7月23日(水)

毎日暑い。

  立ち上がる珈琲の香に顔よせてその匂ひこれこそ大人の香り

  キッチンに珈琲豆を挽く音す期待が胸をふくらませたり

  ミルクたっぷりその上に砂糖三杯甘くして珈琲を飲む高校一年

「孟子」梁恵王章句上2-3 に曰く、「時の日か喪びん。と偕に亡びん」と。民之と偕に亡びんと欲せば、台地鳥獣有りと雖も、豈能く独り楽しまんや」と。

  呪ひの言葉にこの日いつか亡ぶとあれば台地鳥獣も早晩なくす

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 長塚節

馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひ見るべし (長塚節歌集)

「初秋の歌」と題する連作十二首中第五番目の歌。前後に次のような作がある。

小夜深にさきて散るとふ稗草のひそやかにして秋さりぬらむ

おしなべて木草に露を置かむとぞ夜空は近く相迫り見ゆ

芋の葉にこぼるる玉のこぼれこぼれ子芋は白く凝りつつあらむ

節の代表作としてよく問題にされる。いずれもが傑作で、優劣はにわかにきめら れないが、なお私はこの歌をこそ節のもっとも節らしき作として推奨する。(略)初秋の感はウマオイの声にきわまるといいたい。そのウマオイがあの長い触覚、その髭をうごかしながらやって来た。それを「髭のそよろに来る秋は」と表現した。「そよろ」はそろりと、ゆるりと、おもむろに、というほどの意だが、やはり「そよろ」でないとぴったりこない。だからどこに来たのかなどという愚問を発してはならない。それは庭の木の茂みに来るだけではない。縁がわに来ることもあり、机の上に来ることもある。じっとしている時でも絶えず触覚を動かしている。そういうウマオイを節は子供のころから知りつくしている。あえて写生しようとして写生したのではなく、巧まずしておのずから調べに出て来たかのごとく、天衣無縫を思わせる。とくに下句「まなこを閉ぢて想ひ見るべし」は、上句の繊細に似て、しかも的確なる表現と渾然相和し、冥想にふけっている作者の姿勢をさえも感ぜしめる。清澄限りなき希有の高、品、これをこそ真の象徴というのであろう。(略)この歌は明治四十年、節二十九歳の作、今の三十歳前後の歌人たちには以てゆく考え合わせるとよい。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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