晴れている。
含嗽する水の口から奔放に散らばればわれも老いぼれならむ
万がひとつこぼるる水の口あふれ吐き出すことに範囲広大
この口にしまりなきゆゑ水溢れ洗面台をこぼれるごとし
『大学』第五章二 詩に云ふ、「桃の夭夭たる、その葉蓁蓁たり、之の子于に帰ぐ、その家人に宜し」と。その家人に宜しくして、而る后に国人を教ふべきなり。
詩に云ふ、「兄に宜しく弟に宜し」と。兄に宜しく弟に宜しくして、而る后に国人を教ふべきなり。
詩に云ふ、「その義忒はず、是の四国を正す」と。その父子兄弟たること法るに足りて、而る后に民これに法る。此れを、国を治むるはその家を斉ふるに在り、と謂ふなり。
桃の夭夭と葉の蓁蓁たる如くして家治めむれば国も治まる
前川佐美雄『秀歌十二月』五月 土屋文明
風なぎて谷にゆふべの霞あり月をむかふる泉々のこゑ (同・山下水)
疎開地での生活も年を越したのであろう。長く苦しかった冬がようやく過ぎて、春がくるらしい気配である。それにきょうは風もおさまって何となくあたたかそうだ。久しぶりに散歩でもしようと谷の方へ歩いて来た。いつも来なれた谷あいの道だが、すでに日が暮れかけていちめんぼうと霞んでいる。目を疑うようなひとときである。するとあちこちで谷水の鳴るのがきこえ出した。まるできそっているかのような水音である。それは今宵の満月をむかえるよろこびの声なのだ。と作者の心境をその情景に託してあますなく歌いえている。
「谷にゆふべの霞あり」などは文明が苦心して作り出したしらべだし、下句の「月をむかふる泉々のこゑ」のごときは、たとい擬人法によっているとはいえ、少しも俗ではない。写実に徹したあげくはじめて手にしえた自在である。老境といったのでは失礼になるかもしれないが、人生の幾山河を越えて来た人が、日本の最も不幸な悲惨な日にあってさえも、なお生くる希望を失わなかった。これはよろこびの歌なのだ。涙をさそうよろこびの歌である。
これと前後して次のような佳作がある。よく読んで心しずかに味わいたい。
走井に小石を並べ流れ道を移すことなども一日のうち
にんじんは明日蒔けばよし帰らむよ東一華の花も閉ざしぬ