌のことである。これによって本葬は年を越えて早春のころに行われたことがわかる。二上山は文字通り峰が二つに分かれており、高い方が男岳、低い方が女岳。大津皇子の墓は男岳の頂上にあって西向きで河内の方に面している。陵墓は西向きまたは南向きが普通だからこれはこれでよいわけだが、あえて大和に背を向けているのではないかと思われもする。

8月20日(水)

暑いのだ、暑いのだ。

ハン・ガン『涙の箱』、美しく、悲しくなり、心ゆたかに、しあわせになるような童話である。

  積みあがる本の山よりてくるまだ読むことなかりし小説

  女性の書く『京都異界紀行』新品のまま読まぬが出てくる

  古びたる『神屋宗湛の残した日記』、全く読まずに山より出づる

『孟子』梁恵王章句下8-2 他日、王に見えて曰く、「王嘗て荘子に告ぐるに楽を好むを以てすと。有りや」と。王色を変じて曰く、「寡人能く先王の楽を好むに非ざるなり。直世俗の楽を好むのむ」と。曰く、「王の楽を好むこと甚しければ、則ち斉は其れからんか。今の楽は猶ほ古の楽のごときなり」と。曰く、「聞くこと得可きか」と。曰く、「独り楽を楽しむと、人と与に楽を楽しむと、孰れか楽しき」と。曰く、「人と与にするに若かず」と。曰く、「少と与に楽を楽しむと、衆と与に楽を楽しむと、孰れか楽しき」と。曰く、「衆と与にするに若かず」と。

  王世俗の楽を好み衆とともにするを楽しめば斉の国こそ有望なり

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 大津皇子

百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ (万葉集巻三・四一六)

「大津皇子、被死からしめらゆる時、磐余の池の陂にして涕を流して作りましし御歌一首」の詞書がある。前にも記したように、大津皇子は謀反の企てありとして捕らえられ、朱鳥元年十月三日訳語田舎で詩を賜った。その時の歌である。「百伝ふ」は枕詞で、百へ至るという意で、五十または八十にかかる。ここでは五十の磐余にかけた。(略)一首の意は「磐余の池に鳴いている鴨を見るのも今日限りで、天がけり雲に隠れて私は死んでゆくのか」というのである。同じ時に作った五言「臨終」の一絶が懐風藻に伝えられている。

金烏西舎に臨らひ 鼓声短命をう催す 泉路賓主無し 此の夕べ家を離りて向ふ

「西に傾いた日が家を照らし、夕刻を知らす鼓の音は短い自分の命をいっそうせき立てるようだ。あの世の路は客も主人もないだろう。この暮れ方自分はひとり家を離れて死出の旅路に向かうのである」というほどの意だが、歌と詩いずれがすぐれているか。皇子ははやくから文筆を愛し「詩賦の興は大津より始まる」といわれたくらいだから、詩もゆるがせにはでいない。ともにあわれをもよおさしめる(略)ともあれ毎年冬になるとその池に来るカモを見て、それに全生命を託したかのごとき下四、五句の語気語勢、その詠歌の調に歎息する。しかもうらみがましい思いはみじんも述べられていない。(略)地位高く心丈き人のつねのならいか。さらばいっそうに心に沁むが、契沖は「歌と云ひ詩と云ひ声を呑て涙を掩ふに遑なし」といっている。

この時、妃の山辺皇女が殉死している。(略)日本歴史中でもっともあわれ深い場んで、その光景が見えるようだ。これを思いこの歌を読む、何びとも涙せざるをえないのである。

8月19日(火)

今日も亦、暑い、暑い。

  重ねたる本の数冊。読み、読まねばならぬしかし読み得ず

  つぎつぎに読みたき本の名をあげる。その半分も読むことかなはず

  長谷川二郎の二冊の文庫気になれど現代推理小説がおのづから先に

『孟子』梁恵王章句下8  孟子に見えて曰く、「暴、王にゆ。王、暴にぐるに楽を好むを以てす。暴未だ以てふる有らざるなり。曰く、楽を好むこと」と。孟子曰く、「王の楽を好むこと甚だしければ、則ち斉国其れからんか」と。

  斉の王が楽好むこと甚だしされば理想の政治に近し

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 尾山篤二郎

海苔ひびの林わけゆく舟二はいとほり過ぎゆき目に寒からず (同)

