2025年6月7日(土)

晴れている。

  含嗽する水の口から奔放に散らばればわれも老いぼれならむ

  万がひとつこぼるる水の口あふれ吐き出すことに範囲広大

  この口にしまりなきゆゑ水溢れ洗面台をこぼれるごとし

『大学』第五章二 詩に云ふ、「桃の夭夭たる、その葉蓁蓁たり、(こ)の子(ここ)(とつ)ぐ、その家人に宜し」と。その家人に宜しくして、(しか)(のち)に国人を教ふべきなり。

詩に云ふ、「兄に宜しく弟に宜し」と。兄に宜しく弟に宜しくして、而る后に国人を教ふべきなり。

詩に云ふ、「その義忒(ぎたがわ)はず、是の四国を正す」と。その父子兄弟たること(のつと)るに足りて、而る后に民これに法る。此れを、国を治むるはその家を斉ふるに在り、と謂ふなり。

  桃の夭夭と葉の蓁蓁たる如くして家治めむれば国も治まる

前川佐美雄『秀歌十二月』五月 土屋文明

風なぎて谷にゆふべの霞あり月をむかふる泉々のこゑ (同・山下水)

疎開地での生活も年を越したのであろう。長く苦しかった冬がようやく過ぎて、春がくるらしい気配である。それにきょうは風もおさまって何となくあたたかそうだ。久しぶりに散歩でもしようと谷の方へ歩いて来た。いつも来なれた谷あいの道だが、すでに日が暮れかけていちめんぼうと霞んでいる。目を疑うようなひとときである。するとあちこちで谷水の鳴るのがきこえ出した。まるできそっているかのような水音である。それは今宵の満月をむかえるよろこびの声なのだ。と作者の心境をその情景に託してあますなく歌いえている。

「谷にゆふべの霞あり」などは文明が苦心して作り出したしらべだし、下句の「月をむかふる泉々のこゑ」のごときは、たとい擬人法によっているとはいえ、少しも俗ではない。写実に徹したあげくはじめて手にしえた自在である。老境といったのでは失礼になるかもしれないが、人生の幾山河を越えて来た人が、日本の最も不幸な悲惨な日にあってさえも、なお生くる希望を失わなかった。これはよろこびの歌なのだ。涙をさそうよろこびの歌である。

これと前後して次のような佳作がある。よく読んで心しずかに味わいたい。

  走井に小石を並べ流れ道を移すことなども一日のうち

  にんじんは明日蒔けばよし帰らむよ東一華の花も閉ざしぬ

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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