2025年6月30日(月)

今日も朝から暑い。

  極端に踏切の減りし私鉄沿線自殺するにも処を択ぶ

  かんかんと踏切鳴れば待ちつづく四輌電車の軽やかに過ぐ

  踏切に溜る人々それぞれに腹に一物隠してをらむ

『中庸』第九章二 (さい)(めい)盛服して、礼に非ざれば動かざるは、身を脩むる所以なり。

(ざん)を去り色を遠ざけ、貨を(いや)しみて徳を貴ぶは、賢を勧むる所以なり。その位を尊く

しその禄を重くし、その好悪を同じくするは、(しん)を親しむことを勧むる所以なり。官盛んにして任使(にんし)せしむるは、大臣を勧むる所以なり。忠信にして禄を重くするは、土を勧むる所以なり。時に使ひて薄く(おさ)むるは、百姓を勧むる所以なり。日に省み月に試みて、既稟(きりん)事に(かな)ふは、百工を勧むる所以なり。往くを送り来たるを迎え、善を嘉して不能を(あわれ)むは、遠人を(やはら)ぐる所以なり。絶世を継ぎ廃国を挙げ、乱れたるを治め危ふきを持し、朝聘(ちょうへい)は時を以てせしめ、往くを厚くして来たるを薄くするは、諸侯を(なつ)くる所以なり。

凡そ天下国家を(おさ)むるに、九経あり。これを行なふ所以の者は一なり。

  天下国家を治むるには九経を実践すその根本は一なり

前川佐美雄『秀歌十二月』七月 東歌(あずまうた)上野(かみつけぬ)国歌(くにのうた)

吾が恋はまさかもかなし草枕多胡の入野(いりぬ)のおくもかなしも (万葉集巻十四・三四〇三)

「まさか」は現在ということ。まさしく、現に今というほどの意。「草枕」は旅にかかる枕詞だが、ここでは「多胡」にかかる。万葉集中ただ一つの変則例である。「多胡」は群馬県多野郡多胡村(現在、吉野町)であり、入野は山の方へ深く入りこんでいる野であろうが、地名のような感じもする。一首の意は「自分の恋ごころは現在このようにせつないけれど、多胡の入野の奥ふかいように遠い先々も悲しいばかりせつなく思われる」というのである。「草枕多胡の入野の」は「おく」をいうための序詞であり、「おく」は場所だけでなく時間もいうので、将来もせつなく悲しく思われるといっている。

一首の中に「かなし」の語をくり返しているが、少しもわずらわしくない。かえって結句の「おくもかなしも」は泣き甘えているがごとき口調の感じられる切実な語で、またつつましい女ごころのあわれさをうったえているいる。東歌に似合わず俗な民謡調の感じられぬ、そうしてどこか奥深いものを思わせる、何ともいいようのない、よい響きをつたえる可憐の作だ。

(略)東歌はだいたいが民謡であり、民謡ふうのものが多いのだから、そうしてそれは民謡ゆえに恋愛の歌が中心であるのだから、特定の夫とか妻の歌と解したのでは東歌らしさがなくなるだろう。(略)それにしても東歌は個人の作でもあろうし、集団の中から生まれたものもありうが、東国地方で行われていた歌であって、作者はむろんわからない。その作られた地方にしてもわかっている国のものもあり、わからない国のものもある。

2025年6月29日(日)妻の誕生日である。年は言わないでおこう。

朝から晴れているし、すこし温度が下がっているようだ。しかしここからはどうだろう。

  天人がこの地に降りてとまどふか松の林の今日も鳴りをり

  巨大なるトランク載せて走り行く何処へ行くか物を運びて

  大空には女神の美しき脚がある曇りのなかにそれを探る

『中庸』第九章一 凡そ天下国家を(おさ)むるに、九経あり。曰く、身を脩むるなり、賢を尊ぶなり、親を親しむなり、大臣を敬するなり、群臣を体するなり、庶民を(いつく)しむなり、百工を(ねぎら)ふなり、遠人を(やはら)ぐるなり、諸侯を(なつ)くるなり。

身を脩むれば、則ち道立つ。賢を尊べば、則ち惑はず。親を親しめば、則ち諸父・昆弟怨みず。大臣を敬すれば、則ち(まよ)はず。群臣を体すれば、則ち士の報礼重し。庶民を子しめば、則ち百姓勤む。百工を来へば、則ち材用足る。遠人を柔ぐれば、則ち四方これに帰す。諸侯を懐くれば、則ち天下これを畏る。

