今日も暑い。
役にたたぬをぶらりぶら提げていまだ女の匂ひに応ず
男としてはすでに役にたたぬものせうべん禁止の黒塀にかける
臭ひたつ温きゆばりを黒塀にかけるものの老いには勢ふばかり
『中庸』第十一章二 博くこれを学び、らかにこれを問ひ、慎みてこれを思ひ、明らかにこれを弁じ、篤くこれを行なふ。学ばざることあれば、これを学びて能くせざれば措かざるなり。問はざることあれば、これを問いて知らざれば措かざるなり。思はざることあれば、これを思ひて得ざれば措かざるなり。弁ぜざることあれば、これを弁じて明らかならざれば措かざるなり。行なはざることあれば、これを行なひて篤からざれば措かざるなり。人一たびしてこれを能くすれば、己れはこれを百たびす。人十たびしてこれを能くすれば、己れはこれを千たびす。果たして此の道を能くすれば、愚なりと雖も必ず明らかに、柔なりと雖も必ず強からん。
百たびも千たびも力尽くすさすれば愚や柔のものでも賢明・強者に
前川佐美雄『秀歌十二月』七月
君に恋ひも術なみの小松が下に立ち嘆くかも (万葉集巻四・五九三)
笠郎女の伝は未詳。巻三、巻四、巻八に歌がある。あわせて二十九首、すべて大伴家持に贈った歌である。これは巻四の一連二十四首中の七首目の歌、巻四はことごとく相聞である。平山は文字通りたいらかな、なだらかな山の意で、丘陵のような地形地勢からきている。奈良、寧楽、平城、楢などの字が当てられる。平城京の北がわに東西にとぎれがちにつづく丘陵全体の称で、(略)電車で西大寺から奈良への途中、北の方に見えるのがそれである。当時も小松ぐらいしか育たなかったか、ほかに「平山の小松が末の」(巻十一・二四八七)歌もあり、今とたいしてちがいはなかったようだ。(略)だいたいが低いマツの林でなかに池や池をめぐらす山陵や古墳があり、また有名な古寺も多いから奈良公園に満足しない人々のよい散策地になっている。
この歌は家持に対する恋情を持てあましているふうだ。うらみごとをいっているのではないが、どうにもならない悶々の情を訴えながら、ひどくやるせなさそうなのがあわれである。たれも人のいない奈良山のなかにはいってきて、あたかも少女のように嘆いている。それは少女であったかもしれないのだが、二十歳前の少女ではないだろう。才女にはちがいないが、これはかなり歌の修練を積んだ女の歌と思われるからだ。家持のところへ出入りして、多くの女たちといっしょに文学の勉強をしたのではないか。そうしているうちに家持を好きになった。けれど師である。それに身分もちがう。とげられそうもない片恋をひとりひそかに嘆いているのだ。この可憐な「小松が下に立ち嘆く」という下の句がじつによい。「立ち嘆く」だからよいので、「立ち嘆きつる」だったらよさが半減する。しかし原本、「鴨」が後に「鶴」に書きかえられたので、「鶴」の訓もひろく行われている。この歌の次に
わが屋戸の夕影草の白露の消ぬがにもとな思ほゆるかも (同・五九四)
というような繊細で、洗練された流暢な歌もあり、また
相念はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後に額づく如し (同・六〇八)
というような奇抜な歌もある。(略)相当な才能である。