晴れ。
有隣堂本厚木店の地下へゆくにスロープがあると誰も教へず
何度目かの転倒は強く肩を打つ大丈夫ですかと優しき声す
大丈夫、大丈夫と言ひて立ちあがる肩の痛みを堪へてぞ立つ
『孟子』縢文公章句上48 縢の定公薨ず。世子 然友に謂ひて曰く、「昔者 孟子嘗て我と宋に言へり。心に於て終に忘れず。今や、不幸にして大故に至れり。吾、子をして孟子に問はしめ、然る後事を行はんと欲す」と。然友 鄒に之き、孟子に問ふ。孟子曰く、「亦善からずや。親の喪は固より自ら尽す所なり。曾子曰く、『生けるには之に事ふるに礼を以てし、死せるには之を葬るに礼を以てし。之を祭るに礼を以てす。孝と謂ふ可し』と。諸侯の礼は吾未だ之を学ばざるなり。然りと雖も吾嘗て之を聞けり。『三年の喪、斉疏の服、飦粥の食は、天子自り庶人に達し、三代之を共にす』と。
親の喪は三年、斉疏の服、飦粥の食、天子から庶人まで同じことをす
藤島秀憲『山崎方代の百首』
酒を売る店のおかみとたちまちに親しくなりて居を変えてゆく 『右左口』
読み方は二つ。店の近くに引っ越す。さすれば頻繁に店に通えてもっと親しくなれる。これが一つ。
店からは遠い場所に引っ越した。さすれば会うこともなくなり、おかみとの縁も切れる。これがもう一つ。
私は後者で読んだ。深入りは避けたい。色恋は荷が重すぎる。だから親しくなった途端に身を引く。自分には恋をする資格がないと思っているのだ。たちまち親しくなり、たちまち別れる。
内容は相当重いのだが、軽い歌に仕上げてしまう。深刻ぶるのは苦手な方代。
おもむろに茶碗のふたをそっと取りすすれどだれもいるはずがない 『右左口』
方代の歌の素材はそう多くない。身の回りにあるもの(その最たるものは自分自身なのだが)が素材の中心。ゴッホがひまわりを何枚も描いたように。草野心平が蛙を生涯のテーマとしたように。
「おもむろに茶碗のふた」の歌が『右左口』にあと二首ある。蓋をとる行為をもつて失望と羞恥を歌っている。<おもむろに茶碗の蓋をとっている吾のうしろを除き給うな><なんという不思議なことだおもむろに蓋とって茶をのんでいる>