11月20日(木)

晴れ。

  われもまた腐臭を発する老人なり鼻腔を開き臭ひ嗅ひでる

  わが腐臭後ろに曳きて歩くなり背後よりくる人皆怪訝

  怪訝なる顔してわれを追越せる人よ聞きたまへ明日の自分ぞ

『孟子』縢文公章句上47 (とう)の文公 世子(せいし)為りしとき、将に楚に(ゆ)かんとし、宋に(よぎ)りて孟子を見る。孟子 性善を(い)ひ、言へば必ず堯舜を称す。世子 楚自り反りて、復た孟子を見る。孟子曰く、「世子吾が言を疑ふか。夫れ道は一のみ。成覵(せいけん) 斉の景公に謂ひて曰く、『彼も丈夫なり、我も丈夫なり。吾何ぞ彼を畏れんや』と。顔淵は曰く、『舜何人ぞや。予何人ぞや。為す有る者亦(かく)(ごと)し』と。公明(こうめい)(ぎ)曰く、『文王は我が師なり。周公豈我を欺かんや』と。今、縢は長を絶ち短を補はば、将に五十里ならんとす。猶ほ以て善国と為す可し。書に曰く、『若し薬瞑眩(めんげん)せずんば、(そ)疾瘳(やまひい)えず』と」

  孟子、縢の文公がまだ世子の時にいふいま縢は小さくも立派な国になる

藤島秀憲『山崎方代の百首』

汲みおきの手桶の底からのぞきおるおのれの頬に手を当ててみる 『右左口』

手桶の水に自分の顔が映っている。頬に手を当ててみたら、水に映る自分も頬に手を当てた。簡単に言ってしまえばそれだけのことなのだが、方代のマジックにかかると、何もかもが逆転し、妖しく不思議な世界に生まれ変わる。

手桶を覗いているはずなのに手桶の底にいる自分に覗かれている。手桶の外にいる自分と手桶の底に入る自分がいて、どちらが本当の自分なのか自分自身でもわからなくなってくる。まるで落語の「粗忽長屋」の世界。自分を見失いつつ、自分を捜し求めている。

右の眼をうっすらあけて見ておれば紙の袋が立ちあがりたり 『右左口』

右眼を失明している方代である。だから、うっすら開けようが、ぱっちり開けようが、本当は何も見えない。でも、見えてくるものがある。ただそれは、父と母の姿でもなく、ふるさとの景色でもなく、紙の袋なのだ。空っぽなのか、中に何か入っているのか。得体の知れない存在だ。

当然のごとく「紙の袋が立ちあがりたり」は暗喩である。何かなのである。中身の見えない新しい時代が起こっている……ということかも知れないが違うかも知れない。

読者の数だけ答えがある。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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