晴れ。スーパームーンの翌々日、西空高く月が残っている。
葉のみにて花も実もつかず石榴の木少しひょうげて夜半踊りだす
花も実もつけずに一夏すごしたり葉々の緑のただ濃くなりて
三本の石榴それぞせんじょうでれに花も実もつけず葉々を濃くする
『孟子』公孫丑章句下38 孟子 斉に卿為り。出でて縢に弔す。王 蓋の大夫王驩をして輔行為らしむ。王驩朝暮に見ゆ。斉縢の路を反し、未だ嘗て之と行事を言はざるなり。公孫丑曰く、「斉卿の位は、小と為さず。斉縢の路は、近しと為さず。之を反して未だ嘗て与に行事を言はざる何ぞや」と。曰く、「夫れ既に之を治むる或り。予何をか言はんや」と。
孟子言ふだいたいに使命のことは処理する者ありわれ何をか言はん
藤島秀憲『山崎方代の百首』
死に給う母の手の内よりこぼれしは三粒の麦の赤い種子よ 『方代』
死の間際に麦の種子を握っていることは考えにくいのでフィクションだろう。
三粒が意味するところは、父・姉・方代。母から見れば、夫・娘・息子。つまり残してゆく三人。母の無念と心配が比喩的に語られた一場面だ。
母は十九歳の時に馬の背に揺られ、鶯宿峠を越えて嫁いできた。結婚式の当日、花婿は開拓地の見分に行くと出かけて留守。花婿不在の結婚式が行われた。
花婿が戻って来たのは二か月半後。第一声は「今けえったど」。
まっくらな電柱のかげにどくだみの花が真白くふくらんでいる 『方代』
そもそも全ての短歌に言えるのだが、実景の中には作者の真理が潜んでいる。方代の短歌は心理の存在が顕著で、潜むというよりも漂っていると言った方が良い。
この歌も、失意の日々を送る中で希望をついに見つけたときの心境がくっきり浮かび上がっている。ただ暗いだけではなく「まっくら」、単に白いだけではなく「真白」、
暗さと白さが強調されているから余計に失意と希望の落差が明確になる。
希望を象徴するドクダミが群れ咲く様子を「ふくらんでいる」とする。希望の花に相応しい言い回しだ。