八十回目の敗戦の日だ。敗戦なのだ、そのことをもう一度確認せよ。暑い。
温又柔『恋恋往時』読了。台湾語と中国語、そして日本語、その三か国語が混在して、けっこうわかりにくい。台湾らしい味のある話だと思うものの、けっこう入り組んでいる。
田に降りて白鷺細き肢はこぶ稲穂だれて乾ぶるところ
乾びたる地に雨蛙も干乾びていきかへりこぬか乾燥がへる
籾重く穂に垂れてそろそろ刈り時なり黄金の時をただ惜しむべし
『孟子』梁惠王章句上7-10 今、王政を発し仁を施さば、天下の仕ふる者をして、皆、王の朝に立たんと欲し、耕す者をして皆、王の野に耕さんと欲し、商賈をして皆、王の市に蔵せんと欲し、行旅をして皆、王の塗に出でんと欲し、天下の其の君を疾ましめんと欲する者をして皆、王に赴き愬へんと欲せしむ。其れ是の若くんば、孰か能く之を禦めん」と。
王を発すれば王にきへんたれかよくこれをめん
前川佐美雄『秀歌十二月』十月 有馬皇子
家にあれば笥に盛る飯を草まくら旅にしあれば椎の葉に盛る (同・一四二)
二首目の歌である。「笥」は食物を盛る器で、金属製であったろうといわれる。一首の意は、「家にいる時はりっぱなうつわで食べる飯だけれど、こうして心にまかせぬ旅先でのことだ。やむなく椎の葉に盛って食べている」というのである。前の歌は「真幸くあらばまたかへり見む」と感慨が洩らされていたが、これはただ食べるうつわのちがいいっているだけである。それだのに前の歌におとらず切切と心に沁みわたるのは、むろん「椎の葉に盛る」をあわれと感じるからだが、何気ないようにいっている一、二句の「家にあれば笥に盛る飯を」は、すべてをあきらめているかのごとくである。だから「草まくら」の枕詞も「旅にしあれば」とつづくしらべが、意味なき枕詞をしていうにいわれぬ意味をよみがえらせて、ひとしお深い哀感をそそらせるのだ。(略)私には椎の葉に飯を盛って食べているのではないと困るのである。