2025年4月19日(土)

今日もいい天気で、暖かくなる。

北方謙三『絶影の剣 日向景一郎シリーズ③』読む。景一郎がまた不気味なほどの活躍をするのだが、ほとんど無駄なことは語らない。しかし、滅法剣は強い。今回は医師丸尾修理が中心になる。修理を囲むようにして景一郎、森之助らが奥州・一関の山村における村の滅亡、謎解きにあたる。剣も圧倒的だが、幕府に対する修理の対応がなんともいえずおもしろいし、そこにエロスも加わりちょっと言いようもない。

  花水木に白き花咲くこの花の咲き盛るころ父死ににけり

  父の死後いっせいに咲く花水木ささげるごとく天に向き咲く

  この花の咲くとき少し涙ぐむ父よ父よこの花水木見よ

『論語』微子三 齊の景公、孔子を待つに曰く、「季子の(ごと)きは則ち吾能はず。季孟の間を以てこれを待たん。曰く「吾老いたり、用うること能はざるなり。」孔子(さ)る。

斉の景公が孔子を待遇するについて、魯の上卿である季氏のようにはできないが、季子と孟氏との中間ぐらいで待遇しよう。」といったが、やがてまた「わたしも年をとった。用いることはできない。」といった。孔子は斉から旅立った。

  斉の国の景公がいふ孔子の待遇しかれども用いることできず孔子は去りき

前川佐美雄『秀歌十二月』一月 与謝野晶子

君がある西の方よりしみじみと憐れむごとく夕日さす時 (『白桜集』)

夫寛(鉄幹)に死別して、あとにのこった晶子のある日の述懐である。西の方はむろん西方浄土で、そこに亡き夫がいる。そこからひとりとなった自分をあわれむように夕日射すというので、普通人と同じ悲しみしている。それでよいのだし、其れだから心にしみわたる。(略)

「夕日射す時」はまだ述懐していない。述懐はこれから後にはじまるので、その中には今いったようなことどもが含まれる。それほどこの結句は重要な役を果たしている。同じようなつかい方はだれでもするが、そこはさすがに晶子である。と思われるとともに、そんなことにはこだわりなく、歌いたいように歌っている。

この歌でやはり晶子だと思わせるのは初句だ。他のものなら「君がゐる」または「君のゐる」くらいのところ。これは晶子の歌風のよい方面、その丈高さを象徴している。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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