今日は晴れ。
呉明益『複眼人』をやっとこさ読み終えた。前の『自転車泥棒』よりは早く読めたが、『歩道橋の魔術師』ほどではなかった。じつに読み応えがあったのである。帯には「こんな小説は読んだことがない。かつて一度も」(ル・グィン)とか「台湾民俗的神話化×ディストピア×自然科学×ファンタジー」「いくつもの生と死が交錯する感動長篇」と書いてある。そのとおりであり輻輳する台湾の現在と未来が、先住民と台湾人の葛藤とかが描かれる。説明しにくいので、ぜひ読んでほしい。 絶対、損はしないことは保証する。
七色の微塵となりて降る雨の驟雨のごとしたちまちに止む
嘉永時代の箪笥ひらけば虫の音がどことなく聞こゆ春の虫なり
わがからだを巻きてたちのぼる煙ありああこの地には老いの軀が立つ
『論語』夏張一六 曾子曰く、「堂堂たるかな張や、与に並んで仁を為し難く。」
堂々たるかなや張といへどもともに仁はなしがたし
前川佐美雄『秀歌十二月』三月 波多少足
さざれ波磯巨勢道なる能登湍河の音さやけさたぎつ瀬ごとに (万葉集巻三・三一四)
さざれ波は小波。こまかく文なして立つ波で、さざなみと同じ。その小波が磯を越すの意味から同音の巨勢に掛けて序詞とした。だから「さざれ波磯」はこの場合意味はないのだけれど、能登湍河やたぎつ瀬をいうのにいくらか間接的または補助的な役をはたしていると考えてよい。それとともにしずかな「さざれ波」を受けて「磯」と強いアクセントをつけ、「巨勢道なる」で自然な息づかいに戻り、そうして「能登湍河」と三句を名詞で切って、下の句はお音を先に言ってそのたぎつ瀬の河を説明している。
この下の句みよって、(略)その河に添ってその道を歩いていることがわかる。(略)その河のたぎつ瀬を見、その音を聞きながら歩いている。いいようもなくさわやかな感じのする歌で、ここが、この歌の一番大切なところだが、それを云った人はかつてない。(略)なおこの歌の作者は伝未詳、万葉にはこの歌一首しかない。