朝、少し風があるが、35℃になるらしい。暑い。
トイレに行きうんこが出ぬ時のわが孤独たった一人に便器に坐る
便器の上がほとけのいます場所なるかしばし動かず大便を出す
独りにてトイレにこもり雲古するもっとも孤独なわれならむかな
『中庸』第十四章二 天地の道は、にして尽くすべきなり。その物たるならざれば、則ちその物を生ずること測られず。天地の道は、博きなり、厚きなり、高きなり、明らかなり、悠かなり、久しきなり。
今れ天は、斯のの多きなり。その窮まりなきに及びては、日月星辰り、万物も覆はる。今夫れ地は、の多きなり。その広厚なるに及びては、を載せて重しとせず、河海を振めて洩らさず、万物も載る。今夫れ山は、の多きなり。その広大なるに及びては、草木これに生じ、禽獣これに居り、宝蔵興る。今夫れ水は、一勺の多きなり。その測られざるに及びては、生じ、貨財殖す。
詩に曰く、「惟れ天の命、於穆として已まず」と。蓋し天の天たる所以を曰ふなり。
「、いに顕かなり、文王の徳の純なる」と。蓋し文王の文たる所以を曰ふなり。純も亦た已まず。
惟れ天の命はああ穆として已まず文王の徳も純一なり
前川佐美雄『秀歌十二月』八月 伊藤佐千夫
庭のべの水づく木立に枝たかく青蛙鳴くあけがたの月 (伊藤佐千夫歌集)
「水籠十首」中九首目の歌。詞書がある。「八月二十六日、洪水俄かに家を浸し、床上二尺に及びぬ。みづく荒屋の片隅に棚ようの怪しき床をしつらひつつ、家守るべく住み残りたる三人四人が茲に十日余りの水ごもり、いぶせき中の歌おもひも聊か心なぐさのすさびにこそ」と、明治四十年左千夫四十四歳の時だった。今もそうであるように、東京の本所深川へんはよく水の浸くところ。佐千夫はそのあたりに住んでいたから、この時と前後三回その害をこうむっている。四十三年がもっともひどかったらしく、床上水五尺、辛うじて人間と、飼っていたウシだけが助かったという。それでも「心なぐさのすさび」であったのか、初めての三十三年には「こほろぎ」十首を、四十三年には「水害の疲れ」六首を作っている。
うからやから皆にがしやりて独居る水づく庵に鳴くきりぎりす (三十三年)
水害ののがれを未だかへり得ず仮住の家に秋寒くなりぬ (四十三年)
いずれもその中の佳作であるが、しかもなお「庭のべの水づく」歌には及ばないようだ。青蛙はむろん雨蛙だが、「雨」をいったのでは水に即きすぎる。それよりは青い色をいいたかった。あけがたの月に対して「青蛙」が新鮮に感じられるからだ。その雨蛙があけがたの月に鳴くというのだから、雨はとっくにやんで空は澄んでいたのだ。
が、水はなかなかひかない。疲労と不安に一夜まんじりともしなかった朝がただけに、その月の光がただならぬように感じられた。まして時ならぬ雨蛙の声だ。異様な感じがして、荒涼ひとしお加わる思いがしたのである。土屋文明は「青蛙鳴く明けがたの月」の名詞止めのところに俳句調を感じるといったが、そういえば下句全体が俳句調であるよりは俳句的なのではあるまいか。これはやはり子規からきているものと思われるけれど、それよりは子規の即興的で、一首のあとつづけて幾首か作るという、その連作なるものを、それを作歌態度として承けついでいることの方が重大である。この歌にしても十首連作の中の一つであり、他の二回の水害の場合も同じであったが、子規とちがうのはそれはもはや即興などではなく、一首々々を丹念に精魂をこめて作るという文学者的態度に変ってきている。(略)なお左千夫はたれでもが知っている有名な
牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる
の柄の大きい堂々とした歌でもわあるように、本業は牛乳搾取業だったのだから、牛飼いにはちがいない。何頭かの牛の飼われている小屋が水びたりになっている。そんお情景を思いうかべてこの歌を味わいたい。