  天下国家を治むるには九経、つまり九つの原則があるさすれば威光あり

前川佐美雄『秀歌十二月』七月 島木赤彦

谷の入りの黒き森には入らねども心に触りて起伏す我は (歌集・柿蔭集)

大正十四年作、死ぬ一年前の「峡谷の湯」四十余首中「赤岳温泉数日」の中にある。これと並んで奥山の谷間の栂の木がくりに水沫飛ばして行く水の音 

というような佳作がある。赤彦らしい歌でこの方がいっそうすぐれており、りっぱかもしれないが、「谷の入りの黒き森には入らねども」というあたり、かまえをなくした赤彦の心が感じられる。「心に触りて起臥す我は」は赤彦自身にしてもよく説明がつかないのではないか。そういう心境である。神秘のようなものを感じる人は感じてよいので、私はこの「黒き森」に赤彦の人生が象徴されているような気がして、読んだ当時不安であった。危い、恐いという感じがしたのである。

赤彦の歌は茂吉に及ばないというものもあるが、けっしてそういうことはない。(略)赤彦は歌境も狭く、またいくばくかやぼなところもあるが、勝負は一首ずつだ。そうすると赤彦の方がすぐれていはしないか。心の持し方が違うのである。位が高いといってもよいが、おおかたの歌人はわからないのではないか。比べるのが無理だが、

しかし赤彦に学べと強くいいたい。明治・大正・昭和三代の歌人では、私は赤彦をもっとも高く評価している。蒙った恩恵はいいがたいほどである。

2025年6月28日(土)

今朝も暑い。よく晴れている。いつになったら梅雨が明けるのだろう。

  探偵に尾行されたるか駅からの暗き道迷はずわが後をくる

  死ぬことはまちがひないが苦しまずに死ねるかどうかそんなことはない

  さう遠くなく死の世界に被われてそちらに移るか死ねば空白

『中庸』第八章 天下の達道は五、これを行なう所以の者は三。曰く、君臣なり、父子なり、夫婦なり、昆弟(兄弟)なり、朋友の交なり。五者は天下の達道なり。知・仁・勇の三者は、天下の達徳なり。これを行なう所以の者は、一なり。

或いは生まれながらにしてこれを知り、或いは学んでこれを知り、或いは困しんでこれを知る。そのこれを知るに及んでは、一なり。或いは安んじてこれを行なひ、或いは利としてこれを行なひ、或いは勉強してこれを行なふ。その功を成すに及んでは、一なり。

子曰く、「学を好むは知に近し。力めて行ふは仁に近し。恥を知るは勇に近し」と。斯の三者を知れば、則ち身を脩むる所以を知る。身を脩むる所以を知れば、則ち人を治むる所以を知る。人を治むる所以を知れば、則ち天下国家を治むる所以を知る。

  孔子が言ふ学を好むは知に近く、努めて行なふは仁に近く、恥を知るには勇に近し

前川佐美雄『秀歌十二月』七月 島木赤彦

山道の昨夜の雨に流したる松の落葉はかたよりにけり (歌集・太虚集)

大正十一年作、「有明温泉」行の一首である。同じ時に

たえまなく鳥なきかはす松原に足をとどめて心静けき

いづべにか木立は尽きむつぎつぎに吹き寄する風の音ぞきこゆる

  しらくもの遠べの人を思ふまも耳にひびけり谷がはのおと

   などの傑作がある。(略)私は掲出した歌を当時における赤彦の代表作としてとくに取りあげるのである。意は明瞭だからあえていう必要はないが、これは雨あがり、朝早い山道を歩いているのである。それは人通りのない山道をただひとり歩いているのである。そういう説明語は何もないけれど、そうしたおもむきが感じられる。同行者があってはいけないのである。(略)これはあくまでひとりの歌だ。(略)川のようになって流れた雨水に片寄せられている松の落葉だけをいったのがよかった。さすがに赤彦である。清潔であり、清澄である。一読して心をぬぐわれる思いがする。声調が冴えきっているのだ。しかも赤彦自身のとなえていた自然人生の寂寥感というようなものもわかるような気がする。    もくもくと山道を歩いている赤彦の心は孤独の思いに堪えていたのだ。(略)赤彦は日夜懊悩したはずだが、それはけっして表にださなかった。それを自然風景の写生歌の中に韜晦せしめたといっては語弊があるが、しかし一途にそれこそまっしぐらにその写生道にうち込んで行った。その態度はすでに前に述べたように覇者的思想を根底に持っていた。修行をいい鍛錬を説いたが、けれども根はやさしく、そうしてさびしい人だったようだ。この歌は冷たいばかり清く冴え澄んでいるけれど、赤彦の本心が出ている。それはいつでも本心を歌っているのだが、時にきつく出すぎて、態度が目立つきらいがあった。

