今日も晴れ。いい天気だ。
ひさびさの日出のひかり生きるべきなりと言ふが如くに
空の雲あかね色して明けてゆく雨の日続くその後の朝
朝のひかりの中をからす二羽上下に飛びて空を翔びゆく
『孟子』公孫丑章句下44-2 曰く、「夫の尹士は悪んぞ予を知らんや。千里にして王に見ゆるは、是れ予が欲する所なり。遇はざるが故に去るは、豈予が欲する所ならんや。予已むを得ざればなり。予三宿して昼を出づるも、予が心に於て猶ほ以て速やかなりと為す。王庶幾くは之を改めよ。王如し諸を改めんか、則ち必ず予を反さん。夫れ昼を出でて、而も王予を改めよ。王如し諸を改めんか、則ち必ず予を反さん。夫れ昼を出でて、而も王予を追はざるなり。予然る後浩然として帰志有り、予然りと雖も豈王を舎てんや。王由ほ用て善を為すに足れり。王如し予を用ひば、則ち豈徒斉の民安きのみならんや。天下の民挙安からんや。王庶幾くは之を改めよ。予日々に之を望めり。予豈是の小丈夫の若く然らんや。其の君を諫めて、受けられざれば、則ち怒り、悻悻然として其の面に見れ、去れば則ち日の力を窮めて、而して後に宿せんや」と。尹士之を聞きて曰はく、「士は誠に小人なり」と。
孟子がことの経緯を語らへば尹士納得す「誠に小人なり」
藤島秀憲『山崎方代の百首』
こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり 『右左口』
筋を通して読み解こうとすると、読者がしどろもどろになってしまう。あたたかい思いをすれば普通は、しどろもどろが治まりそうなものだ。でもこの歌は逆にしどろもどろが発生してしまっている。
なぜなのどろう?
あたたかさに慣れていないからなのか?しかし周囲にはあたたかい人が多くいた。だからたぶん、あたたかくされることへのいたたまれなさなのだと思う。こんなにあたたかくしてもらっても何のお返しもできないのですよ……あたたかさに恐縮する方代である。
川崎の夕方の町にあらわれて小ざかななどを見て廻れるよ 『右左口』
見て廻れる人は方代である。が、もう一人の自分がいて離れたところから自分を動画撮影しているような歌いかたをしている。カメラはときに方代の横顔を、ときに小魚を、そしてときには町全体を俯瞰するように写している。これだけで小編の映画になりそうな映像性のある作品だ。
「夕べの町に」とすれば七音に収まるのに、字余りしてまで「夕方の町に」を選んでいる。生臭い生活感が夕べでは絶対に出ない。だから夕方に拘った。言葉を大切にした結果だ。