朝から晴れだ。
もうとうに役に立たざるわがペニスただ小さきが垂れてゐるなり
役立たぬゆゑになくなればよしとおもふとはいへ簡単に無くならぬもの
あらあら不思議。夢なれば役に立つ女もをりき
『孟子』公孫丑章句下36 孟子 平陸に之き、其の大夫に謂つて曰く、「子の持戟の士、一日にして三たび伍を失はば、則ち之を去るや否や」と。曰く、「三たびを待たず」と。
孟子、平陸に行き長官に、三度職務を怠るに辞めさせると問ふ
藤島秀憲『山崎方代の百首』
今日はもう十一月の二十日なり桐の梢空に桐の実が鳴る 『方代』
この歌も『右左口』に収録された際に<今日はもう十一月の二十日なり桐の梢に桐の実が鳴る>と推敲されている。圧倒的に読みやすくなったのだが、単なる情景描写になってしまった気がして、いささか残念。「空」のある方が空間が広がる。
十一月二十日は何の日だろう。たとえば十一月二十五日は母の祥月命日。今年もまた不満足な生活の中で母の忌を迎えることを嘆いているのだろうか。
一見意味のない日付も、こうして歌われると何か意味があるように感じる。余白の効果と言ってよい。
ふかぶかと雪をかむれば石すらもあたたかき声をあげんとぞする 『方代』
「石」は方代短歌の重要なキーワード。これからもたくさん出て来る。
人に踏まれても動けないし、声も上げられない。弱いものの代表格だ。でも、肝が据わっていて、不要なように見えて、しっかり役立っている。
この歌、実は『青じその花』では失恋の歌として語られる。石になって失恋の痛みに耐えているのだ。
恋については後々書くことになるが、相手は広中淳子。和歌山に住む彼女に手紙を送り続けたものの、片思いに終わった。