35度まで上がるそうだ。暑い、あつい。
話題の王谷晶『ババヤガの夜』を読む。イギリスのダガー賞の受賞作だというが、この暴力、そして力の世界は、気分を一掃してくれる。私は好きだ。
うなだれて明るき街に迷ひ入る老残あはれやわれに非ざる
いたしかたなくまぢかに死をばおもひみる避けやうのないにあらむ
罪悪も不名誉もありし半生をかへりみてわれどうにかならぬか
『孟子』梁恵王章句上4-2 曰く、「に肥肉有り。に肥馬有り。民に有り。野にり。此れ獣を率ゐて人をましむるなり。獣相食むすら、且つ人之をむ。民の父母と為りて、政を行ひ、獣を率ゐて人を食ましむるを免れず。んぞ其の民の父母るに在らんや。
獣を率ゐて民に食はせずば民の父母たる資格あらんや
前川佐美雄『秀歌十二月』九月 式子内親王
閑なる暁ごとに見わたせばまだふかき夜の夢ぞかなしき (同)
「百首歌の中に、毎日晨朝入諸定の心を」の詞書がある。「毎日晨朝に諸定に入る」は、地蔵延命経の語。「晨朝」は午前六時で朝の勤行。「諸定に入る」は禅定に入って心身を澄ませて念じること。一首の意は、「しずかな暁ごとに起きて禅定に入ってゆくけれど、まだ夜ふかい感じで夢から覚めきらぬ思いがして悲しい」というおもむきである。(略)禅定の中を、自分自身を、と解して間違いではないが、なおそれだけでは不十分だ。こういうのは直観で感じとるほかないのである。人生をあきらめ、長夜の眠りを念じている人の歌だ。運命とはいえ、皇室制度の犠牲になって、一生を台無しにし、病身ついに出家して尼となった人の歌ではないか。煩悩も悟りもあったものではない。何もかもから抜け出して、ただしずかな死を待っている。その心を汲みとって、もっと純粋にことばのままを、そうしてそこからにじみ出るだけを感じとればよい。前の歌とともに、こういうのこそ真の象徴歌というのであろう。当代は才媛時代だが、だれも式子内親王には及ばなかった。じつに抜群の天才だった。それは前代の和泉式部と双璧の感があるが、運命はともに仏門に入り尼になって不遇の生涯を閉じた。内親王の法名は承如法と申し上げる。