8月6日(水)

暑いが、今日から蓼科だ。圏央道を使って八王子ジャンクションを抜けて中央高速へ。

談合坂、双葉で休んで諏訪南。そして蓼科へ。

  いづこにも線状降水帯湧きだせり。扇子、sense、センスを吹き飛ばしたり

  コカ・コーラに氷五つを入れて飲むあまりの暑さは氷を増やす

  少しばかり甘い飲み物が欲しいときコカ・コーラ飲む、黒い液体

『孟子』梁恵王章句上7 斉の宣王問うて曰く、「斉桓晋文の事、聞くにきか」と。孟子対へて曰く、「仲尼の徒、桓文の事を道ふ者無し。是を以て後世伝ふる無し。臣未だ之を聞かざるなり。以む無くんば則ち王か」と。曰く、「徳如何なれば則ち以て王たる可き」と。曰く、「民を保んじて王たらば、之れ能く禦ぐ莫きなり」と。曰く、「寡人の若き者は、以て民を保んず可きか」と。曰く、「可なり」と。「何に由りて吾が可なるを知るや」と。曰く、「臣之を胡齕に聞けり。

  孟子曰ふ民を安んじ王たれば阻止することは誰にも出来ず

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 金子薫園

鳳仙花照らすゆふ日におのづからその実のわれて秋くれむとす (歌集・片われ月) 

ホウセンカは鶏頭とともにその名に似ず鄙びた花である。(略)悲しきばかり日本の風土を思わせる花で、その莢のような実は自然に割れて茶褐色の種子をはじきとばせる。この歌はそういう状態に目をとどめて、何の作為を加えることもなく、たんたんと歌いあげて静かな晩秋の感を出すに成功した。これについて作者の自注がある。「明るい、乾いた大気の中に実のはぜる音を一首にひびかせたのです。秋のさびしさではなく、秋の明るさ、さやけささを現したものでなければなりません」といっている。たしかにそのいう秋の明るさ、さやけさが現れていて同感させられる。

処女歌集『片われ月』の巻頭に近いところに出ている唄だ。『片われ月』は明治三十四年一月の発行。薫園二十六歳になったばかりだから、これは二十歳をいくつも出ないころの作なのだろう。それを思うとやはりなかなかの才人だが、『片われ月』巻頭の

あけがたのそぞろありきにうぐひすの初音ききたり薮かげの道

おぼろ夜を何とはなしにひと枝をりてもたせてやりぬ白桃の花

駒ながらうたうを手むけて過ぎにけり関帝廟のあけがたの月

などとはかなりおもむきを異にしており、(略)しかし薫園の歌は、(略)清麗温雅、内容は淡、形式は雅などといって、その特徴を自然味ある温雅なおもむきにあるとしている。たしかにそれが薫園の持ち味であり本領であって、生涯ほとんど変わることがなかった。(略)一口にいえばその歌は温雅だけれど突き込みがたりない。対象への食い入り方が弱いようだ。詩心の充実に乏しく強い律動感がないように思われる。「あけがたのそぞろありき」の歌などは、当時薫園の代表作のようにいわれたものだが、今日となってみれば色あせた感じ。どこか古風で、古今集を現代に歌いかえたのではないかと思うほどである。かえってこのホウセンカの歌に本当の薫園が出ている。薫園のよさを代表する一首である。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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