10月5日(日)

涼しいが、どうだろう。28℃まで上がる。

  公園のけやき大樹に繁りあふ枝葉を透し朝の陽が差す

  ひむがしの平野にはあやしき雲のゐるあやしきひかり湛へながら

  鳥の声なにかおしゃべりするごとくいくどもいくどもこゑ鳴き交す

『孟子』公孫丑章句25-8 「宰我・子貢は善く説辞を為し、冉牛・閔子・顔淵は善く徳行を言ふ。孔子は之に兼ぬ。曰く、『我 辞命に於ては、則ち能はざるなり』と。然らば則ち夫子は既に聖なるか」と。曰く、「悪、是れ何の言ぞや。昔者、子貢 孔子に問うて曰く、『夫子は聖なるか』と。孔子曰く、『聖は則ち吾能はず。我は学びて厭はず、教へて倦まざるなり』と。子貢曰く、『学びて厭はざるは、智なり。教へて倦まざるは、仁なり。仁且つ智なり。夫子既に聖なり』と。夫れ聖は孔子にも居らず。是れ何の言ぞや」と。

  孔子でさへみづから任じてはをらざるを聖人なるもの遠くに存す

林和清『塚本邦雄の百首』

水を切る敦盛蜻蛉水くぐる維盛蜻蛉 男ははかな 『天變の書』(一九七六)

この三首前に「サッカーの制吒迦童子火のにほひが矜羯羅童子雪のかをりよ」と同工異曲の歌がある。不動明王の脇侍として描かれる二体の童子は、国宝の仏教彫刻などでよく知られている。塚本はその名の響きや漢字表記も好みだったのだろう。島内景二は、「背高のっぽ」と「こんがり日焼け」したサッカー選手になぞらえた言葉遊びだと指摘している。

この歌は平家の公達ふたりの名のトンボを配した。ふたりとも海に関わる死に方をしたので、「水を切る」「水をくぐる」は納得される。結句はやや通俗的あるが……。

夢前川の岸に半夏の花ひらく生きたくばまづ言葉を捨てよ 『天變の書』

夢前川は歌枕あると同時に塚本眷恋の地名のひとつ。半夏の花は、夏の修行「夏安居」の中日に咲く仏教色濃い花であり、また塚本好みの素材でもある。

「夢の沖に」の歌で「ことばとはいのちを思ひ出づるよすが」と詠んだ塚本が、ここでは同じ「夢」を配して、生きたければ言葉を捨てろ、と詠む。矛盾ているようだが、そうではない。言葉を捨てて生きることなどできない歌人は、言葉によって生の証しをたてながら虚と実に引き裂かれ、半死半生の命を生きてゆくしかないのだ。まさに半分白い半夏生のように。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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