晴れ。寒い。
小さなる月の明かりに照らされて波濤見えたり重なりにつつ
朝の太陽
太陽の朝のひかりが映しだす広き海原きらきらとして
浜辺には濡れて黒き石と乾く石ごろごろとして浪に対峙す
一夜さを風吹き荒れて、吹き続く。伊豆半島も風に揺れたり
『孟子』離婁章句上85 楽正子、子敖に従ひ斉に之く。楽正子、孟子に見ゆ。孟子曰く、「子も亦来りて我を見るか」と。曰く、「先生何為れぞ此の言を出すや」と。曰く、「子来ること幾日ぞ」と。曰く、「昔者なり」と。曰く、「昔者ならば、則ち我が此の言を出だすも、亦宜ならずや」と。曰く、「舎館未だ定まらざればなり」と。曰く、「子之を聞けりや。舎館定まりて、然る後に長者に見ゆることを求むるか」と。曰く、「克罪有り」と。
川本千栄『土屋文明の百首』
読み下さる読み下さらぬかたじけな買ひ下さるを第一として 『青南後集』
<読んで下さっても読んでくださなくてもありがたい。買って下さるのを第一としているので。>
昭和五十一年「万葉集私注新訂版」より。文明は一生の仕事として『万葉集私注』に取り組んで来た。いったん完結した後も補正稿を書き続け再刊した。この時も新釈を加えての新訂版だった。いくら補正を重ねても完璧ということはないとも歌っている。人生におけるきわめて重要で真面目な場面のはずだが、この歌はユーモアを込めて、自著の出版は文学だけではなく生活の問題でもある、と本音を漏らしている。
十といふところに段のある如き錯覚持ちて九十一となる 『青南後集』
<年齢の何十歳というところに段のあるような錯覚を持って九十一歳となる。>
昭和五十六年「九十一新年」より。十代二十代というように十年ごとに年齢に節目があり、そこに段があるような感覚を持っているが、それは錯覚だと歌う。人は十歳ごとに規則正しく成長や老化するわけではなく、特に老化は個人差がある。ある日突然、昨日までのようには心身が動かないことも起こり得る。九十代のこれからはいつそんな日が訪れるか分からない。十年刻みではなく、九十、九十一と一年刻みで考える年代なのだ。