7月19日(土)

今日も暑くなるらしいが、朝はまあまあ。

  山の木はそれぞれに深きみどりなりおぼろけなるは雨来るらしき

  どことなくどんよりするは雨近き夏の箱根の山ならむかな

  金目鯛の干物を網に焼く匂ひ部屋にただよふ旅を終へたり

  金目鯛の干物の身をばせせり食ふこのたのしさや旅すればこそ

『孟子』梁恵王章句上1-2 王は何を以て吾が国を利せんと曰ひ、大夫は何を以て吾が家を利せんと曰ひ、士庶人は何を以て吾が身を利せんと曰ひ、上下交利を征れば、国危ふし。万乗の国、其の君を弑する者は、必ず千乗の家なり。千乗の国、其の君を弑する者は、必ず百乗の家なり。万に千を取り、千に百を取る、多からずと為さず。苟も義を後にして利を先にすること為さば、奪はずんば饜かず。

  義を後にして利を先にはからんとすれ奪はずんば厭かず

前川佐美雄『秀歌十二月』八月 古泉千樫

うつし世のはかなしごとにほれぼれと遊びしことも過ぎにけらしも(歌集・川のほとり)

十一首連作の「稗の穂」の中の一首だが、この歌の前にある佳作、

ひたごころ静かになりていねて居りおろそかにせし命なりけり

でもわかるように、これは病臥中の歌である。千樫はこの前年、すなわち大正十三年

に突然喀血して肺病を宣告された。もともと頑健を自信していただけに打撃は大きかった。千葉県の田舎から東京に出て来て職にありついたものの薄給だった。毎日が苦しい陋巷の生活だったのに、不治の病気にかかったのだ。自分を大切にせず、身体を乱暴に、ぞんざいにあつかって来たことを後悔している。この歌はそれのつづきで過去を反省している。

「はかなしごと」は、はかなきこと、はかないことどもというほどの意味だが、千樫の造語だろう。あるいは先用者があるかもしれぬが、よく定着している。ここはどうしてもこれでなければならないようだ。「ほれぼれと遊びし」はおおかたうつつを抜かし遊んだということだろうが、うかうかとしていた、迂闊だったというような思いもこめられてある。むろんこの世の中のことは何もかもがはかないのではないが、心が弱るとそういう気になるものか。酒はきらいな方ではなかったけれど、別に放蕩をしていたわけではない。四人の妻子をかかえて生きあえいでいたのだから「ほれぼれと遊びし」というほどのこともないはずだが、しかし千樫は詩人である。心のぜいたくな人だっただけに、外がわから見ただけではよくわからない。もしかしたら命をかけて作って来た自分の歌を、その歌の世界をいっているかもしれないのだ。そう思うと結句の「過ぎにけらしも」の悲しみは深い。夜を徹して気ままに歌を作ったのも過去のことだ。今はそれも出来なくなったと歎いている。

おもてにて遊ぶ子供の声きけば夕かたまけてすずしかるらし

これも同じ時の作だが、おびただしい書物に狭められた二階の室に臥しながら、涼しくなる秋を待ちかねていた。

秋さびしもののともしさひと本の野稗の垂穂瓶にさしたり

「稗の穂」一連はいずれもすぐれているが、発表当時、中でもこれが一番好評だったと記憶する。「稗の穂」の題もこれによったのだから千樫も自信があったのだろう。(略)今となってみると、この野稗の歌よりは「うつし世のはかなしごと」の歌の方が千樫らしい。本質的な歌人としての千樫をよくあらわしていると思われる。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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