明るいけれど曇り。太陽は雲のかなたにぼやけている。
吾れが入る前にトイレに行くもののすっぱいやうなる臭ひを残す
この臭ひは妻のものなり鼻つまみしばしがまんしわが糞を放る
雲古、うんこ、ウンコいつもねばりて放るもののけさは一気に排泄したり
『論語』堯曰第二十 一 堯曰く、「咨、爾舜、天の歴数、爾の躬に在り。充に其の中を執れ。四海困窮。天禄永く終へん。舜も亦た以て禹に命ず。
湯曰く、予れ小子履、敢て玄牡を用て、敢て昭かに皇皇后帝に告す。罪あるは敢て赦さず、帝臣蔽さず、簡ぶこと帝の心に在り。朕が躬罪あらば、万方を以てすること無けむ。万方罪あらば、罪は朕が躬にあらん。
周に大賚あり、善人是れ富む。周親ありと雖ども仁人に如かず。百姓過ち有らば予れ一人に在らん。
堯・舜・禹と帝位が譲られた(禅譲)、禹は夏王朝を開いて子孫に伝え、桀に至って殷の湯に攻め滅ぼされる(放伐)。この章は、尭から周の武王まで、古代の聖天子のことばを集めたもの。
堯・舜・禹と禅譲されて桀に至り湯に滅ぼさるる中国古代史
前川佐美雄『秀歌十二月』四月 尾張連
うちなびく春来るらし山の際の遠き木末の咲き行く見れば (万葉集巻八・一四二二)
尾張連とあるだけで名も伝も不詳。「うちなびく」は「春」にかかる枕詞。春になって草木がやわらかに萌えいでる。そこからきた修飾語であるらしい。「うちなびき」をよしとする人もあるが、それでは調べが俗になる。やはり「うちなびく」の方がよいし、枕詞としてもおちつく。いよいよ春がきたらしい。みあげる山の木々が花咲いてゆく。きのうよりきょうはさらに遠い峰の奥まで咲いたのがみえるというので、山の低いところから咲きはじめた花が、次第に高いところへ咲き移ってゆく時間的経過をあらわしている。この「遠き木末の咲き行く」がじつに自然な表現で、たとえようもなくよい語だ。そして「咲き行く見れば」の結句に作者の思いが集中している。(略)万葉集にサクラの歌は四十首あまりだ。(略)なおこの歌は巻十に第二句が次のようにあらためられてはいっている。作者は不詳、万葉集末期の口調を感じる。
うちなびく春さり来らし山の際の遠き木末の咲き行く見れば (同巻十・一八六五)