朝、18度。しかし昼には27℃。でも晴れてよかった。昨日の雨は嫌だ。
かくも勝手に私用電話を傍受して権力側は反省もなし
二・二六事件にかこつけて北一輝、西田税の電話傍受す
われわれの携帯電話も傍受され詐欺電話とやらに利用さるるか
『孟子』公孫丑章句25-5 「敢て問ふ、夫子にか長ぜる」と。曰く、「我、言を知る。我善く、吾が浩然の気を養ふ」と。「敢て問ふ、何をか浩然の気と謂ふ」と。曰く、「言ひ難きなり。其のるや、以て直、養うて害すること無ければ、則ち天地の間に塞がる。其の気為るや、義と道とに配す。是無ければう。是れ集義の生ずる所の者にして、義襲うて之を取るに非ざるなり。行ひ心にからざること有れば、則ち餒う。我故に曰、『告子は未だ嘗て義を知らず』と。其の之を外にするを以てなり。
孟子がいふ浩然の気とはいひ難き、外にあるのではなく内にこそある
林和清『塚本邦雄の百首』
あはれ知命の命知らざれば束の間の秋銀箔のごとく満ちたり
『されど遊星』(一九七五)
知命ちは五〇歳。歌の製作時における塚本の実年齢とも一致する。ただその齢になっても自分は天命を知らないという。成句をもじるのは得意の手法だが、ここには塚本の人生観が表れているのかもしれない。
人間は悩みや迷いの果てに熟成し、完成してゆくという一般的な概念を拒み、美のきらめきを見せる一瞬に出会うことを欲し、その刹那的な美に満ち足りる気持ちを尊いものとする、という価値観であろうか。
坂井修一がこの歌を「空中に静止しているような下句」(『鑑賞・現代短歌七塚本邦雄』)と評しているのが印象深い。
散文の文字や目に零る黒霞いつの日雨の近江に果てむ 『されど遊星』
塚本短歌に使用される語彙は、それが俗語調であっても美意識によって吟味されたものであるのが基本であるが、この「散文の文字」は異色である。無味乾燥で面白味に欠ける。その無造作加減がうまく効果を発揮していて、これも塚本マジックかと思わせられる。
おそらく新聞などの活字が見づらい現実の出来事を基にしているのだろう。近眼から老眼へ、さらに乱視もあったのかもしれない。このリアルな感触の上の句があってこそ、下の句の詠嘆に至りつくのだろう。
上下句ともに、老境を意識する作者がそこにいる。