昨夜、少し雨が降ったのか、地面が濡れていたが、朝から概ね晴れている。
ただいまの声を掛ければ、おかへりの妻の声なり。二人の部屋に
北側の空は晴れ、南側は雲多く雨降るか晴れかの境を歩く
けやき樹の中に隠りて鳴く声に白色鶺鴒樹に紛れゆく
『孟子』縢文公章句上48-3 然友復た芻に之きて孟子に問ふ。孟子曰く、「然り。以て他に求む可からざる者なり。孔子曰く、『君薧ずれば冢宰に聴せ、粥を歠り面は深墨、位に即きて哭すれば、百官有司、敢て哀しまざる莫きは、之に先んずればなり。上、好む者有れば、下、必ず焉より甚だしき者有り。君子の徳は、風なり。小人の徳は、草なり。草之に風を尚ふれば、必ず偃す』と。是れ世子に在り」と。
君子は風、小人は草。風吹けば草倒る。つまり世子によりてなり
藤島秀憲『山崎方代の百首』
こんなところに釘が一本打たれいていじればほとりと落ちてしもうた 『右左口』
この歌は方代自身に語ってもらうのがよさそうだ。以下『青じその花』より。
別に打たれている釘をみて発想したわけではない。釘のところに立っていたら恐らく歌にはしなかっただろう。目の前にモノを置いてデッサンとやらをやるような心意気は昔からないし、これからもやらないだろう。錆びて腐っていたからという描写もこの歌にはしていない。ただ、「いじれば落ちた」というだけのつまらぬことに興があっただけである。
耳のない地蔵はここに昔より正しく坐してかえりにられず 『右左口』
方代にとって短歌とは、大仏でもなく、本尊でもなく、道端に立つ地蔵だったのだろう。ありがたく崇められなくても、常に身近に存在することが大事なのだ。『青じその花』で次のように書いている。
歌が自分の生命だとか、文学だとかいう言葉をちょいちょい聞くことがあるが、本当にそう、思っているのかしらん。私にはどうも大変だなあと同情する。歌は手軽であるから作るのだ。
でも、方代こそが一番に短歌を自分の生命と感じていたはず。やってることと言っていることが違うじゃないか。