7月10日(木)

朝から、実に暑い。

今村翔吾『茜唄』上を読む。詳しくは下を読んで全体像がわかってからだが、平家物語の新解釈といったらよいか。なかなか興味深いのだ。

  けふわれは車前草を見つけたり草ずまふする妻と争ふ

  どちらが勝つか負くるかは時の運、草の強さも時にかかはる

  広っぱに這ひだして声高に草ずまふと妻は大声に争はむとす

『中庸』第十五章 大いなるかな、聖人の道。洋洋乎として万物を発育し、くして天にる。優優として大いなるかなな。礼儀三百、威儀三千、その人を待ちて而して後に行はる。故に曰く、「苟も至徳ならざれば、至道はらず」と。

故に君子は、徳性を尊び問学にり、広大を致して精微を尽くし、高明を極めて中庸にり、きを温めて新しきを知り、にして以て礼を崇ぶ。

是の故にに居りて驕らず、と為りてかず、国に道あれば、その言以て興すに足り、国に道なければ、その黙以て容れらるるに足る。詩に曰く、「既ににして且つ哲、以てその身を保つ」と。其れ此れを謂ふか。

  聖人たる者は道に明らかで思慮深いそれでわが身を保全する

前川佐美雄『秀歌十二月』八月 伊藤佐千夫

高山も低山もなき地の果は見る目の前に天し垂れたり (同)

明治四十二年四十六歳の作。「二月二十八日九十九里浜に遊びて」と詞書ある七首中五首目の歌である。連作全部粒ぞろいで、晩年の傑作として名高い。佐千夫の出身地は千葉県成東町だから、九十九里浜は近くで故郷みたいなものだ。それでここも前後三回作っている。第一回は三十五年、この時はとりあげていうほどの作はないが、第二回は四十年、七首からなる「磯の月見」には

九十九里の磯のたひらは天地の四方の寄合に雲たむろせり

というような作もあって、この歌に迫るほどだが、なお語が勝ちすぎて美しい調べではあるけれど、うらむらくは歌を小さくしている。それにくらべると、これはその情景が大きいように歌も大きいのだ。高い山も低い山も何もないこの大地のはては、ただ目の前に天の大空が垂れさがっているばかりだ、とその心は大きい。しかもその大空は奥底知れず青いけれど、また何もないかのように暗い。かぎりもなしに澄みきっているようだが、またきびしくとざされているようだ。質実にしてまた淳朴、人生究極の寂寥感みたいなものがこもっている。親鸞を信じ歎異抄を耽読していた左千夫である。そういう宗教的なものも感じられる。重厚なしらべ、まれに見る丈高い歌である。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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