いい天気である。暑くなりそうだ。
昨日で『中庸』を読み終えたことになる。これで『老子』『論語』『大学』『中庸』までを読んだということだ。しかし道は遠い。せめて四書をと思い、今日からは『孟子』と考えている。宇野精一全訳注『孟子』を使う予定である。
ユトリロの絵を飾りたる喫茶店しづかなりここに珈琲を喫す
パリの町、人を描きて哀感あるユトリロの水彩画親しきものを
硝子箱の中なる球体関節人形ぶきみなるかな夜に動きだす
箱根湯本の商店街のなつかしく温泉饅頭よろこびて買ふ
温泉饅頭にかぶりつくなり妻とわれ旅の途中のよろこびなりき
『孟子』梁恵王章句上1-1 孟子、梁の恵王にゆ。王曰く、「、千里を遠しとせず来る。亦将に以て吾が国を利する有らんとするか」と。孟子対へて曰く、「王何ぞ必ずしも利と曰はん。亦た仁義有るのみ。
さてさて恵王何をばのたまふ利などなしただ仁義あるのみ
今日よりいよいよ『孟子』である。宇野精一に従い、各章断片に分けたものを一編一編読んでいこうと思っている。時間はかかるであろうが。
前川佐美雄『秀歌十二月』 長意吉麿
苦しくも降りくる雨か神が埼狭野のわたりに家もあらなくに (同・二六五)
神が埼(三輪崎)も狭野(佐野)も今は新宮市に編入せられたが、紀勢線で和歌山から新宮に着く一つ手前の駅が三輪埼であり、二つ手前の駅が紀伊佐野で、ともに人家にさえぎられるけれど車中より望みうる海岸の地である。「わたり」は「あたり」ではなく、渡し場で、海にも川にも用いる。この歌はむろん「降り来る雨か」と詠歌しているところがよいのであるが、「苦しくも」という語の意味内容、それに感じがどこか新味を思わせるからか、万葉集中の秀歌として新古今集時代でも評判がよかったらしい。それだからこれを本歌として藤原定家は、
駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ
と詠んだ。(略)しかし定家の歌は口調はよいけれど、しょせんは机上の作である。
(略)いきいきとして実感みなぎる意吉麿の歌とは比ぶべくもないのである。(略)行路困難のさまが思いやられて、情景目に見ゆるごとき作である。