2025年6月27日(金)

朝は涼しいが、やがて猛暑。

  宇宙線に刺さるがごとく挫けたり動かなくなる地球人われ

  宇宙線に刺されて病めるわが軀なり今日もよろけて木の影過る

  血圧の変化は空の上にある気圧のせいなり気圧が動く

『中庸』第七章 哀公(魯の君主)、政を問ふ。子曰く、「文・武の政は、布きて方策(書籍)に在り。その人存すれば、則ちその政挙がり、その人亡ければ、則ちその政(や)む。人道は政に(つと)め、地道は樹を敏む。夫れ政なる者は蒲蘆(ほろ)(難解)なり」と。

故に政を為すは人に在り。人を取るには身を以てし、道を脩むるには仁を以てす。

仁とは人なり、親を親しむを大と為す。義とは宜なり、親を親しむの(さい)、賢を尊ぶの等は、礼の生ずる所なり。

故に君子は以て身を脩めざるべからず。身を脩めんと思はば、以て親に事へざるべからず。親に事へんと思はば、以て人を知らざるべからず。人を知らんと思はば、以て天を知らざるべからず。

  仁とは人なり義とは宜なり政を為すには天を知るべし

前川佐美雄『秀歌十二月』七月 作者不詳

琴取れば嘆き先立つけだしくも琴の下樋に嬬や隠れる (万葉集巻七・一一二九)

琴の歌といえばこの歌が思い出される。詞書に「倭琴を詠む」とあるが、巻五の大伴旅人の「梧桐の日本琴一面」の序詞の「君子の左琴」でもわかるように、そうして何も君子でなくとも琴は女だけがひくのではなく、もともと祭祀に供される楽器だったのだから女もひけば男もひいた。

この歌は「雑歌」の部はいっているけれど挽歌に近い。「琴の下樋」は琴の胴のうつろなところをいうので、なき妻の琴を取り出してひこうとしたところが琴の胴に妻がかくれているような気がする。嘆きが先だってひいてもしらべをなさない、と妻に

先だたれた男の悲しみを歌いあげてあわれである。せめて妻の琴でもひいたなら気がまぎれようかと取り出したのだ。けれどもかえって悲しみを深からしめた。そういう思いもこめられていて、哀憐の情せつせつとして身に沁むものがある。万葉集中高く評価されてしかるべき一首である。

(略)これを最も推奨したのは佐藤春夫である。万葉集中の優秀歌として機会あれば口に筆にしていた。(略)それにしても同じ琴を歌っていても万葉と王朝ではやはり大きな違いが見られる。万葉のこれは直接的生理的であるのに対して、王朝のあれは主観的心理的だった。万葉のこれはわかりやすいが、王朝のあれは複雑だった。

2025年6月26日(木)

朝から暑い、じめじめと湿気もある。

ひさしぶりに青山文平である。文庫本になった『本売る日々』、単行本の時に読んでいるのだが、実に新鮮、また佳い、熱い。店は構えているが、本を行商している松月平助。この男が魅力的だ。また江戸時代に刊行されていた『芥子園画伝』、『古事記伝』ほか国学書、そして『群書類従』、最後に医書などを紹介する。そして最後に『佐野淇一口訣集』を出版することになり、それこそ蔦屋重三郎らの仲間入りだ。

  西側の舗道に遊ぶこすずめの飛びまた戻り豁達なりき

  わが歩く足先に小さな虫動く逃げるように這ふ真っ黒な虫

  部屋の内を老いをからかふやうに飛ぶ蛾のごときものあっちへこっちへ

  玉虫の玉になりたるを拾ひ蒐めしばしは手のひらに玉をころがす

「中庸」第六章三 子曰く、「武王・周公は、其れ(たっ)(こう)なるかな。夫れ孝とは、善く人の志を継ぎ、善く人の事を述ぶる者なり」と。

春秋にはその祖廟を脩め、その宗器を(つら)ね、その(しょう)(い)を設け、その時食を薦む。宗廟の礼は、昭穆(しょうぼく)を序する所以なり。(しゃく)を序するは、貴賤を弁ずる所以なり。事を序するは、賢を弁ずる所以なり。旅酬(りょしゅう)(しも)(かみ)の為にするは、賤に逮ぼす所以なり。(えん)(け¥もう)(よわい)を序する所以なり。その位を践み、その礼を行ない、その楽を奏し、その尊ぶ所を敬し、その親しむ所を愛し、死に事ふること生に事ふるが如くし、亡に事ふること存に事ふるが如くするは、孝の至りなり。

