1月19日(月)

朝曇り、すぐに晴れ。

  紅白の四分の三は分からねどその熱気あればか少しは愉し

  ミーシャと郷ひろみを紅白の華と思ふ。二〇二五年十二月三十一日

  新しき歌は分からず古株がよろし矢沢永吉、石川さゆり

『孟子』離婁章句上73 孟子曰く、「下位に居て、上を獲られずんば、民得て治む可からざるなり。上に獲らるるに道有り。友に信ぜられずんば上に獲られず。友に信ぜらるるに道有り。親に事へえ悦ばれずんば、友に信ぜられず。親に悦ばるるに道有り。

身に反して誠ならずんば、親に悦ばれず。身を誠にするに道有り。善を明らかならずんば、其の身に誠ならず。是の故に誠は、天の道なり。誠に思ふは、人の道なり。至誠にして動かざる者は未だ之れ有らざるなり。誠ならずして、未だ能く動かす者有らざるなり。

  何事も誠こそ大事。至誠にして、また誠ならずして人動かざる

川本千栄『土屋文明の百首』

にんじんは明日蒔けばよし帰らむよ東一華の花も閉ざしぬ 『山下水』

<にんじんの種は明日蒔けばいい、帰ることにするよ、夕方になって東一華の花も閉ざしてしまった。>

厳しい冬を越えた春、文明は色々な野菜を育てようとしていた。多くの農の歌の中で「にんじん」の語の響きが柔らかい。作業は終わらなかったが、まだ明日がある。という明るい口調。野の花が閉ざすことで時を知る、山村の生活。東一華は花びらに見える長い萼が真っ白で、裏がほのかに紫がかっている。閉じてうつむいた姿も愛らしい。定型にぴったりと収まった、愛誦性に満ちた歌だ。

ツチヤクンクフクフと鳴きし山鳩はこぞのこと今はこゑ遠し 『山下水』

<「ツチヤクンクウクウ」と鳴いた山鳩は去年のこと、今はその声は遠い。>

疎開してから一年近くが経った。去年豆を蒔いた時は山鳩に掘り返され、双葉もすっかり食われてしまった。その時の山鳩は「土屋君、空腹」と鳴いていた、と鳩にもからかわれた。去年の飢えた自分を大らかに笑っている。山鳩の目を通して自分を客観的に見、声を借りて「ツチヤクン」と戯画化する。その声が遠いということは、今年はいくらか気持ちに余裕があるのだろう。同じ山に生きるものとして、鳩に親しみも感じている。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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