晴れ。
われもまた腐臭を発する老人なり鼻腔を開き臭ひ嗅ひでる
わが腐臭後ろに曳きて歩くなり背後よりくる人皆怪訝
怪訝なる顔してわれを追越せる人よ聞きたまへ明日の自分ぞ
『孟子』縢文公章句上47 縢の文公 世子為りしとき、将に楚に之かんとし、宋に過りて孟子を見る。孟子 性善を道ひ、言へば必ず堯舜を称す。世子 楚自り反りて、復た孟子を見る。孟子曰く、「世子吾が言を疑ふか。夫れ道は一のみ。成覵 斉の景公に謂ひて曰く、『彼も丈夫なり、我も丈夫なり。吾何ぞ彼を畏れんや』と。顔淵は曰く、『舜何人ぞや。予何人ぞや。為す有る者亦是の若し』と。公明儀曰く、『文王は我が師なり。周公豈我を欺かんや』と。今、縢は長を絶ち短を補はば、将に五十里ならんとす。猶ほ以て善国と為す可し。書に曰く、『若し薬瞑眩せずんば、厥の疾瘳えず』と」
孟子、縢の文公がまだ世子の時にいふいま縢は小さくも立派な国になる
藤島秀憲『山崎方代の百首』
汲みおきの手桶の底からのぞきおるおのれの頬に手を当ててみる 『右左口』
手桶の水に自分の顔が映っている。頬に手を当ててみたら、水に映る自分も頬に手を当てた。簡単に言ってしまえばそれだけのことなのだが、方代のマジックにかかると、何もかもが逆転し、妖しく不思議な世界に生まれ変わる。
手桶を覗いているはずなのに手桶の底にいる自分に覗かれている。手桶の外にいる自分と手桶の底に入る自分がいて、どちらが本当の自分なのか自分自身でもわからなくなってくる。まるで落語の「粗忽長屋」の世界。自分を見失いつつ、自分を捜し求めている。
右の眼をうっすらあけて見ておれば紙の袋が立ちあがりたり 『右左口』
右眼を失明している方代である。だから、うっすら開けようが、ぱっちり開けようが、本当は何も見えない。でも、見えてくるものがある。ただそれは、父と母の姿でもなく、ふるさとの景色でもなく、紙の袋なのだ。空っぽなのか、中に何か入っているのか。得体の知れない存在だ。
当然のごとく「紙の袋が立ちあがりたり」は暗喩である。何かなのである。中身の見えない新しい時代が起こっている……ということかも知れないが違うかも知れない。
読者の数だけ答えがある。