郊社(こうしゃ)の礼は、上帝に事ふる所以なり。宗廟の礼は、その先を祀る所以なり。郊社の礼・禘嘗(ていしょう)の義に明らかなれば、国を治むること其れ(こ)れを掌に示るが如きか。

  孔子が言ふには孝行とは父祖の志をよく継ぎてその事業をよくひきつぐものなり

前川佐美雄『秀歌十二月』七月 斎宮(さいぐう)女御(にょうご)

琴の音にみねの松風かよふらしいづれのをよりしらべ初めけむ (拾遺集)

「野宮に斎宮の庚申し侍りけるに松風夜琴に入るといふ題をよみ侍りける」の詞書がある。「野宮は斎宮だから嵯峨の野の宮(略)庚申は庚申待のことで、七月のかのえさるの日、今の夕四時から翌朝四時まで、帝釈と青面金剛、または三猴の象として猿田彦を祀って終夜行われた。この夜を守って眠らないため、人びとは歌を作ってつれづれごころを遊ばせた。その題が「松風夜琴に入る」というのであった。題そのものがすでに一つの詩である。至難の出題にさだめし人びとは当惑したと思われるけれど、これはまた何とさわやかなすがすがしい調べの歌のなのだろう。苦吟のおもむきはいささかもない。かき鳴らす琴の音の高まるのは、さつさつたる峰の松風が吹きかようからだという上三句を受ける第四句「いづれのをより」の「を」は、琴の「を」と峰の「を」とを掛けており、松風に人を待つの縁を持たせているなど、措辞が巧緻をきわめているだけでない。いいようもなく優しく美しく、またほのかな夢のような心のうちをにおわせる。つつましい恋ごころをほとんど絶え入るかのようにきつくそれとはなしにいい放っているなど、ことばに出して語りがたい思いを自分にいい聞かせ人にも訴えながら、さながらに放心したかのごとく、松風の音にあわせていよいよ高く琴をひいている。その琴の音が自分ひいている。その琴の音がまた人のひいている琴の音に聞こえてくる。人のひいている琴の音が自分のひいている琴のしらべにかよってきて、せつなくもまた空虚なようにも感じられるという思いをこめた、これはまことに複雑な幽艶象徴の叙情であって、同時代あまたある女流歌人の傑作中でもとくに出色の一首である。(略)後鳥羽院には認められていたようだが、一般にはそれほど知られていないわけである。品高くしずかな人柄であったようだ。

みな人のそむきはてぬる世の中にふるの社の身をいかにせむ (新古今集)

2025年6月25日(水)

朝、ちょっと曇っているだけで雨が降らない時間があったが、すぐに雨に。

  南側の駐車場には河原鶸わが足もとより少し跳びだす

  ザリガニの赤き姿がはさみ上げ迎へるやうなり俺を招くか

  用水の中をアメリカザリガニが招くがにしてはさみ動かす

  ザリガニが招くはこの世とは別のところそこはたれも知らず

『中庸』第六章二 子曰く、「憂ひなき者は、其れ唯だ文王なるかな。王季を以て父と為し、武王を以て子と為し、父これを作り、子これを述ぶ」と。

武王は、大王・王季・文王の緒を(つ)ぎ、(ひと)たび戎衣(じゅうい)して天下を(たも)ち、身は天下の顕名(けんめい)を失はず。尊は天子たり、富は四海の内に有ち、宗廟これを(う)け、子孫これを保つ。

武王は末に命を受く。周公は文・武の徳を成し、大王・王季を追王し、(かみ)、先公を祀るに天子の礼を以てす。(こ)の礼や、諸侯・大王及び士・庶人に達す。父は大夫たり、子は士たらば、(ほうむ)るに大夫を以てし、祭るに士を以てす。父は士たり、子は大夫たらば、葬るに士を以てし、祭るに大夫を以てす。(き)(も)は大夫に達し、三年の喪は天子に達す。父母の喪は、貴賤となく一なり。

