7月27日(日)

暑さ、暑さ。

梶山季之『李朝残影』読了。日本の植民地時代の創氏改名や妓生をモデルにした中編小説が集められて、読むものには、その時代の朝鮮人への差別や日本人であることの強さと弱さがわかる。

かつて、「族譜」も「李朝残影」も読んだはずだが、印象がえらく違う。二十代の私は、いったい何を読んでいたのだろう。

  なにがなしかの官能などやありもせず死の予感ただ怖ろしきのみ

  喜びも苦しみもここで終はらんと思ふにすっきりとはせず

  後戸に踊る宿神のすがたおもふこの世からあの世へいざなふごとく

『孟子』梁恵王章句上3-4 の宅、之をうるに桑を以てせば、五十の者以て帛を衣る可し。の、其の時を失ふ無くんば、七十の者以て肉を食ふ可し。百畝の、其の時を奪ふ勿くんば、数口の家、以て飢うる無かる可し。の教へを謹み、之をぬるに孝悌の義を以てせば、の者、道路に負戴せず。七十の者帛を衣、肉を食ひ、黎民飢ゑずえず。然り而して王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり。

  飢ゑず凍えずあれば然り而して王たらざるものこれ勿し

前川佐美雄『秀歌十二月』九月 会津八一

おほてらのまろきはしらのつきかげをつちにふみつつものをこそおもへ (鹿鳴集)

「唐招提寺にて」の詞書があるが、なくても唐招提寺の歌だということはたれにもわかる。「まろきはしらのつきかげにつちをふみつつ」というのでわかる。とうっ用大寺金堂は、四柱造り本瓦葺の屋根の美しさもさることながら、特徴は基壇の上、正面一間を吹き放しにした八本の列柱びある。柱にはわずかだがエンタシス(ふくらみ)があり、柱間は中央が広く、漸次左右が狭くなっていて大様だ。吹き放しだから月はななめに列柱に射し込む。(略)季節を記していない。けれども「つきかげをつちにふみつつ」だからよい月夜だったには違いない。それに「ものをこそおもへ」である。ものを思う、ものが思われるの意を強調したので、それはやはり秋だったのではあるまいか。私には中秋名月ごろのように思えてならない。(略)

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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