2025年3月13日(木)

今日は、暖かくなるらしい。久しぶりの太陽がある。

昨日「枯木のある風景」の感想を書いたが、講談社文芸文庫版・宇野浩二『思い川/

枯木のある風景/蔵の中』を読んだ。他の二編も、じつによかった。三十年に及ぶ小説家牧と芸妓三重との真の恋愛を描いて、滋味すら感ずる作品は当然ながら、宇野浩二の代表作であり、読売文学賞を受賞し、さらに出世作である『蔵の中』も奇妙な饒舌感があって圧倒された。

  欠片ほど貴重なものがあるものかかけら残して滅ぶるものか

  人の欠片を拾い蒐めて人があるわれも欠片の集積ならむ

  人のかけら、とりわけわれの欠片を宙めがけ投げて棄てたり

『論語』季氏六 孔子曰く、「君子に侍するに三愆あり。言未だこれに及ばずして言ふ、これを躁と謂ふ。言これに及びて言はざる、これを隠と謂ふ。未だ顔色を見ずして言ふ、これを瞽と謂ふ。」

君子に侍して三種のあやまち。まだいうべきでないのに言うのは「がさつ(躁)」、言うべきなのに言わないのは「隠す」、君子の顔つきも見ないで話すのを「盲(瞽)」という。

  君子に侍する時の注意を述べる孔子、弟子を信ずることなかりしか

『古事記歌謡』蓮田善明訳 八六  カルノ太子

カルノ太子は、伊予の温泉に流された。流された時の歌、
(あま)(と)ぶ 鳥も使ぞ         大空翔る鳥さえも 二人の使となりましょう
(たづ)(ね)の 聞えむ時は       鶴の鳴く音を聞いたらば
わが名問はさね          尋ねて下さい わたくしを

この三首(八四・八五・八六)は「天田振(あまだぶり)」である。

  天を飛ぶ鳥の鳴く音を聞く時は二人はここに居るとぞ思へ

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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