ずっと曇りらしいが、明るい。
靴下を脱ぎ捨てて野をかけりゆく老い病むわれは子どものごとし
叫びつつ気持ちよきかな野に遊ぶ老い病むわれが声発しつつ
この下には死後に逝くべき熱地獄餓鬼が喿げば死者も叫ぶや
『論語』子張二十一 子貢曰、「君子の過ちや、月日の蝕するが如し。過つや人皆これを見る、更むるや人皆これを仰ぐ。」
君子の過ちというものは日蝕や月蝕のようなものだ。過ちをするとはっきりしているので誰もがそれを見るし、改めると誰もがみなそれを仰ぐ。
君子過つは日月の蝕するごとく過てばみなそれを仰ぐ
前川佐美雄『秀歌十二月』三月 前田夕暮
わが妻が女中にものをいひをれりくろばあの青き葉をつみながら (歌集・陰影)
『陰影』に出ている。『陰影』は夕暮の第二歌集で、大正元年に刊行された。先の『収穫』の歌にくらべるとかなり現実的になっているが、たいがいは『収穫』の延長とみてよい。(略)これは現実の家庭生活の歌である。(略)女中の語をつかったのはこの歌がはじめてではないのか、案外に生きている。(略)しかし庭に出てくろばあの葉をつんでいるのは妻と女中なのだ。ひまがあって時間をもてあましているのだ。作者は歌でも作りながら、その声を聞いていたのかもわからない。
何でもない歌のようだが、しみじみとした味わいがある。庶民的な親しみが感じられて、心のうちがあたたかになる。
(略)夕暮が不定形のそのその自由律短歌に走る前ごろで、私を喜び迎えてくれたあの温容を忘れない。しかし夕暮も矢代東村もすでに故人である。夕暮のその後における代表歌をかかげておく。
洪水川あからにごりてながれたり地より虹の湧き立ちにけり (歌集・原生林)
いろいろ引っ掛かるところはある。女中は、庶民的なのか。女中のいる家で暮らしたことなど私にはない。そして妻が上位なのだ。う~ん