「或日」と題する十二首中の一首。「海苔ひび」は海苔をとるために海中に立て列ねる粗朶をいうので、それが文字通り林立しているものだから「林わけゆく」といった。「舟二はい」とことさらいったのは小舟をあらわしたかったからだ。この歌は家の中からガラス戸越しにその海を眺めているので、結句の「目に寒からず」はその部屋がストーブを入れていて暖かいものだから、寒かるべき海の眺めが「目に寒からず」かんじられた。寒中のある日、外出して気分が悪くなった。

医者に寄り血圧はかり以ての外ぞ凝乎と寝て居ねと叱られて帰る

その時の歌で、彼の本心が何であるか思わせるをおだやかな感情のよく出ている佳作である。篤二郎は戦後は横浜の金沢文庫の近く、称名寺のへんに住むようになったから、家からすぐに海が眺められた。昨年夏七十五歳でなかなったが、隻脚の人で松葉杖を突いていた。この歌集『雪客』は「サギ」と読む。サギは一歩脚で立つ鳥だからだが、わが身をしゃれてサギになぞらえる。みずからはなかなかいえないことだ。七十三の時に出した第十一冊目の歌集である。

8月18日(月) 

また、また猛威、暑くなる。

  人を憎むはわれならむかな些細なることに反応したり

  これの世に戦乱なくなることぞなき人を憎むもやむことなきか

  夜の暗きに唐突にミサイル、無人飛行機都心を襲ふ

『孟子』梁惠王章句上7-13 五の宅、之をうるに桑を以てせば、五十の者以て帛を衣る可し。の、其の時を失ふ無くんば、七十の者以て肉を食ふ可し。

百畝の田、其の時を奪ふ勿くんば、八口の家、以て飢うる無かる可し。の教へを謹み、之にぬるに孝悌の義を以てせば、の者、道路にせず。老者帛を衣、肉を食ひ、飢ゑずえず、然り而して王たらざる者は、未だこれ有らざるなり」

  人々がひもじくもなく寒いこともなければ王たらざるもの非ざるものなり

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 尾山篤二郎 

うらはらのそぐはぬ睡り昼をいねてはや時雨降る季節かと思ふ (歌集・)

「うらはらの」だから「反対の」である。「そぐはぬ睡り」だから「ふさわしくない睡り」であr。そこで上句は眠くもないのに昼間を寝ているということである。やむなく仕方なしに寝ているのだから、なかなか眠れない。うとうとしたかと思うとすぐに目が覚める。覚めたかと思ったらまた眠っている。これを夢うつつといえば風情があり、浅き眠りといえば詩的であるが「うらはらのそぐはぬ」思いで寝ていたのでは、たのしくもなければ面白くもないにきまっている。やけを起こして寝てしまったのだ。不貞腐れているのだから、いちばんぐあい悪い思いをするのは垂でもない自分自身だ。あれをこれをといろいろに思い悩んでいる。おりしもふと外のけはいを感じた。時雨が降り出したようすである。さむざむと降り過ぎる音を聞きながら、ひときわ救わるる思いをした。同時に秋はもはやこのように老けていたのか感慨を覚えたのである。すると急に自分のしざまがかえりみられた。こんなことをしていてよいのかと恥ずかしくなったのだ。その心が「はや時雨降る季節かと思ふ」の下句にさりげなくあらわれている。たえ難い思いをそれといわずにたんたんたる調べに託した哀感が読むものの心に沁み入るのである。

この歌は「秋雨」十五首中の一首(略)長男の直樹を死なせ、その妻子をも養わねばならず、困窮している時の歌だ。その上、さらに複雑な家庭的事情もあって、ついこのように正直に自分の弱みをさらけ出してしまったのだが、またすぐに取りなおして次のように心を閑雅に遊ばせている。

つくばひに滴る水の小竹見きうつつと夢のはざかひにして

その心境がしのばれ、風流を愛した彼の面影がしのばれる。

象あるもの消滅し父と子の火宅の譬喩あきらかに現ず

油汗かきし今際ぞけしきたつ死なせしものがさそはんとする

綿に染む死臭のにほひむかむかと一日われに絡らむとす

歌のよしあしはともかく、正視するに忍びない。子を悲しむ心が怒りにまで昂じている。しかしまた次のような天界自然の景に心をやってみずからを慰めている。

屋根越えて眉間を照らす月を見き十八日の丑三つの月

さしのぼる夜なかの月の脇仏金星ちさく暗くまばたく

眉間を照らす丑三つの月とか、金星を月の脇仏などというところが篤二郎である。こういう悲しみの歌もどことなしに技を凝っている。

8月17日(日)

