2025年6月23日(月)沖縄の日

朝、風があるものの、今日も暑くなりそうだ。

  紅茶が時に真っ赤なりまるで血のやうなり匙にかきまはす

  大きなる手が空からわれをつかみくる天の上までひきずりゆくか

  夜の闇に従ふごとく歩みゆく此方を対きてくるものと会ふ

『中庸』第五章 君子の道は、(たと)へば遠きに行くに、必ず(ちか)きよりするが如く、辟へば高きに登るに、必ず(ひく)きよりするが如し。

詩に曰く、「妻子好合(こうごう)すること、(しつ)(きん)(こ)するが如し。兄弟既に(あ)ひ、和楽して且つ(たの)しむ。(なんじ)が宝家に宜しく、爾が妻帑(さいど)を楽しましむ」と。

子曰く、「父母は其れ(じゅん)ならんか」と。

  君子の道は父も母も満ちたりてさてそれからぞ高みに上る

前川佐美雄『秀歌十二月』六月 田安宗武

我宿の杜の木の間に百千鳥来なく春べは心のどけき (同)

モモの花をいっていないけれど、むろん咲いているので、だから百千鳥がくる。百千鳥はたくさんの小鳥というぐらいで、その語にこだわらなくてよい。美化していったのである。これと同じような歌は無数にある。が、この一首ほどすぐれた歌はついぞ見なかったような気がする。淳朴な語をえらんで、全体をふっくらと歌いあげた、やさしい心の品高い歌で飽きることがない。万葉調を体得しているのはいうまでもないが、表はほのぼのとした顔つきをしていても、なお歌は人格の表現だとの理想主義的な考えを持っていた人だけに、裏がわは手ごわい。それがこの歌に感じられる。あえて感じる必要はないが、それがあるからこそこの歌は大きく、堂々としているのである。すでに師の真淵をいくばくか追い越している。(略)真淵は万葉調をいいはしたが、その歌は、いうほどのものではなく、だいたいが低調で、宗武には遠く及ぶべくもなかった。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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