朝、ちょっと曇っているだけで雨が降らない時間があったが、すぐに雨に。
南側の駐車場には河原鶸わが足もとより少し跳びだす
ザリガニの赤き姿がはさみ上げ迎へるやうなり俺を招くか
用水の中をアメリカザリガニが招くがにしてはさみ動かす
ザリガニが招くはこの世とは別のところそこはたれも知らず
『中庸』第六章二 子曰く、「憂ひなき者は、其れ唯だ文王なるかな。王季を以て父と為し、武王を以て子と為し、父これを作り、子これを述ぶ」と。
武王は、大王・王季・文王の緒を纘ぎ、壱たび戎衣して天下を有ち、身は天下の顕名を失はず。尊は天子たり、富は四海の内に有ち、宗廟これを饗け、子孫これを保つ。
武王は末に命を受く。周公は文・武の徳を成し、大王・王季を追王し、上、先公を祀るに天子の礼を以てす。斯の礼や、諸侯・大王及び士・庶人に達す。父は大夫たり、子は士たらば、葬るに大夫を以てし、祭るに士を以てす。父は士たり、子は大夫たらば、葬るに士を以てし、祭るに大夫を以てす。期の喪は大夫に達し、三年の喪は天子に達す。父母の喪は、貴賤となく一なり。
孔子が言ふ憂いなき者は文王のみ王季を父とし武王を子とす
前川佐美雄『秀歌十二月』六月 天田愚庵
ちちのみの父に似たりと人がいひし我眉の毛も白くなりにき (愚庵全集)
分かりやすい歌でこれも解説するほどのことはないが、もう一首ある。
かぞふれば我も老いたりははそはの母の年より四年老いたり
「癸卯感懐」と題する明治三十六年、死ぬ一年前の歌だが、十五歳の時生別したままついに生涯逢うことができなかった。明治元年戊辰兵乱のおり、薩長軍に抗戦して出陣し、平城(福島県)陥落と同時に父母妹らが行方不明となった。以来父母妹らを捜して全国をまわる。(略)この歌を作った時分は産寧坂の草庵をたたみ、伏見桃山に新庵をいとなんで住まっていた。いかにさがしてもむだだ、やめよと人からさとされても二十年尋ねまわった。生別した時の父は六十五歳、母は四十七歳。その父の眉の白かったように、ようやく自分のも白くなったと、父をしのんでは自分の老いをかこっているのだ。世の常のことでないだけに、読むものの心歎かせる。はなやかな明治和歌革新のその少し前に、いくばくかの関係をもつ愚庵がいる。これを忘れてはならない。