ずっと曇りだが、明るくなったり、暗くなったり。
西洋たんぽぽの群がるところを覗きこむああこの幸福はかへがたきもの
一年のうちに数日あるかなきかの良き日なりもの考へて生きむと思ふ
病ひのことも弴と忘れてあばれたるけやき大樹の真下に遊ぶ
『論語』微子九 大師摯は斉に適く。亜飯干は楚に適く。三飯綾は蔡に適く。四飯缼は秦に適く。鼓方叔は河に入る。播鼗武は漢に入る。少師陽・撃磬襄は海に入る。
殷の末、音楽も乱れたので、大師(楽官長)の摯は斉の地へ、亜飯(二度目の食をすすめる時の音楽係)の干は楚の地へ、三飯の綾は祭の地へ、四飯の缼は秦の地へ、鼓の方叔は河内の地に、鼗をならす武は漢水の地に、少師(大師の補佐官)の陽と磬を打つ襄とは海中の島に入った。
殷末に音楽乱るそれぞれに散らばる楽団のメンバーならむ
前川佐美雄『秀歌十二月』二月 木下利玄
なづななづな切抜き模様を地に敷きてまだき春ありここのところに (歌文集・李青集)
この歌を見ると思い出すのは宋の戴益の詩「探春」だ。
尽日春を尋ねて春を見ず、杖藜踏み破る幾重の雲、帰来試みに梅梢を把りて看れば、春は枝頭に在りて已に十分。
春の来たことをよろこぶ思いは共通している。(略)利玄はまるで子供のようにあどけない。凍てた地の上にあの霜やけしたぎざぎざの葉っぱをぴったり食っつけている「なづな」。それはわれわれが子供の時にして遊んだあの切り抜き紙の形、その模様そっくりなのだ。それをかがみこんでつくづく見ている。そうして知らぬまにこんなところにさえも春が来ていたのだといたく感動する。しかしそれを受けとめた「ここのところに」の結句はいっそう巧い。それはただちに「なづな」をさすが、また同時にその地をいっているのだ。
特定の地をいわなかったのは、読者は自由にその地を思い浮かべて味わいうる。こういうのも利玄の特色の一つ。たとえば、
曼殊沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径
夜さむ道向うにきこえそめしせせらぎに歩みは近より音のところを通る
利玄は鎌倉の家に病を養いながら、歌壇などとはおおかたかわりもなく、ひとりこのような
歌を作っていたのだ。