雨、曇り。天気はよくない。
大嶋仁『日本文化は絶滅するのか』を読む。まあ軽快なこの国の文化の通史を読んだことになる。なるほど軽快なのだが、このままではたしかに未来は暗い。深く納得しつつ、著者同様、このままでいいわけはない。せめて短歌に親しんでいるだけ、自然に近いものとは思いつつ、あれこれ考えてみようではないか。とりあえず西田幾多郎の「無の場所」「絶対矛盾的自己同一」、そして「聖なるもの」を感じとる感受性をたいせつに考えよう。
シュークリームのやうなる雲が立ちあがるこの夏をすべて領するごとく
しわしわのシュークリームが浮かびあがる夏の夕空しわしわ朱色
夕雲のうすれ流れて山の端を朱色に染めて暮れてゆくなり
『大学』第六章三 楚書に曰く、「楚国には以て宝と為すものなし、惟だ善以て宝と為す」と。
舅犯曰く、「亡人には以て宝と為すものなし、仁親以て宝と為す」と。
蓁誓に曰く、「若し一个の臣ありて、断断兮として他の伎なきも、その心休休焉としてそれ如く容るるあり。人の伎あるは、己れこれを有するが若く、人の彦聖なるは、その心これを好みす。啻にその口より出すが若くするのみならず、寔に能くこれを容れて、以て能く我が子孫を保んずれば、黎民も亦た尚利あらんかな。人の伎あるは媢疾してこれを悪み、人の彦聖なるは、而ちこれを違ひて通ぜざらしむ、寔に容るる能はずして、以て我が子孫を保んずる能はざれば、黎民も亦た曰に殆ふからんかな」と。
唯だ仁人のみ、これを放流し、諸れを四夷に迹けて、与に中国を同じくせず。此れを、唯だ仁人のみ能く人を愛し能く人を悪むと為す、と謂ふなり。
賢を見るも挙ぐる能はず、挙ぐるも先にする能はざるは、慢るなり。不善を見るも退くる能はず、退くるも遠ざくる能はざるは、過ちなり。人の悪む所を好み、人の好む所を悪む、是れを人の性に払ると謂ふ。菑必ず夫の身に逮ぶ。
是の故に君子に大道あり、必ず忠信以てこれを得、驕泰以てこれを失ふ。
君子には大道あらむ忠信を持てばこそにて驕りてはならず
前川佐美雄『秀歌十二月』五月 藤原良経
幾夜われ浪にしをれて貴船川袖に玉散るもの思ふらむ (新古今集)
「浪にしをれて」は浪にひどく濡れてしおれてで、「貴船川」は洛北の貴船明神、濡れてきたことを貴船川にかけている。また貴船の縁語として「浪にしをれて」といって、その水しぶきの飛び散るのを「袖に玉散る」と袖に涙の落ちるのにかけた。
貴船明神に恋がかなうようにと祈願して、毎夜貴船川に添っておまいりするけれど、いまだに霊験があらわれないので、袖を濡らしてなげいている、というのである。
想句ともに凝りに凝った、これ以上はよくかなわぬと思われるぎりぎりのところまできている刻苦彫琢の作である。(略)内に詩情が充実している。切迫した感情があらわでなしに、品高く優美に、しかも流麗の調べ、よく朗吟にもたえうる。萩原朔太郎はこれをもって名歌絶唱並びなき作と推奨した(略)なおこの歌にも本歌があった。
奥山にたぎりて落つる滝つ瀬の玉ちるばかり物な思ひそ (後拾遺集)
物思へば沢の蛍も我身よりあくがれ出づる玉かとぞみる (同)
と歌ったのに対する貴船明神の「御かへし」の歌で、式部が男の声で聞こえたといい伝えられる歌である。それをふまえて作ったのだから、良経も上手をつくして力の限り歌いあげたのであろう。