今日もいい天気だ。
梨木香歩『家守綺譚』を読む。楽しかった。嬉しかった。軽やかに異常事態を語っている。各章それぞれに植物が標題になっている。そして起こる綺譚が、自然で、楽しいのである。これだけ読ませる本は、あまり無いのではないか。近藤ようこのマンガ版をぜひ読んでみたい。
十月の半ばころの話だ。
金木犀のつぶつぶの花の盛りなりこの木が香るとき死者が来るなり
金木犀の香りあり。我が亡き友を思うひと時
ことしは一ヶ月遅き金木犀。それでも健気に香りくるなり
『孟子』公孫丑章句下42 孟子 臣たることを致して帰る。王就いて孟子を見て曰く、「前日は見んことを願ひ得可からざりき。侍して朝を同じうすることを得て甚だ喜べり。今、又寡人を棄てて帰る。識らず、以て此に継いで見ることを得可きか」と。対へて曰く、「敢て請はざるのみ。固より願ふ所なり」と。他日、王、時子に謂ひて曰く、「我、中国にして孟子に室を授け、弟子を養ふに万鐘を以てし、諸大夫国人をして、皆矜式する所有らしめんと欲す。子蓋ぞ我が為に之を言はざる」と。時子、陳子に因つて以て孟子に告げしむ。
斉王の申すことを陳子告げむ孟子をして民の模範たらんと
藤島秀憲『山崎方代の百首』
担ぎだこ取れし今でももの見れば一度はかついでみたくなるのよ 『右左口』
いろいろな仕事に就いた方代、港湾で荷を担ぐ仕事も体験したらしい。担ぎだこが出来るまで働かなかったとしても、体が味わった辛さや痛みはいつまでも忘れない。その痛みをユーモアに転 じてゆく。おちゃらけて「かついでみたくなるのよ」と言ったりして。
「雀百まで踊りを忘れず」と言う。幼い時分からの習慣は老いてもなかなか抜けないという意味だが、方代は切り替えが得意な人ではなかったと思う。過去を引きずってしまうタイプ。だから、広中淳子をいつまでも思い続けた。純粋と言えばとても純粋なのだ。
夜おそく出でたる月がひっそりとしまい忘れし物を照らしおる 『右左口』
全てを言わない。百あるところを七十くらいで歌いとどめて、あとは読者に想像してもらう。読者は残り三十をあれこれ想像して楽しむ。
いかに省略するかが歌を作る醍醐味、いかに省略を埋めるかが歌を読む醍醐味。短歌の楽しみとは、省略を巡る作者と読者の攻防にある。
この歌も七十どまり。三十が省略されている。「しまい忘れし物」とは何なのだろう。すごく大事なものなのか、そもそも目に見えない精神的なものではないのか?私は下駄とかバケツとか、他愛のない物を想像している。