まあ、曇りつづきだが春らし日だ。しかし体調がすこぶる悪い。一日寝て過ごす。
海音寺潮五郎『武将列伝 秀吉の四桀』を読了。石田三成、蒲生氏郷、加藤清正、伊達政宗の、いわば史伝だが、それぞれに好き嫌いがあるらしく石田三成にきびしく、伊達政宗にももんくがありそうだ。蒲生氏郷と加藤清正は筆が走っているように思える。いずれも秀吉に臣従した武将であり、おもしろかった。伊達政宗には、漢文一編、漢詩三十首、和文二編、和歌二百奈々十五首がのこっているという。その中から後水野尾天皇勅撰の「集外歌仙」に採られたという和歌を一首、
鎖さずとも誰かは越えん逢坂の関の戸埋む夜半の白雪
初燕けふ飛びたるを見たりけり卯月終はりにこの町に来る
いづこかに燕の巣があり子つばめの餌を求めて鳴く声聞こゆ
九階のベランダあたりをひるがへりまたひるがへり空旋回す
『論語』微子一一 周に八士あり、伯達・伯适・仲突・仲忽・叔夜・叔夏・季随と季騧。
周の国には八士あり伯達・伯适・仲突・仲忽・叔夜・叔夏・季随と季騧
前川佐美雄『秀歌12月』 二月 大伴旅人
淡雪のほどろほどろに降り頻けば平城の京し思ほゆるかも (万葉集巻八・一六三九)
大伴旅人が筑紫大宰府のあって故郷平城の京を憶う歌である。(略)「夜のほどろわが出でて来れば」(巻四・七五六)「夜のほどろ出でつつ来らく」(巻四・七五五)の例もあり、それが夜明けごろ、うす暗がりの未明の状態をいうとすれば、もともと語源は同じなのだから参考にしてよいのではないか。(略)この歌の「淡雪」は水気を多く含んだ柔らかい雪、牡丹雪か霙雪のような雪が降り頻きっているのだ。(略)それは早春雪、春の雪なのだ。そういう日なればこそ、ひとしおに望郷の念切なるものがあったと思われる。私はこのように解して、いよいよ奥深い歌だと尊敬するのである。
旅人が太宰帥として下向したのは神亀五年ごろ、その年の夏に妻の大伴郎女を喪っている。京師から弔問の使が来たのに報えて、
世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり (同巻五・七九三)
と無常を歎き、それからまた、
わが盛りまた変若めやもほとほとに寧楽の京を見ずかなりなむ (同巻三・三二一)
と異境辺土に老いを悲しむ。ともに秀でた作であり、複雑な人生の底深い悲しみを歌っている。(略)任務がようやく終わった旅人は天平二年冬、大納言となって帰京した。