涼しいです。
熊野純彦『源氏物語⁼反復と模倣』を読む。哲学者が読む源氏物語だが、きわめて読みやすい。哲学者ではあるけれど、源氏物語への理解は深い。詠み方も明快であり、「反復と模倣」という主題が、なるほどと思う。
真緑の夏の態様の公孫樹その樹の下にやすらふ息する
いのちの樹夏のいちやうの下陰にしばしやすらふ息つきにけり
丘の上の公孫樹の繁りを見つつゆくその大木の根にむかひをり
『中庸』第十六章二 故に君子の道は、れを身にづけ、諸れを庶民に徴し、諸れを三王に考へてらず、諸れを天地に建ててらず、諸れを鬼神にして疑ひなく、百世以て聖人を俟ちて惑わず。諸れを鬼神に質して疑ひなきは、天を知るなり。百世以て聖人を俟ちて惑わざるは、人を知るなり。
是の故に君子は、動きて世々天下の道となり、行なひて世々天下の法と為り、言ひて世々天下の則と為る。これに遠ざかれば則ち望むあり、これに近づけば則ち厭はず。
詩に曰く、「に在りて悪まるることなく、此に在りてもはるることなし。くは、以て永く誉れを終へん」と。君子未だ此くの如くならずして、而も蚤く天下に誉ある者あらざるなり。
かしこにありても憎まるるなくこちらにゐてもいやがられないこれ君子なり
前川佐美雄『秀歌十二月』八月 伏見院
浦かぜは湊のあしに吹きしをり夕暮しろき波のうへの雨 (風雅集)
「浦」は海や湖の曲がって陸地に入りこんだところ。「湊」は港と同じ、川が海や湖へ流れこむところ。すなわち水門で、船が碇泊したりする。「吹きしをり」は吹き撓うこと、吹き撓んで痛みつける意である。そこでこの浦であるが、この場合は湖であるよりは、海であった方が歌の心にかないそうである。葦は川口へんの水ぎわにはいやというほど生い茂っている。歌意明瞭、といいうほどのこともないが、もう日の暮れ方である、さっきからあやしい雲行きだと思っていたらにわかにかき曇って暗くなってきた。海風がはげしく噴き出して湊の葦を乱している。すると降ってきた、大粒の雨がしのつくばかり降り出したのである。「浦かぜ」といい「吹きしをり」という上の句はむろんのこと、一音多くして「波のうへの雨」と止めた結句は効果的で、よくその情景をいい得ている。暗い夕暮れの海の波の上に。降りしぶき降りけぶる雨あしの白さが見えるようだ。まことにたくみで、上々の叙景歌である。(略)
やむまじき雨のけしきになるなら近き尾の上も雲に消えゆく (同)
これもまことにすぐれた歌だが、たとえばこの歌のように何の心だくみもなく、ごく平易なことばを用いて、目に見ゆる景を飾ることなく、そのまま歌いあげている。しかも雨をいとう心の欝をそれとなくいいふくめ、かつ雲にかくれてゆく山を美しいとながめている。が、その歌を詠む心の中はさびしそうである。歌でも作らねばやりきれないというような思いも汲みとれる。