  孔子が言ふ憂いなき者は文王のみ王季を父とし武王を子とす

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 天田愚庵 

ちちのみの父に似たりと人がいひし我眉の毛も白くなりにき (愚庵全集)

分かりやすい歌でこれも解説するほどのことはないが、もう一首ある。

かぞふれば我も老いたりははそはの母の年より四年老いたり

「癸卯感懐」と題する明治三十六年、死ぬ一年前の歌だが、十五歳の時生別したままついに生涯逢うことができなかった。明治元年戊辰兵乱のおり、薩長軍に抗戦して出陣し、平城(福島県)陥落と同時に父母妹らが行方不明となった。以来父母妹らを捜して全国をまわる。(略)この歌を作った時分は産寧坂の草庵をたたみ、伏見桃山に新庵をいとなんで住まっていた。いかにさがしてもむだだ、やめよと人からさとされても二十年尋ねまわった。生別した時の父は六十五歳、母は四十七歳。その父の眉の白かったように、ようやく自分のも白くなったと、父をしのんでは自分の老いをかこっているのだ。世の常のことでないだけに、読むものの心歎かせる。はなやかな明治和歌革新のその少し前に、いくばくかの関係をもつ愚庵がいる。これを忘れてはならない。

2025年6月24日(火)

朝、少しだけ雨だった。それから曇りだ。

高村薫『墳墓記』を読む。昔からの高村ファンだけれど、驚いた。古典の時代の文章と現在が重なり、独特の日本語が展開する。万葉集と藤原定家と、現在の能楽師とが混在して死と生の世界を繰り広げる。当然、万葉以来の歌、とりわけ定家の時代の歌、源氏物語、中世の能の言葉の世界と現代の言葉が混在し、さらに生と死が混じり合い一つの世界を繰り広げる。その言葉のエネルギーに圧倒された。前作の『土の記』が、高村文学の最高峰と思っていたが、これまた日本語の深部を彷徨し興味深いのだ。

  朝の雨にわづかに濡れる中庭に鵤二羽来て跳びはねるなり

  毎朝のリハビリ体操は律動し雲古よく出るわたしのうんこ

  毎朝に運動をする数かぞへリハビリ体操けふも済ませし

  腰上げて足踏み運動、反転し腕立て伏せしてけふのリハビリ

『中庸』第六章一 子曰く、「舜は其れ大孝なるかな。徳は聖人たり、尊は天子たり、富は四海の内を(たも)ち、宗廟これを(う)け、子孫これを保つ」と。

故に大徳は必ずその位を得、必ずその禄を得、必ずその名を得、必ずその寿を得。故に天の物を生ずるは、必ずその(さい)に因りて篤くす。故にその材に因りて篤くす。故に(た)つ者はこれを培ひ、傾く者はこれを(くつが)へす。

詩に曰く、「(か)(らく)の君子、憲憲たる令徳あり、民に宜しく人に宜しく、禄を天に受く。保佑(ほゆう)してこれを命じ、天よりこれを(かさ)ぬ」と。

故に大徳は、必ず命を受く。

  偉大なる徳をそなへし人なれば天命を受け天子とならむ

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 天田愚庵

生れては死ぬことわりを示すてふ沙羅の木の花うつくしきかも (愚庵全集)

「沙羅雙樹花開」と題する三首中のはじめの歌。あとの二つは

美しき沙羅の木の花朝咲きてその夕べには散りにけるかも

朝咲きて夕べには散る沙羅の木の花のさかりを見れば悲しも

いずれも佳作で優劣はないが、なお心ふかきはじめの歌をこそよしとするのである。

生あるものはかならず滅する。わかりきったことわりを、わかりやすい言葉で歌っている。たんたんとしてこだわりがなく、苦吟したような形跡もまったくないのに、「花のさかりを見れば悲しも」と読み終わるころには白い沙羅の花が見えてくるとともに、心のうちが切なくなる。身をつまされる思いがして涙ぐましくなるのである。

明治三十一年愚庵四十五歳、京都清水産寧坂の草庵にいるころの作だ。仏門に入り、林丘寺適水禅師の得度を受けてから十二、三年ぐらいたっている。(略)愚庵が生きていたならいかがいうか知らないけれど、しかしその宗教生活の中から生まれた歌にちがいなくとも、これは愚庵晩年の作なのだ。しずかな歌ではあるけれど、数奇な運命がしのばれる。ここまで来るのには波瀾万丈の生活があった。人生の苦難を一身に負って来たかのごとくである。それを知るなら、この沙羅の歌は涙なしには読みえない。