雨、雨、雨……そして寒い。
今村翔吾『じんかん』を読む。文庫本で五八〇ページになる時代小説。松永久秀の少年期から滅びまで息を吐かせぬといいながら、読み終えるまでには、随分時間がかかっている。しかし最後は、少し涙ぐんだ。松永久秀が、大和に城をもっていたこと、寺社勢力と対抗していたこと、筒井家と争っていたことなどは知っていたが、手に汗握る面白さであった。久秀の生涯を語る織田信長が、なんだか親しく感じられてくる。
斑雲があかねの色に明けてゆく公園のけやきの木もあかね色
太陽は大山山頂付近も朝焼けの色に染めたり。明けてゆくなり
だんだらの雲あかねの色に染め十月中旬の空明けてゆく
『孟子』公孫丑章句下39-2 曰く、「古は棺椁度無し。中古は棺七寸。椁之に称ふ。天子自り庶人に達す。直に観の美を為すのみに非ざるなり。然る後人の心を尽すなり。得ざれば以て悦を為す可からず。財無ければ以て悦を為す可からず。之を得ると財有ると、古の人皆之を用ふ。吾何為れぞ独り然らざらん。且つ化するときの比まで、土をして膚に親しまむる無きは、人の心に於て独り恔きこと無からんや。吾之を聞く、『君子は天下を以て其の親に倹せず』と。
孟子は言ふ君子は親の喪に倹約などはせぬものである
藤島秀憲『山崎方代の百首』
生れは甲州鶯宿峠に立っているなじゃもんじゃの股からですよ 『右左口』
ここからは第二歌集『右左口』に入る。奥付は昭和四十八年十二月二十五日になっているが、実際には四十九年に刊行。方代は五十九歳だった。
このころの方代は短歌総合誌に五十首を発表するなど歌人としての地位を固めていて、東京の私学会館で行われた出版記念会には約八十名が出席した。
鶯宿峠のなんじゃもんじゃはリョウメンヒノキ。樹齢五百年と言われていた。明治二十四年、この木の下を方代の母となる二十一歳のけさのが馬の背に揺られて通った。峠を超えた先に嫁いでゆくためである。
何のため四十八年過ぎたのか頭かしげてみてもわからず 『右左口』
実にトボケタ歌である。何のために生きているのか、自分の存在理由を考えてみることは、私にもある。だが普通は頭を抱えることはあっても、頭をかしげない。頭を抱えて真剣に人生を考えていると方代に笑われてしまいそう。
「君はちょっと考えすぎだね。もっと肩の力を抜いて気楽にいきなさいよ」と方代に諭されているような歌。
方代は自分の年齢をよく歌った。何歳になったけど、相変わらずダメに生きています……そんな歌い方が大方である。