2025年5月20日(火)

今日も晴れて、暑いらしい。

  熊野古道を歩くメンバーの中にして成瀬有ときに先頭に立つ

  大辺路、小辺路時折雷雨に打たれつつぶじに越えゆくわれまた若く

  坂道を下りゆくとき蟇蛙の極彩色を背に負うに出遇ふ

『論語』子張二三 叔孫部叔(しゅくそんぶしゅく)、大夫に(ちよう)に語りて曰く、「子貢は仲尼より賢れり。」

子服景(しふくけい)(はく)以て子貢に告ぐ。」子貢曰く、「(こ)れを宮牆(きゅうしよう)に譬ふれば、賜の牆や肩に及べり、室家の好きを(うかが)ひ見ん。夫子の牆数(じん)、其の門を得て入らざれば、宗廟の美・百官の富を見ず。其の門を得る者、或いは寡なし。(か)の子の云ふこと、亦た宜ならずや。

屋敷の塀にたとえるなら、賜(このわたし)の塀はやっと肩までだから家の中の小ぎれいなのがのぞけますが、先生(孔子)の塀は七尺、八尺もあるので、その門を見つけて中に入らなければ、宗廟の立派さや役人たちの盛んな様子は見えません。その門を見つけられる人も少ないようですから、叔孫がそういうのも、いかにも尤もである。

  孔子のことを言ふ人なけんその価値を知る者かくもすくなきものを

前川佐美雄『秀歌十二月』四月 正岡子規

いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春ゆかんとす (竹乃里歌全集)

明治三十四年五月四日「しひて筆をとりて」と題する連作十首の第二首目である。第一首目は佐保姫の別れかなしも来ん春にふたたび逢はむわれならなくにともにすぐれた歌である。(略)このイチハツの歌は、庭前のその花に即して歌われてあるだけに、いっそういきいきとした感じで、ふたたびとは逢い難い「今年ばかりの春」であることよとなげいている。主観の勝った現実感の強い歌で、その悲しみがそくそくとして胸に伝わってくる。子規最高の叙情歌の一つで、ここまでで来ると融通無碍だ。円熟している。(略)写生は大切だが、こだわっていることをおのずから物語っている。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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