一応晴れているが、いささか寒いのである。
森林の木々にみどりのかすみつつあまやかなる香ぞ入りてゆくなり
藪原に迷ひ入りにき。その場処を這ひ出しすまでの苦難ありたり
山毛欅林に娘を肩にのせてゆくそしてさまよふ出口が見えず
『論語』子張一一 子夏曰く、「大徳は閑を踰えず。小徳は出入して可なり。」
大きい徳(孝や悌など)についてはきまりをふみ越えないように。小さい徳(日常の容貌やふるまい)については出入りがあっても宜しい。
大徳は閑を踰へず小徳は出入り可なりと子夏が言へり
前川佐美雄『秀歌十二月』三月 窪田空穂
覚めて見る一つの夢やさざれ水庭に流るる軒低き家 (歌集・さざれ水)
『さざれ水』は空穂の第十二歌集で、昭和九年の刊行である。(略)空穂はすでに六十歳近い。(略)時におりおり昔を思い、故郷に心をはせたりもする。この歌はそれが幻覚となってあらわれたので、「幻の水」と題する連作四首中の一首である。
ひらたくいえば白昼夢である。ひっそりとして物音ひとつしない真夏真昼、ふと幻が過ぎた。夢のように過ぎたのだ。それが「覚めて見る一つの夢」で、ありありと見えた郷里の家の庭の光景が「さざれ水庭に流るる軒低き家」なのである。この「一つの夢」はふと見た幻覚と、そうしてそれを惜しむ思いの両方をふくめている。
「覚めて見る」そうして「一つの夢や」と三句につづくことばづかいは空穂ひとりのもので、写生派などとはちがうようだ。(略)今日の歌人は、学者もともに万葉はわかっても古今、新古今は理解できないが、空穂は学者としても最高権威者、それがその歌をして独自の風をなさしめ、追従を許さない、一口にいえば郷愁の歌だが、それはさざれ水のようにたんたんと澄みとおっていて、その心境をしのばせる。