今朝も暑い。よく晴れている。いつになったら梅雨が明けるのだろう。
探偵に尾行されたるか駅からの暗き道迷はずわが後をくる
死ぬことはまちがひないが苦しまずに死ねるかどうかそんなことはない
さう遠くなく死の世界に被われてそちらに移るか死ねば空白
『中庸』第八章 天下の達道は五、これを行なう所以の者は三。曰く、君臣なり、父子なり、夫婦なり、昆弟(兄弟)なり、朋友の交なり。五者は天下の達道なり。知・仁・勇の三者は、天下の達徳なり。これを行なう所以の者は、一なり。
或いは生まれながらにしてこれを知り、或いは学んでこれを知り、或いは困しんでこれを知る。そのこれを知るに及んでは、一なり。或いは安んじてこれを行なひ、或いは利としてこれを行なひ、或いは勉強してこれを行なふ。その功を成すに及んでは、一なり。
子曰く、「学を好むは知に近し。力めて行ふは仁に近し。恥を知るは勇に近し」と。斯の三者を知れば、則ち身を脩むる所以を知る。身を脩むる所以を知れば、則ち人を治むる所以を知る。人を治むる所以を知れば、則ち天下国家を治むる所以を知る。
孔子が言ふ学を好むは知に近く、努めて行なふは仁に近く、恥を知るには勇に近し
前川佐美雄『秀歌十二月』七月 島木赤彦
山道の昨夜の雨に流したる松の落葉はかたよりにけり (歌集・太虚集)
大正十一年作、「有明温泉」行の一首である。同じ時に
たえまなく鳥なきかはす松原に足をとどめて心静けき
いづべにか木立は尽きむつぎつぎに吹き寄する風の音ぞきこゆる
しらくもの遠べの人を思ふまも耳にひびけり谷がはのおと
などの傑作がある。(略)私は掲出した歌を当時における赤彦の代表作としてとくに取りあげるのである。意は明瞭だからあえていう必要はないが、これは雨あがり、朝早い山道を歩いているのである。それは人通りのない山道をただひとり歩いているのである。そういう説明語は何もないけれど、そうしたおもむきが感じられる。同行者があってはいけないのである。(略)これはあくまでひとりの歌だ。(略)川のようになって流れた雨水に片寄せられている松の落葉だけをいったのがよかった。さすがに赤彦である。清潔であり、清澄である。一読して心をぬぐわれる思いがする。声調が冴えきっているのだ。しかも赤彦自身のとなえていた自然人生の寂寥感というようなものもわかるような気がする。 もくもくと山道を歩いている赤彦の心は孤独の思いに堪えていたのだ。(略)赤彦は日夜懊悩したはずだが、それはけっして表にださなかった。それを自然風景の写生歌の中に韜晦せしめたといっては語弊があるが、しかし一途にそれこそまっしぐらにその写生道にうち込んで行った。その態度はすでに前に述べたように覇者的思想を根底に持っていた。修行をいい鍛錬を説いたが、けれども根はやさしく、そうしてさびしい人だったようだ。この歌は冷たいばかり清く冴え澄んでいるけれど、赤彦の本心が出ている。それはいつでも本心を歌っているのだが、時にきつく出すぎて、態度が目立つきらいがあった。