一日曇りのようだ。
わたくしの背よりも高い垣飾る白こつつじの花あまた咲く
伊予柑を両手に割きてそのしづく甘きをすするわれにあらずや
あけぼの杉はさみどり色に花水木は葉と白き色花盛りなり
『論語』微子八 逸民は、伯夷・叔斉・虞仲・夷逸・朱張・柳下恵・少連。孔子曰「其の志を降さず、其の身を辱しめざるは、伯夷・叔斉か。孔子曰く、「其の志降さず、其の身を辱めざるは、伯夷・叔斉か。柳下恵・少連を謂はく、「志を降し、身を辱しむ。言 倫に中り、行 慮の中る、其れ斯れのみ。」虞仲・夷逸を謂はく、「隠居して放言し、身 清に中り、廃 権に中る。我れは則ち是れに異なり、可も無く不可も無し。」
逸民は伯夷・叔斉にのみにするわれは道義に従ひ進退自在なり
前川佐美雄『秀歌十二月』二月 長田王
うらさぶる心さまねしひさかたの天の時雨の流らふ見れば (万葉集巻一・八二)
前の歌は雪曇を詠んでおり、これは時雨を詠んでいる。(略)これは直接的だ。たまらなそうにそのさびしさを訴えている。「うらさぶる心さまねし」の上二句がそれだが、この「うらさぶる」は「心さびしい」の意。しかし、すさびはてて荒涼たる、または魂の脱け落ちた心の状態、そういう意味合いも持つ。「さまねし」の「さ」は接頭語、「まねし」は多いとか頻りなどの意に近い。この上二句を受ける三句「ひさかたの」は天の枕詞として、次の四句を引き出す役を持つとともに、瞬時一息入れて上二句の上に跳ね返って来る下二句、その「見れば」を待っている。ごく単純な内容の歌だけれど、作者の息づかいがそのままこのような倒語の形となってあらわれたので、その調べがいいようもなくよい。私の四十年来の愛誦歌である。