朝は涼しいが、やがて猛暑。
宇宙線に刺さるがごとく挫けたり動かなくなる地球人われ
宇宙線に刺されて病めるわが軀なり今日もよろけて木の影過る
血圧の変化は空の上にある気圧のせいなり気圧が動く
『中庸』第七章 哀公(魯の君主)、政を問ふ。子曰く、「文・武の政は、布きて方策(書籍)に在り。その人存すれば、則ちその政挙がり、その人亡ければ、則ちその政息む。人道は政に敏め、地道は樹を敏む。夫れ政なる者は蒲蘆(難解)なり」と。
故に政を為すは人に在り。人を取るには身を以てし、道を脩むるには仁を以てす。
仁とは人なり、親を親しむを大と為す。義とは宜なり、親を親しむの殺、賢を尊ぶの等は、礼の生ずる所なり。
故に君子は以て身を脩めざるべからず。身を脩めんと思はば、以て親に事へざるべからず。親に事へんと思はば、以て人を知らざるべからず。人を知らんと思はば、以て天を知らざるべからず。
仁とは人なり義とは宜なり政を為すには天を知るべし
前川佐美雄『秀歌十二月』七月 作者不詳
琴取れば嘆き先立つけだしくも琴の下樋に嬬や隠れる (万葉集巻七・一一二九)
琴の歌といえばこの歌が思い出される。詞書に「倭琴を詠む」とあるが、巻五の大伴旅人の「梧桐の日本琴一面」の序詞の「君子の左琴」でもわかるように、そうして何も君子でなくとも琴は女だけがひくのではなく、もともと祭祀に供される楽器だったのだから女もひけば男もひいた。
この歌は「雑歌」の部はいっているけれど挽歌に近い。「琴の下樋」は琴の胴のうつろなところをいうので、なき妻の琴を取り出してひこうとしたところが琴の胴に妻がかくれているような気がする。嘆きが先だってひいてもしらべをなさない、と妻に
先だたれた男の悲しみを歌いあげてあわれである。せめて妻の琴でもひいたなら気がまぎれようかと取り出したのだ。けれどもかえって悲しみを深からしめた。そういう思いもこめられていて、哀憐の情せつせつとして身に沁むものがある。万葉集中高く評価されてしかるべき一首である。
(略)これを最も推奨したのは佐藤春夫である。万葉集中の優秀歌として機会あれば口に筆にしていた。(略)それにしても同じ琴を歌っていても万葉と王朝ではやはり大きな違いが見られる。万葉のこれは直接的生理的であるのに対して、王朝のあれは主観的心理的だった。万葉のこれはわかりやすいが、王朝のあれは複雑だった。