朝は曇りだが、やがて雨になるらしい。
わづかづつ声あげて鳴くいかる鳥。黄色の嘴つつきて歩む
黄色のくちばしをもつ鵤かな花の回りを鳴きつつ移る
マンションの花の周囲に拠り来たるいかる黄色のくちばしを持ち
『中庸』第一章二 喜怒哀楽未だ発せざる、これを中と謂ふ。発して皆な節に中る、これを和とふ。中なる者は天下の大本なり。和なる者は天下の達道なり。中和を致して、天地位し、万物育す。
中こそは宇宙の大本、和こそは達道、中和致せば天地万物安泰なり
前川佐美雄『秀歌十二月』六月 柿本人麿
球藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ (万葉集巻三・二五〇)
「球藻刈る」は「敏馬」の、「夏草の」は「野島」の枕詞である(略)一首の中に二つも枕詞があり、しかも二つの地名が詠まれている。だから枕詞をはぶくと、敏馬を過ぎて野島の崎に船が近づいたというだけの味もそっけもない歌になる。だから鑑賞する場合は枕詞を心に思っている方がよいので、という必要もないほどに皆たれでもそう解しているのではあるまいか。(略)一首の意は、海藻を刈りとっている摂津の敏馬のへんの海を通り過ぎて、船はいよいよ夏草の生い茂っている淡路の野島の崎に近づいた、ということになる。簡単な内容の歌には相違ないが、それだけではない。二つの枕詞はかりそめにつかわれてあるのではなく、十分心得ているので、枕詞がもつことばの機能がじつにたくみに活用されてあるのに驚く。目立たないけれど、おのずから豊かな大きなしらべをなすに至った。もとより作者の主観が強くはたらいているからだが、それが結句へ来て「船近づきぬ」と客観的にいい据えた。ごく自然な結句だが感慨がこもっていて、読者もにわかに旅情を覚えて感動する。
人麿の「羇旅の歌八首」の第二首目の歌である。(略)