昨日まで一泊で箱根湯本に行ってきた。そして今日は朝から雨である。歌はもう少し後に。
自動車の走行音に雨の降る異常を感ずマンションの横
ひたひたとタイヤの音に微細なる雨降るを覚ゆ湿り気帯びて
不機嫌と呼ぶほかなきか雨の中軽自動車に雑じりて走る
『大学』第六章二 是の故に君子は先づ徳を慎しむ。徳あれば此に人あり、人あれば此に土あり、土あれば此に財あり、財あれば此に用あり。徳は本なり、財は末なり。本を外んじて末に内しめば、民を争はしめて奪うことを施ふるなり。是の故に財聚まれば則ち民散じ、財散ずれば則ち民聚まる。是の故に言悖りて出ずれば亦た悖りて入り、貨悖りて入れば亦た悖りて出ず。
康詰に曰く、「惟れ命は常に于いてせず」と。善なれば則ちこれを得、不善なれば則ちこれを失ふを道ふなり。
徳はもとにて財はすえ間違へてはならず天命は常ならず
前川佐美雄『秀歌十二月』五月 藤原良経
うちしめりあやめぞかをる郭公鳴くや五月の雨の夕ぐれ (新古今)
ホトトギスの鳴いている五月の雨の降る夕ぐれごろだ。どこからともなく、しっとりとしたアヤメの花のにおいがしてくる。というような意味であろう。が、こう解釈したのでは元も子もなくなる。歌そのものをくり返し読み味わうことによって、このしずかな歌の気分にひたるほかないだろう。これを読むとだれでもすぐ思いおこすのは、次の歌だ。
ほととぎす鳴くや五月のあやめぐさあやめも知らぬ恋もするかな (古今集)
巻第十一の巻頭歌、題しらず、読み人しらずの恋の歌だが、これが本歌となっているのはいうまでもない。(略)五月の雨だから「うちしめり」である。そうして「あやめぞかをる」と二句でちょっと休止し、かすかににおうともなきアヤメの花の香にききいっているようすを示し、次の本歌の「ほとぎす鳴くや五月の」を借りてきて三句、四句にすえた。これは結句の「雨のしぐれ」をいうための序詞であり、序詞ではなくとも「ほととぎす鳴くや」は「五月」の枕詞みたいな役割をはたすもので、この時ホトトギスが実際に鳴いたかどうか問題ではない。(略)釈迢空は「ほんとうに優美」な歌として激賞していたが、本歌をもつものはなにも歌だけには限らない。こうした歌心を知ればこそ芭蕉も作っていたではないか。
ほととぎす鳴くや五尺のあやめぐさ