またまた暑い。
夢のうちにビルケナウちふ地名ありアウシュビッツの名称なりき
ナチス・ドイツがもっとも多く犠牲者を出したる絶滅収容所なり
ビルケナウに行かねばならぬと思へどもおそらくわれにはかなはざること
『中庸』第十三章 至誠の道は、以て善知すべし。国家将に興らんとすれば、必ずあり。国家将に亡びんとすれば、必ずあり。にはれ、四体に動く。禍福将に至らんとすれば、善も必ず先にこれを知り、不善も必ず先にこれを知る。故に至誠は神の如し。
子曰く、「鬼神の徳たる、其れ盛んなるかな。これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず、物を体して遺すべからず。天下の人をして、斉明盛服して、以て祭祀をけしむ。洋洋乎として、その上に在るが如く、その左右に在るが如し」と。
詩に曰く、「のるは、るべからず、んやうべけんや」と。
れ微の顕なる、誠のふべからざるは、此くの如きかな。
そもそもは微の顕たるといふべしや誠があれば隠れることなし
前川佐美雄『秀歌十二月』 釈迢空
葛の花踏みしだかれて色あたらあしこの山道を行きし人あり (歌集・海やまのあひだ)
迢空の歌は、(略)特殊な表記法によっている。このクズの花の歌にしても、
葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり
と書かれており、これにつづく歌は
谷々に、家居ちりぼひ ひそけさよ。山の木の間に息づく。われは
というふうである。これについて『海やまのあひだ』の後記に「私が、歌にきれ目を入れる事は、(略)文字に表される文学としては、当然とるべき形式」「歌の様式の固定を、自由な推移に導く予期から出てゐる」などと、くわしくその理由を説明しているが、迢空自身が「私の友だちはみな、つまらない努力だといったとしるしている。(略)しかし迢空はそれをやめなかった。たれが何といおうといっさいとりあわなかった。断固として生涯それでおしとおしたのである。
『海やまのあひだ』は迢空の処女歌集で、大正十四年の刊行である。正直にいってその特殊な表記法にはいくらかのこだわりを感じたけれど、それでも何となく心ひかれるものがあった。この歌集は明治三十七年ごろのごく初期の作から逆年順に配列されてあって、これは大正十三年「島山」十四首中の第一首目の歌、巻頭に置かれてある。
「クズ」は山野に自生する多年生蔓草。晩夏初秋ころの葉腋に花穂を出し、紅紫色の蝶型花をつづる。フジの花を立てたような形に咲く、秋の七種のひとつである。「踏みしだかれて」は、踏みあらされて、または踏みつぶされ踏み乱されていうぐらい。「色あたらし」は、踏みつぶされて花がかえってなまなましく新鮮に感じられることをいっている。わかりやすい歌で、ほとんど解説を要せぬほどだが、しかし深い沈黙と孤独を感じる。それはいずこの島山であるかを知らなくても、クズがいっぱいにはびこっている山道である。長い峠なのだろうが、そこを越えないかぎり目的地にはたどりつけない。蒸すような草いきれである。暑い日ざしに汗あえながら、ひとり黙々と歩いている。その時、自分より先に通った人のあるのを知った。クズの花がふみしだかれていたのだ。まったく孤絶したひとときだっただけに、驚きに似た人なつかしさを感じた。これは事実そのままを叙したのだけれど、一音多くして終止形にした三句は、その踏み乱されたクズの花を見て立ちどまっている旅人のおもかげが見えるし、
またそれゆえにわりあい単調な下句が救われているだけでなく、このような山道を自分より先に通り過ぎた人があったということに対する感慨、その未知未見の人とのかりそめならぬ所縁を心ふかく思っているやうなおもむきもある。迢空は生涯妻帯をしなかった人だ。そういう人のどこかさびしそうなうしろかげを感じさせる歌で、早くより迢空の代表作として膾炙している。