今朝も昨日と同じように涼しい。昼も同じ。
愛欲に溺れて何が愉しかろ地獄へ堕ちても悔いなかりけり
赤飯を喰ひすぎて地獄の古き構造をおもふ。夕べの雨過ぎてゆく
祝いもなく赤飯喰へばなんとなく心たのしも身体もはずむ
『孟子』公孫丑章句25-9 「、に之を聞けり。『子貢・子遊・子張は、皆聖人の一体有り。・・は、則ち体を具へて微なり』と。敢て安んずる所を問ふ」と。曰く、「く是をけ」と。
孟子、ちょっとその話はやめようではないか。われはたいへん不満足なり
林和清『塚本邦雄の百首』
沈丁花何ぞふふめる殺さるるもの殺すもののみの世界に 『天變の書』
珍しくストレートに断言した表現だが、こう言ってしまっては身も蓋もまいような気がするしかしあえて塚本は断言したのだ。どんな綺麗ごとを言っても生命ある限り、この世界は殺し殺されるだけ、殺すもの殺されるものだけ存在しているではないか、と。
冬が終わり冷たい空気の中でつぼみをふくらませる沈丁花よ。なぜこの殺戮の世に咲こうとするのか。
この歌が詠まれた七〇年代末期、中東紛争やアフガン侵攻などもあったが、むしろ今世紀の方が、なまなましく殺される世界が現前しているではないか。
秋風に思ひ屈することあれど天なるや若き麒麟の面 『天變の書』
塚本邦雄の代表作にして、解釈の分かれる歌のひとつである。私は、秋風に思い屈しているのは作者だと取る。初老の愁いに閉ざされる自分ではあるが、若者はのびやかに背高く、晴れ晴れと歩んでいる。そのさわやかな生命力を「天なるや」と尊く思い、「面」と親しみを込めて表したのだ。その根拠として、同歌集「文弱のわがこゑほそる六月のやみに突つたつ美男韋駄天」という同工異曲の歌をあげたい。思い屈する文弱のわれと麒麟・韋駄天の青年が対比されている。
類歌頻出は問題もあるが、読解のヒントにはなる。