2025年5月18日(日)

ずっと曇りらしいが、明るい。

  靴下を脱ぎ捨てて野をかけりゆく老い病むわれは子どものごとし 

  叫びつつ気持ちよきかな野に遊ぶ老い病むわれが声発しつつ

  この下には死後に逝くべき熱地獄餓鬼が喿げば死者も叫ぶや 

『論語』子張二十一 子貢曰、「君子の過ちや、月日の蝕するが如し。過つや人皆これを見る、(あらた)むるや人皆これを仰ぐ。」

君子の過ちというものは日蝕や月蝕のようなものだ。過ちをするとはっきりしているので誰もがそれを見るし、改めると誰もがみなそれを仰ぐ。

  君子過つは日月の蝕するごとく過てばみなそれを仰ぐ

前川佐美雄『秀歌十二月』三月 前田夕暮

わが妻が女中にものをいひをれりくろば(、、)(、、)の青き葉をつみながら (歌集・陰影)

『陰影』に出ている。『陰影』は夕暮の第二歌集で、大正元年に刊行された。先の『収穫』の歌にくらべるとかなり現実的になっているが、たいがいは『収穫』の延長とみてよい。(略)これは現実の家庭生活の歌である。(略)女中の語をつかったのはこの歌がはじめてではないのか、案外に生きている。(略)しかし庭に出てくろばあの葉をつんでいるのは妻と女中なのだ。ひまがあって時間をもてあましているのだ。作者は歌でも作りながら、その声を聞いていたのかもわからない。

何でもない歌のようだが、しみじみとした味わいがある。庶民的な親しみが感じられて、心のうちがあたたかになる。

(略)夕暮が不定形のそのその自由律短歌に走る前ごろで、私を喜び迎えてくれたあの温容を忘れない。しかし夕暮も矢代東村もすでに故人である。夕暮のその後における代表歌をかかげておく。

洪水(でみづ)(がわ)あからにごりてながれたり(つち)より虹の湧き立ちにけり (歌集・原生林)

いろいろ引っ掛かるところはある。女中は、庶民的なのか。女中のいる家で暮らしたことなど私にはない。そして妻が上位なのだ。う~ん

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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