今日も寒いが晴れている。
階段で転びさうになりながら地下の通路を右手に曲がる
数百歩あるけば中村屋の地下売場、カレーパン、クリームパン、どら焼き二つ
ほんたうはボルシチパンを書いたきにボルシチパンは売り切れならむ
『孟子』離婁章句下93 孟子曰く、「罪無くして士を殺さば、則ち大夫以て去る可し。罪無くして民を戮せば、則ち士以て徒る可し」
罪なき者を殺し、罪なき民を殺戮せばただちに他国へ逃るべし
『梁塵秘抄』植木朝子編訳
常に消えせぬ雪の島 螢こそ消えせぬ火はともせ 巫鳥といへど濡れぬ鳥かな 一声なれど千鳥とか (今様・一六)
【現代語訳】雪とはいっても、常に消えることのない壱岐の島。消えないといえば、蛍こそは消えない火を灯しているね。しとと―びしょ濡れ―という名前なのに全然濡れていない鳥もいるね。一声なれど千鳥とか。
【評】「雪の島」に「壱岐の島」を掛け、「巫鳥」(ホオジロ科の小鳥、ほおじろ、あおじ、ほおあか、くろじなど類似の鳥の総称)に副詞「しとど」を掛けた言葉遊びの歌。結句では数字の「一」と「千」とを対比的に捉え、全体として名実そぐわぬ洒落を楽しむ。
巫鳥は、従来の伝統的な和歌に詠まれることはほとんどなかった鳥であるが、今様の流行期から用例が現れはじめる。
鳥を軒に差したりけるが、夜雨に濡れけるを見てよみ人知らず
雨降れば雉もしととになりにけり(雨が降ったので軒につるしてある雉も巫鳥になってしまった―ぐっしょり濡れてしまった)
鵲ならばかからましやは(笠を持つ鵲ならばこんなに濡れることもあるまいに)
(『金葉和歌集』雑・連歌)
雨降れば垣根の巫鳥そぼ濡れてさへづり暮らす春の山里(『為忠家卿初度百首』源仲正)
(雨が降って垣根にとまった巫鳥がびしょ濡れになって、一日中囀っている春の山里よ)
これらの和歌では、巫鳥が濡れそぼった鳥として詠まれているが、鎌倉時代以降の和歌では、巫鳥と「濡れる」ことの連想関係は全く出てこなくなる。名前と実際の重なり、または食い違いといった言葉遊びに興じる時代の好みがよく反映されていると言えよう。