35℃になるそうだ。暑い。

  汽鑵車が真夏の森を抜けてくるみどりの色に染まり出てくる

  カーブするときに警笛ひびかせてみどり穂をなす草原抜ける

  汽鑵車の音立てて来る平原に窓から落とす毒薬の瓶

『孟子』梁惠王章句上7-12 是の故に明君民の産を制するに、必ず仰いで父母にふるに足り、俯しては以て妻子を畜ふに足り、には終身飽き、凶年には死亡を免れしむ。然る後駆りて善に之かしむ。故に民の之に従ふや軽し。今や民の産を制して、仰いでは以て父母に事ふるに足らず、俯しては以て妻子を畜ふに足らず、楽歳には終身苦しみ、凶年には死亡を免れず。此れ惟死を救ひて而もらざるを恐る。ぞ礼儀を治むるにあらんや。王之を行はんと欲せば、則ちぞ其の本に反らざる。

  王これを行なはんと欲すればなどて根本にたちかへらざる

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 磐姫皇后

ありつつも君をば待つ待たむ打ち靡くわが黒髪に霜の置くまでに (同・八七)

三番目の歌である。「ありつつも」はこうしていつまでも。「打ち靡く」は黒髪の形容で、その長くふさふさしているさま。「黒髪に霜の置く」は「白髪が生える」というのと、「外で夜をふかして実際に髪に霜が降る」というのと二つの解釈があるが、後者の解に従う人の方が多いようだが、それは「ある本の歌に曰く」として

居明して君をば待たむぬばたまのわが黒髪に霜は降れども (同八九)

があるものだから、これに引きずられているようだ。「居明して」はたしかに戸外に夜をふかしている状態が感じられ、また「ぬばたまの」などの枕詞もそれをいうに似つかわしいが、これはやはり天皇の心が自分に帰ってくることをいつまででも待とうというおもぬきの歌として受けとるべきである。(略)これは皇后の歌ではないか。嫉妬もさることながら愛情も火のように激しい皇后だった。そのことを思わなければならない。

8月16日(土)

朝は少し涼しいものの、やがて暑くなる。

忘れた頃に『茜唄』の歌を

  平家の興亡の亡を語るとき琵琶法師長く敗者を語る

  を主人公にして『茜唄』上下ついやす清盛の子を

  清盛がもっとも愛せし知盛の最期のことば「見るべきは見つ」

  清盛の新しき像細心にて貴族を信ぜず上皇をうたがふ

  問題は後白河法皇をにありにけり義仲も義経も平家も滅ぶ

『孟子』梁惠王章句上7-11 王曰、「吾くして是に進むこと能はず。願はくは夫子

吾が志を輔け、明らかに以て我に教へよ。我不敏なりと雖も、請ふ之をせん」と。曰はく、「恒産無くして恒心有る者は、惟士のみ能くすることを為す。民のきは則ち恒産無ければ、因つて恒心無し。苟も恒心無ければ、、為さざる無きのみ。罪に陥るに及んで、然る後従つて之を刑す。是れ民をするなり。焉んぞ仁人位に有つて、民を罔して為す可けんや。

  仁者なれば君子の地位にありながら民を罔して為す可けんや

前川佐美雄『秀歌十二月』十一月 磐姫皇后

秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いづへの方にわが恋ひ止まむ (万葉集巻二・八八)

捲二の巻頭に磐姫皇后が仁徳天皇を思われて作った歌四首がある。時代の分かっている歌としては万葉集中最古のものだが、歌風や四首の構成ぶりから考えて、皇后の作ではなく、伝誦歌が皇后に仮託されたものと見られている。この歌は四番目の歌だが、記紀に見る天皇と皇后の相聞歌の古拙ぶりにくらべると、これはずっと時代の若いことはたれにもわかる。それでも「霧らふ朝霞」といっている。これは霧のことだが、古代では春秋ともんに霞の語をつかうことが多かった。一首の意は「秋の田の稲穂の上に立ちこめている朝霧の、日があがるとともに消え去るように、どちらの方に私の恋ごころは消えてゆくのであろうか。切ない思いはなかなか晴れそうもない」と歎いているのである。この「朝霞」と三句で切った上の句がじつによい。ここまでが序歌だが、具体的にいい述べていてしかも優美、情景が彷彿とする。下の句の「いづへの方に」そうして「わが恋ひ止まむ」はまことに巧みないいまわしの、また切実な語で、自然の事象によく心が融けあっていて、ほとんど人為を思わせない。

磐姫皇后は古代女性中、もっとも嫉妬心の激しい人として伝えられている。(略)丘陵と丘陵の間はすべて稲田である。伝誦の問題はともかくとして、この歌をこの 筒木の宮で作られたと考えてもいっこうに差し支えまい、その方が親しみやすく味わいふかく思われる。