暑いが、今日から蓼科だ。圏央道を使って八王子ジャンクションを抜けて中央高速へ。
談合坂、双葉で休んで諏訪南。そして蓼科へ。
いづこにも線状降水帯湧きだせり。扇子、sense、センスを吹き飛ばしたり
コカ・コーラに氷五つを入れて飲むあまりの暑さは氷を増やす
少しばかり甘い飲み物が欲しいときコカ・コーラ飲む、黒い液体
『孟子』梁恵王章句上7 斉の宣王問うて曰く、「斉桓晋文の事、聞くにきか」と。孟子対へて曰く、「仲尼の徒、桓文の事を道ふ者無し。是を以て後世伝ふる無し。臣未だ之を聞かざるなり。以む無くんば則ち王か」と。曰く、「徳如何なれば則ち以て王たる可き」と。曰く、「民を保んじて王たらば、之れ能く禦ぐ莫きなり」と。曰く、「寡人の若き者は、以て民を保んず可きか」と。曰く、「可なり」と。「何に由りて吾が可なるを知るや」と。曰く、「臣之を胡齕に聞けり。
孟子曰ふ民を安んじ王たれば阻止することは誰にも出来ず
前川佐美雄『秀歌十二月』十月 金子薫園
鳳仙花照らすゆふ日におのづからその実のわれて秋くれむとす (歌集・片われ月)
ホウセンカは鶏頭とともにその名に似ず鄙びた花である。(略)悲しきばかり日本の風土を思わせる花で、その莢のような実は自然に割れて茶褐色の種子をはじきとばせる。この歌はそういう状態に目をとどめて、何の作為を加えることもなく、たんたんと歌いあげて静かな晩秋の感を出すに成功した。これについて作者の自注がある。「明るい、乾いた大気の中に実のはぜる音を一首にひびかせたのです。秋のさびしさではなく、秋の明るさ、さやけささを現したものでなければなりません」といっている。たしかにそのいう秋の明るさ、さやけさが現れていて同感させられる。
処女歌集『片われ月』の巻頭に近いところに出ている唄だ。『片われ月』は明治三十四年一月の発行。薫園二十六歳になったばかりだから、これは二十歳をいくつも出ないころの作なのだろう。それを思うとやはりなかなかの才人だが、『片われ月』巻頭の
あけがたのそぞろありきにうぐひすの初音ききたり薮かげの道
おぼろ夜を何とはなしにひと枝をりてもたせてやりぬ白桃の花
駒ながらうたうを手むけて過ぎにけり関帝廟のあけがたの月
などとはかなりおもむきを異にしており、(略)しかし薫園の歌は、(略)清麗温雅、内容は淡、形式は雅などといって、その特徴を自然味ある温雅なおもむきにあるとしている。たしかにそれが薫園の持ち味であり本領であって、生涯ほとんど変わることがなかった。(略)一口にいえばその歌は温雅だけれど突き込みがたりない。対象への食い入り方が弱いようだ。詩心の充実に乏しく強い律動感がないように思われる。「あけがたのそぞろありき」の歌などは、当時薫園の代表作のようにいわれたものだが、今日となってみれば色あせた感じ。どこか古風で、古今集を現代に歌いかえたのではないかと思うほどである。かえってこのホウセンカの歌に本当の薫園が出ている。薫園のよさを代表する一首である。