8月15日(金)

八十回目の敗戦の日だ。敗戦なのだ、そのことをもう一度確認せよ。暑い。

温又柔『恋恋往時』読了。台湾語と中国語、そして日本語、その三か国語が混在して、けっこうわかりにくい。台湾らしい味のある話だと思うものの、けっこう入り組んでいる。

  田に降りて白鷺細き肢はこぶ稲穂だれて乾ぶるところ

  乾びたる地に雨蛙も干乾びていきかへりこぬか乾燥がへる

  籾重く穂に垂れてそろそろ刈り時なり黄金の時をただ惜しむべし

『孟子』梁惠王章句上7-10 今、王政を発し仁を施さば、天下の仕ふる者をして、皆、王の朝に立たんと欲し、耕す者をして皆、王の野に耕さんと欲し、商賈をして皆、王の市に蔵せんと欲し、行旅をして皆、王の塗に出でんと欲し、天下の其の君を疾ましめんと欲する者をして皆、王に赴き愬へんと欲せしむ。其れ是の若くんば、孰か能く之を禦めん」と。

  王を発すれば王にきへんたれかよくこれをめん

前川佐美雄『秀歌十二月』十月 有馬皇子

家にあれば笥に盛る飯を草まくら旅にしあれば椎の葉に盛る (同・一四二)

二首目の歌である。「笥」は食物を盛る器で、金属製であったろうといわれる。一首の意は、「家にいる時はりっぱなうつわで食べる飯だけれど、こうして心にまかせぬ旅先でのことだ。やむなく椎の葉に盛って食べている」というのである。前の歌は「真幸くあらばまたかへり見む」と感慨が洩らされていたが、これはただ食べるうつわのちがいいっているだけである。それだのに前の歌におとらず切切と心に沁みわたるのは、むろん「椎の葉に盛る」をあわれと感じるからだが、何気ないようにいっている一、二句の「家にあれば笥に盛る飯を」は、すべてをあきらめているかのごとくである。だから「草まくら」の枕詞も「旅にしあれば」とつづくしらべが、意味なき枕詞をしていうにいわれぬ意味をよみがえらせて、ひとしお深い哀感をそそらせるのだ。(略)私には椎の葉に飯を盛って食べているのではないと困るのである。

偏屈房主人
もともと偏屈ではありましたが、年を取るにつれていっそう偏屈の度が増したようで、新聞をひらいては腹を立て、テレビニュースを観ては憮然とし、スマートフォンのネットニュースにあきれかえる。だからといって何をするでもなくひとりぶつぶつ言うだけなのですが、これではただの偏屈じじいではないか。このコロナ禍時代にすることはないかと考えていたところ、まあ高邁なことができるわけもない。私には短歌しかなかったことにいまさらながら気づき、日付をもった短歌を作ってはどうだろうかと思いつきました。しばらくは二週間に一度くらいのペースで公開していこうと思っています。お読みいただければ幸い。お笑いくださればまたいっそうの喜びです。 2021年きさらぎ吉日

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