朝から細かな雨が降っている。昼遅く曇りになるようだが。
北方謙三『鬼哭の剣 日向景一郎シリーズ④』読了。糸魚川を舞台にして、森之助の成長が描かれる。景一郎が、圧倒的強さを持っているが、森之助はその途上にあり、お鉄との性交、十五歳にして成長していく姿がたくましい。角兵衛獅子の村とのかかわり、柳生流との闘いなど、息吐く暇もない物語の展開がたのしい。このシリーズも後一冊だ。
スマートフォンをじっと観ている若者のなにしてゐるか老いにはわからず
突然にスマートフォンをのぞきながら足踊らして無気味なりけり
ああ、おおと素っ頓狂な声をだすスマートフォンをいじくりながら
『論語』子張二〇 子貢曰く、「(殷の)紂(王)の不善や、是くの如くこれ甚だしからざるなり(それほどひどいわけではなかった)。(その悪事によって下流に落ちこんだので、後から事実以上の大悪人にされたのだ。是を以て君子は下流に居ることを悪む。天下の悪皆な焉れに帰す。(世界中の悪事がみなそこに集まってくるのだ。)」
紂王の不善やそれほどではない然るに悪事は下流に集まる
前川佐美雄『秀歌十二月』三月 前田夕暮
木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな (歌集・収穫)
明治四十二年、夕暮二十七歳の作、処女歌集『収穫』におさめられている。しかし実際は『収穫』よりも前に『哀楽』というパンフレットが出されており、そこに次のような秀歌がある。
春ふかし山には山の花咲きぬ人うらわかき母とはなりて
(略)両者は全然関係がない。関係があるのはその歌のしらべである。(略)ともに哀楽の感がある。「春ふかし」の歌が「木に花咲き」の歌となっていちだんとよくなったことがわかる。それは「山には山の花咲きぬ」だけではたよりないが、「木に花咲き」は言葉のやさしさに似ず、四句の「四月」と対応して、じつに自然に、またあざやかにそれがどのようにな木や花であるかをいわずして思い感じさせる。たくらみのない清い心だ。だからそのよろこびの日を待つ「なかなか」の思い、二つの詠嘆の助詞を含む「遠くもあるかな」の終わりまで、作者といっしょについて行ける、そうして長い深い息をつくのである。
この歌ははじめから終わりまで休止しない。めずらしく長い感じのする歌で、しらべがよい。それにほがらかで明るい感じの歌だが、どこか哀感に似るさびしさがただよっている。明星の観念的な歌に激しく抵抗しながら、なお甘い。ほどほどの甘さというのであろうか、それが夕暮独特の歌風としてもてはやされ、やがて若山牧水とともに牧水・夕暮時代をつくり、大正のはじめ、しばしの間であったが歌界に一時代を画した。世間はそれを短歌における自然主義と称したが、この歌は夕暮初期の代表作として聞こえが高い。
前川佐美雄の『秀歌十二月』の紹介をつづけているのだが、今日朝の新聞に、佐美雄の長男 佐重郎氏の訃報が出ていた。八十一歳。彼も歌人、数日前夢に見ただけに、より慎んでお悔み申し上げる。