2月17日(火)

朝から曇り空。寒い。

  打てば響く、響けば討たむ戦国の世のごとし短期決戦、総選挙戦

  金のことばかりに費やす衆議院選挙戦、大局観などひとつなしも

  嘘言に聴こえてしまふ選挙戦すこしは良きこと宣言すべし

『孟子』離婁章句下100 孟子曰く、「大人なる者は、言必ずしも信ならず、行ひ必ずしも果ならず、惟義の在る所のままなり」

  大人はただに義の在ることを求む言も行くも信ならずして

『梁塵秘抄』植木朝子編訳

観音(かわんおん)大悲(だいひ)(ふね)(いかだ) 補陀落(ふだらく)(かい)に浮かべたる 善根(ぜんこん)求むる人しあらば 乗せて渡さむ極楽へ
(法文歌・仏歌・三七)

【現代語訳】観音菩薩は舟筏のようなもの。補陀落海に浮かんだことよ。善根を求める人がいたならば、乗せて極楽浄土へ渡そうというわけで。

【評】観音の慈悲を舟筏に譬えた一首。「大悲」は衆生に対するいつくしみ、慈悲の意で、その持ち主である観音を敬っていう。「補陀落海」は観音の住む補陀落山をとりまく海。「善根」は善い果報をもたらすような行為のこと。

苦界に沈む衆生を救う仏・菩薩を舟や筏に譬えることは経典や和讃などにも多く見られるが、平安時代中期以降、熊野の那智の浜から、死を覚悟の上で補陀落山を目指して船出する補陀落渡海が盛んに行われたため、補陀落海に浮かぶ船や筏は、単なる比喩としてではない、実感を伴った表現として捉えられたものと思われる。    当該今様では、人の導かれる先は補陀落山ではなく、阿弥陀の浄土である極楽となっている。観音菩薩は勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍であるから、それもうなずけるところである。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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