雨、雨、雨……
青年将校の身を弄ぶ盗聴の真実いまも録音盤に
青年将校らを騙さんと電話を傍受する卑怯なりとりまく戒厳部隊
いつの世も若きがつぶされ生き残るは老人ばかりせんなきものよ
『孟子』公孫丑章句25-4 曰く、「敢て問ふ、夫子の心を動かさざると、聞くことを得可きか」と。「告子は曰く、『言を得ざれば、心に求むること勿れ。心に得ざれば、気に求むること勿れ』と。心に得ざれば気に求むること勿れとは可なり。言に得ざれば心に求むること勿れとは不可なり。夫れ志は気のなり。気は体の充てるなり。夫れ志至り、気は次ぐ。故に曰く、『其の志を持し其の気を暴すること無かれ』と」「既に志至り、気は次ぐと曰ひ、又其の志を持し其の気を暴すること無かれと曰ふ者は何ぞや」と。曰く、『志なれば則ち気を動かし、気壱なれば則ち志を動かせばなり。今、夫れく者のるは、是れ気なり。而るに反って其の心を動かす」と。
気が充てばその心うごかしはっとしてつまづかざるや
林和清『塚本邦雄の百首』
靑き菊の主題をおきて待つわれにかへり來よ海の底まで秋 『蒼鬱境』(一九七二)
定家は承久の乱へ走った後鳥羽院をどう見たのか、三島由紀夫の死の衝撃を受けた自らと重ね合わせたのだろう。そして、いきなり出奔を試みた藤原良経への定家の思いはいかようであったのか。塚本と岡井の七歳差は、定家と良経の年齢差とほぼ重なりあう。この歌の主題はまさに岡井への呼びかけである。結句の豊かなイメージは「波わけて見るよしもがなわたつ海の底のみるめも紅葉散るやと」(文屋朝康)など、古典和歌に由来する。
ただこの歌集、小説と短歌の競演や頭韻などの言語遊戯、いささか凝りすぎて食傷気味にさせられる。
柿の花それ以後の空うるみつつ人よ遊星は炎えてゐるか 『森曜集』(一九七四)
「序数歌集」という呼称を塚本は特に重要視し、間奏歌集や小歌集とは区別していた。それだけ多くの歌集が政田岑生の裁量により、さまざまな機会に出版されたのだ。一九七四年、塚本邦雄書展を記念して編まれた『森曜集』所収のこの歌は、自賛歌の一つでもある。揮毫する時にひと際映える歌なのであろう。
柿の花が散ると梅雨、この星に燃えるべきものはあるのか、と問う。ドメスティックな柿からSF的な遊星への飛躍。映画『パリは燃えているか』を連想させて、結句六音で字足らず。自在な歌心が発露する。