朝、雨だが、止んだ。あとは曇りのようだ。
川名壮志『酒鬼薔薇聖斗は更生したのか 不確かな境界』を読む。いささか安易な新書だ。だいたい少年Aの行方が分からない。『絶歌』の跡を追わずにどうするといいたい。読む必要があるのは、少年法に関してだけだ。これはわれわれが考えずにはいられない。この社会にとって少年法はいかにあるべきか、一人一人が考えを持たねばならぬということだろう。ただ、やはり問題の提起は興味深い。少年Aは更生したのか。そうした意志があるのか。
気がつけば太古のやうな風が吹く中庭の木々の長柄ゆらして
この空は太古のやうに青きゆゑまなこくらみて遠くは見えず
太古のやうな風、そして空神々しきよそのうちをこの世に参る
『大学』第六章一 所謂天下を平らかにするのはその国を治むるに在りとは、上老を老として而(乃)ち民孝に興り、上長を長として而ち民弟(悌)に興り、上孤を恤みて而ち民倍かず。是を以て君子には絜矩の道あるなり。上に悪むところ、以て下を使ふこと毋く、下を悪むところ、以て上に事ふること毋かれ。前に悪むところ、以て後に先だつこと毋く、後に悪むところ、以て前に従ふこと毋かれ。右に悪むところ、以て左に交はること毋く、左に悪むところ、以て右に交はること毋かれ。此れをこれ絜矩の道と謂ふ。
大切なのは「絜矩の道」身近を尊び広き世界を推しはかるべし
前川佐美雄『秀歌十二月』五月 額田王
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る (万葉集巻一・二〇)
天智天皇の七年五月五日、近江の蒲生野に「御猟」せられた時、額田王が皇太弟である大海人皇子におくられた歌である。「あかねさす」は枕詞で「紫」にかかる。そのころの紫色は今の紫色ではない。いくぶん赤味がかった、つまり茜色に近かったといわれる。(略)紫草の生えている野をいうらしい。が、私は注釈書にたよらず初めてこの歌を読んだ時、「紫野」は紫の花の咲いている野かと思った。紫色の花のいっぱい咲いている野を想像して、何ともいえない美しい歌だと思っていたのだ、ところがこれは紫草という野草の生えている野であることは、この歌に答えた大海人皇子の歌の「紫草の」でわかった。(略)土屋文明は「単に紫色の花の咲き乱れている野とも考えられる」といって、紫草にそれほどこだわっていない。私は賛成である。「標野」は、(略)ここは宮廷用の猟場として特別に指定せられていたのだろう。「野守」はそこを見張っている守衛ぐらいであろうか。「袖振る」はその時分の恋愛感情を示す動作のようだ。万葉集中他にもしばしば歌われている。
一首の意は、「かがやくばかり美しい紫野を行き、標野を行きながら、そんなにあなたが袖をふられたのでは、野守が見るじゃありませんか」とあたりを気にして軽くたしなめている。紫野と標野とは別々ではないが、修辞の上からこうして句をたたみ、また四句と五句を置きかえて声調をととのえた。「野守は見ずや」はきつくいっているみたいだが、声を殺して相手にだけ聞こえるようにささやいている感じである。しきりに周囲を心配しながら、なおかつ甘えている口ぶりで、ただの間でないことを思わせる。(略)甘美な媚態をふくむ複雑な内容の歌であるにかかわらず、いささかも遅滞しない。よく単純化してふくらみある明朗のしらべをなしている。